十一.舞神ウズメの神憑(がか)り
──舞踊も、格闘も……その本質は似ているのだよ、ウズメ。
韓国に渡った際、大陸から来たという舞踊の神がウズメに教えてくれた。
──自然と完全に一体化するまで、明鏡止水の心で、極みに到達するのだ。
──めいきょう、しすい?
──曇りなき鏡のように、静かな水面のように。邪念を持たず、澄み切った落ち着いた心を持つ事だよ。
何も知らなかったウズメに対し、彼は優しく、心穏やかに色々と教えてくれた。
彼に教わった舞をウズメは天性の感覚で、海綿が水を吸うがごとく次々と修得していった。
──その極致は、まさに天衣無縫。究極の美だ。誰もが心奪われずにいられない。
──てんい、むほう?
──縫い目なき天女の衣のように、小手先の技のようなわざとらしさもなく、自然で巧みで完全な事だよ。
しかしウズメの天稟の才覚を以てしても、舞踊の神の真髄──天衣無縫の極みに到達するには至らなかった。
(あの頃は……何かが足りない、そう感じていた……)
きっかけは、月の神ツクヨミとの出会いだった。
黄泉比良坂でツクヨミの闇の御衣に触れた時、彼女は確信を抱いた。
(月の光の力が……あたしの舞に魄を宿してくれる……
頭の中の雑念も邪念も全て洗い流し……『天衣無縫』の舞を……宿らせる!)
ウズメは目を閉じた。ツクヨミの化身たる黒の勾玉がもたらす、心の闇の世界。
舞の女神の肢体は、自然と動いていた。あるべき形に。絶え間なく満ち欠けする月のように。
「ひふみよ……いむなや……」
ウズメの口から、赤子が最初に覚えるかの如く自然な、一二三祝詞の言霊が漏れ紡がれる。
祝詞に合わせ、彼女の身体も自然と動く。右に、左に、前に、後ろに。
「ひふみよ……いむなや……」
あるべき姿に。自然に。月夜の後に、再び太陽が昇り来る事を願うべく。
節奏。旋律。舞踏。その全てが、一つとなる──
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満身創痍のスサノオとタヂカラオに対し、さらなる絶望が間近に迫っていた。
新たな黄泉醜女が二体、いつの間にか姿を現していたのだ。
三体目の亡者は頭が半分欠けており、身体は黄色く濁った骨がところどころ露出している。四肢に至っては両脚の膝から下が無い。
四体目の亡者はもはや男女の区別もままならぬほど腐敗が進み、腹部から五本目の腕が歪に生えている。それが天に向かってだらしなく伸びていた。
生者から見ればおぞましさを通り越して、なぜ蠢いているのか不思議な異形であったが、いずれも凄まじい穢れをその身に宿し、力ある亡者である事は疑いようがない。
「……どうする、タヂカラオ……二体だけでもこのザマだってのに……さらに増えやがった」
スサノオは最初の左脇腹の傷以外は意外にも軽傷であったが、疲労の色は濃い。
深刻なのはタヂカラオであった。醜女の桁違いの速度に対応できず、逞しい肉体の至る所に傷を負い、穢れが侵蝕しようとしている。
致命傷に至らず何とか立っていられるのは、タヂカラオに宿る神力の強さを表しているが、こうも一方的に嬲られるだけでは先は見えている。
タヂカラオからの返事はない。あのいつも陽気な怪力神ですら、言葉を返すほどの余裕もなくなっているのか。
その時だった。四体の黄泉醜女の雰囲気が、明らかに変わった。
「…………?」
スサノオは己に向けられていた亡者どもの視線が、後方に注がれた事に違和感を覚えた。
振り返るとウズメが舞っていた。目を閉じ、筆架叉を捨て……その衣服も激しい踊りの為に、徐々に胸元がはだけかかっていた。
「なッ……ウズメちゃん……!?」
スサノオは目を疑ったが、次の瞬間には彼女の舞に……魂が吸い込まれるような感覚で魅入っていた。
欲情の類ではない。自然な動き。自然な流れ。彼女の織り成す『天衣無縫』に、ただ魅入っていた。
「……ひふみよ……いむなや……」
祝詞を紡ぐ。本能の赴くままに、ただ舞う。舞い続ける。
ツクヨミのもたらす月の神力が、ウズメの心をますます澄み渡らせ、舞う動きは見る間に洗練されていく。
スサノオやタヂカラオが消耗していたせいもあるが、今やこの場の誰よりも強い「陽の気」を纏っているのはウズメであった。
黄泉醜女たちは即座に反応した。彼女らは矛先を変え、四体が四体ともウズメの舞に釘づけになる。
ギギギギシシシシッッッッ!!!!
新たな活きのいい獲物を見つけた悦びから、亡者どもは蟲の羽音の如き醜い笑い声を上げた。
「……囮か!? ダメだ、ウズメちゃん! 餌食になるだけだ……!」
スサノオは我に返り、切羽詰まって叫んだが、恍惚状態に入っている女神に声が届いた様子はない。
「待てスサノオ。様子が変だ……ツクヨミも勾玉になってるし」
庇おうと動くスサノオを制するタヂカラオ。もっとも二柱に、もう間に入って何とかする力は残っていないのかも知れないが。
黄泉醜女のうち一体が、視界から消えた。ウズメに超速で襲いかかったのだ!
ウズメは意に介した様子もなく、一心不乱に踊っている。
その緩慢な動きは、亡者のそれに対抗すらできない……筈だった。
ドガアッッ!!
次の瞬間、消えた黄泉醜女の身体が地面にめり込んでいた。
いかにして突進を躱したのか、ウズメは傷一つなく、未だに舞い続けている。
ギギッ……ギイッ……!?
ドドドドゾゴゴゴゴォッ……!!
黄泉醜女は超速の勢いのまま、地面を何十間(註:一間は約1.8メートル)も抉ってようやく止まった。
その勢いと力で、彼女の腐りかけた肉体はグチャグチャに崩壊しており、四肢も内臓もあらぬ方へと飛散している。あの様子ではもう立ち上がれまい。
「何だ……何が起きた! 今の、見えたか? タヂカラオ」
「お前に見えねーモンが俺に見える訳ねーだろ、スサノオ」
信じ難い光景に、思わず間の抜けた問答をするスサノオとタヂカラオであった。
残った三体の亡者どもは、相も変わらずウズメの舞から視線を外せず、遠巻きにして微動だにしない。
だがいずれも、示し合わせた訳でもないだろうが……同時に彼女に襲いかかる腹積もりを決めたらしい。
迫りくる危機に対しても、ウズメの心は乱れなかった。
彼女が目指すものは、天衣無縫の極み。ただそれのみ。
(まだだ……まだ足りないわ。もっと、もっと……森羅万象と一体に……)
「……ひふみよ……いむなや……」
舞い続ける間にもウズメの心は明鏡止水に近づき、さらに動きは速く無駄のないものになっていく。だがまだ足りない。もっと高みへ。もっと極みへ。
黄泉醜女は三体同時に動いた。三方からの超速の襲撃! たとえ魔神でも躱せぬはず。
亡者のうち一体の牙が届く寸前。ウズメの肢体は流水のごとく、最低限の動きで軸をずらし、亡者の牙は最適の力点を逸らされた。
と同時に、醜女の凄まじい速さは赤子に手を添えるかのように優しく触れられ、勢いの方向を変えられた。その先にあるのは……同時に襲いかかった二体の仲間だった。
形容しがたい破砕音が周囲に轟いた。
スサノオたちの目に入ったものは、バラバラに砕け散った、さっきまで黄泉醜女だったものの肉塊や骨の破片だった。
見る者によっては、彼女らは自分からそれぞれに衝突し、愚かにも自滅したようにしか見えなかったろう。
当のウズメはといえば、亡者どもからさほど離れてもいない地点で、やはり未だに舞い続けている。飛び散ったはずの穢れの類が一切付着しておらず、夜空の月のように神々しくも美しい。
まさに神憑りと言っても過言ではない、女神ウズメの天衣無縫の舞。
黄泉醜女たちは足元にも及ばず、どころか、敵としてすら見做されないまま戦いは終わっていた。




