一.八十合神・影鰐(カゲノワニ)
女神ウズメが意識を取り戻すと、目の前に広大な青い海が広がっていた。遠くに目を凝らしてみるが、白い煙のようなものに覆われていて見通す事ができない。
(あれ……ここは……? どこだっけ)
海の美しさとは裏腹に、彼女の倒れていた地面は相変わらずの灰色であり、ここが黄泉の国の一部だと気づかされる。
(そっか……オオゲツちゃんとタヂカラオが泥に沈んで、あたしとウケモチくんも……完全に、みんなとはぐれちゃったのか……)
皆と歩いている最中、地面が熱を帯び泥化して足を取られ……そのまま飲み込まれて意識を失ってしまったらしい。
傍らには闇を纏った小さな神ウケモチが、同じく意識を失ったまま倒れていた。
幸い身体に傷も火傷も見当たらなかったが、吹き荒ぶ風は冷たく、ツクヨミたちの行方も知れず、心細い。
「起きて、ウケモチくん……大丈夫? しっかりして」
ウズメはウケモチを起こそうと彼に近寄り、肩を叩いてみた。
いきなり頭を揺さぶったりするのは危険だと、大陸で交流のあった医術の神から聞いた事があったからだ。
口元に手を当てると、呼吸をしているのが分かる。幸い深刻な事態ではなかったらしく、ウケモチはうっすらと目を開けた。
彼は桃弓と葦矢を身に着けており、特性の巾着(桃の実や武器など、様々な道具を入れている)も無事だ。そして泥に飲み込まれる直前に咄嗟に掴んだのか、イザナギの残した葡萄をしっかり握り締めていた。
(あたしの持ち物は……
筆架叉二つにオオゲツちゃんから貰った絹の比礼。
よかった。お互いに失くした物はないみたいね……)
「…………ウズメ、か…………?」
「よかった、ウケモチくん。目が覚めたのね」
「……オオゲツ……は……?」
「ごめん、分からない。はぐれちゃったみたい……
ここにいるのは、あたしとウケモチくんだけ」
ウケモチはウズメの言葉に落胆の色を隠せなかった。
彼にとってオオゲツヒメは、己の半身と言っても良いほど特別な存在なのだ。
だが先刻の状況からして、傷も負わず持ち物も紛失しなかった事は幸運といってよい。
嘆息は出たが、すぐに起き上って辺りを見回した。
「なんだここ……海か? 黄泉の国の中に、こんな場所があるなんてな……」
ウケモチが不思議そうにしみじみと言った。鉛の曇天と灰色の大地はいつも通りなだけに、眼前の透き通るような青い景色は奇異に映った。
ウズメも同じ思いだったらしく、しばし青い海に視線が釘づけであったが、段々と違和感を覚えた。
「韓国に渡った時に見た海とは、全然雰囲気が違うわね……
白煙のせいで遠くが見えないし、なんだか熱いような……?」
彼女はそう言いつつ、そっと爪先を海に触れてみる。すると……
「熱ッ!?」
予想より遥かに高い水温を感じ、ウズメは慌てて足を引っ込めた。
幸いにして焼けただれるという程ではなかったが、限りなく沸点に近い高温の水である。迂闊に入り込めば低温火傷は免れなかったろう。
「……何なのよ……ここ……?」
ウズメとウケモチが、不安そうに広大な海原の先を見ると……何かが凄まじい波しぶきを上げ、こちらに接近しつつあった。
目を凝らしている間に、白煙も晴れ、彼らの姿が段々とはっきりしてくる。
それは十艘からなる、巨大な葦の舟の艦隊だった。牛の角を持ち、虎縞の腰布を纏った屈強そうな鬼が、一艘につき十以上の姿が見える。
総勢で百以上はいるだろうか? 鬼たちは黄泉軍と呼ばれる、イザナミに仕える獄卒の兵隊である。
しかし何より異彩を放っているのは、葦舟の先頭に立つ、でっぷり太った黒光りする雷神であろう。
海岸まで近づいてくる黄泉軍と雷神に、二柱は迎え撃つべく即座に身構えた。
「……意識、戻ったかァ……?」雷神はたどたどしい、くぐもった声を上げた。
「……よがったァ。気がついたんだな! 名前、聞いてもいいかァ?」
明らかに敵なのは間違いないだろうが、何とも悠長な語りである。
「高天原の女神、ウズメよ」
「オイラは闇の神……ウケモチって、呼ばれてるモンだ」
「……ウズメ! ウケモチ! どっちも知らねえ名だァ」
雷神は轟くような大声を上げ、何やら落胆したような様子だった。
「オデは……黒雷……! 黄泉大神さまにお仕えする……腹に宿りし雷神だァ!
ここは……オデの管理する……海地獄……!
おめェらを、食い殺していいと……大神さまはおっしゃっただァ。
ンでも、残念だぁ。女は肉が柔らかそうだがァ……そっちのチビは一口で平らげちまいそうだァ……」
黒雷。黄泉の女王イザナミに仕えし八雷神の一柱の名である。
高天原で太陽神アマテラスが襲撃された時、スサノオの投げ入れた暴れ馬を殺し、皮を逆剥ぎにして貪り食らっていた穢れし神だ。
「どうせ食うなら……あの大男の神や、太った女神のいる方がよがったなァ……」
「好き勝手言ってくれるじゃあねーか、神のくせにブクブク太りやがって」
ウケモチは怒りを露わにして言った。
「それにオオゲツは太ってる訳じゃあねえ! ふくよかな体型って言うんだよ! てめェと一緒にすんなッ!」
「チビ……おめェ……何言ってる……?」
黒雷は首をかしげている。あまり頭の回転は良くないらしい。
「オデ……あいつら……褒めてるづもり……! 肉が沢山あって……とっても食べ応えありぞうだものなァ……!」
肥満体の雷神は、涎を撒き散らして夢見がちな瞳で曇天を仰いでいる。
その奇怪でおぞましい様子に、ウズメもウケモチも思わずたじろいだが……真の衝撃はここからであった。
黒雷の大口が、見る見るうちに開いていき……その顎が臀部に達するまで裂け落ちたのだ。
そして上下ではなく、左右に開いた。頭から臍まで大きく裂けた全てが、雷神の口であった。中には無数の鋸のような鋭利な歯が生えており、すさまじい悪臭が漂ってくる!
次の瞬間、雷神の口が襲ったのは……彼の従えている、傍らにいた黄泉軍たちであった!
『!?』
二柱が驚いている間に、黒雷は逃げ惑う獄卒どもを乗っている葦舟ごと次々と平らげ、その胃袋に収めていく。
百はいたはずの黄泉の軍勢は、大した時間もかからずに貪欲な雷神に食べ尽くされてしまった。
「ちょ……何やってんだよお前……! そいつら、お前の手下だろう……!?」
おぞましい光景が繰り広げられ、上ずった声を上げるウケモチ。
「ぞうとも……大神さまより借り受けた、オデの手下だァ……
どう扱おうと、オデの勝手だァ!!」
轟雷のような唸り声を上げ……黒雷の肉体は瞬く間に変貌していく!
気がつけば鉛色の曇天は、不吉な漆黒の雷雲へと変わっており、周囲の海に次々と雷が落ちていった。
息を飲むウズメとウケモチ。
雷神の姿は……この海地獄すべてを覆い尽くさんばかりの巨大な、黒光りする鮫の姿となっていた。
「……オデは……八十合神……影鰐……!!」
黄泉軍を食らい、その穢れを体内に取り込んだ事で、格段に力を増したのだ。
島ひとつ軽々と一呑みにしそうなほどの巨躯を持った黒鮫は、二柱に向けて大口を開けて迫ってきた!
「……とっとどお前ェらを食い殺してェ……
他の神々もオデの腹ン中だァァァァ!!」




