三.スサノオ
不機嫌な顔をして、地上を荒々しく練り歩く一柱の神がいた。
幼き顔立ちでありながら、伸び放題の髪と髭をそのままに、禍神もかくやと言えるほどの形相である。
これがあの最も尊き三貴子が一柱、スサノオであると説かれても、にわかには信じがたい有様であった。
スサノオのただならぬ様子は、行く先々の山や川、国土のことごとくを震え上がらせた。
まるでこの世の終わりのようなどよめきは、遠く天上にまで轟いていた。
スサノオの目指す先に見えるは、天上の世界である高天原。
彼は先ほど、海原を荒れ放題にさせた罪を父イザナギに咎められ、追い払われたばかりだ。
(何で、誰も分かってくれねえんだ……父上も。アマテラスも。ツクヨミも。
母上であるイザナミなど知らんぷりで、それぞれの世界を治めてやがる……!
会いたくないのかよ。子が母に会いたいと願うのが、そんなに悪い事なのかよ……!)
結局のところ、海原を追放させられたものの、スサノオはイザナミの住むという地下の国「黄泉」……またの名を根之堅洲国に行きたいという願いは聞き届けられた形になる。
スサノオは黄泉の国に向かう前に、姉アマテラスにその事を報告すると言って、高天原を目指したのだ。
目的地はすぐそこだ。周囲の鳴動など気にもかけず、スサノオは意気揚々と高天原に踏み込もうとした。
その時だった。一筋の稲光がきらめき、スサノオの足元に落雷した。
「…………ん?」
本来なら無視するところであったが、その雷は狡猾そうな目つきの青年の神の姿を取り、スサノオの前に立ちはだかって、恭しく一礼したのである。
「偉大なる三貴子が一柱、建速須佐之男命であらせられますな?」
雷神が口を利いた。
「……いかにもオレはスサノオだが、テメーは誰だよ?
こっちの名を尋ねる時には、まず自分から名乗るのが礼儀ってモンだぜ」
「なるほど、道理でございますなァ。
申し遅れました。我は大雷。黄泉大神たるイザナミ様にお仕えする八雷神が一柱にございます」
「……イザナミ……母上に仕える雷神……!?」
名乗りを上げた雷神から、思いもよらぬ名前が出てきたので、スサノオは驚いた様子だった。
「スサノオ様の行いを、イザナミ様はつぶさにご覧になっておいででした。
確かに褒められた行為ではありませぬが、イザナミ様を一途に想い続けるスサノオ様のお気持ちに、大層心を打たれておりました」
「母上が……オレの事を、見ていた……?」
スサノオは自分の行いが母に見られ、気にかけられていた事を、嬉しく思う反面、恥じらう気持ちも湧き上がって赤面した。
だがすぐに我に帰ると、大雷に疑り深い目を向けてから、品定めするように尋ねた。
「お前、母上に仕えていると言ったが、どこにそんな証拠がある?
お前のような穢れに満ちた悪神が。母の名を騙っていたとしたら、その素っ首、即座に刎ねるぞ!」
「おお、怖や怖や」大雷は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「お疑いのようですなァ。よろしい。証拠をお見せいたしましょう」
雷神が手をかざすと、白き風のようなものがぼうっと現れ、スサノオの耳元にまとわりついた。
その風から、優しい口調の女性の声がした。
「スサノオ。スサノオや……吾の声が聞こえるか?」
「! この声は、もしや……」
「そうじゃ。そなたの母、イザナミじゃ……」
無論、スサノオはイザナミに直接会った事もなければ、声すら聞いた事もない。
だがそれでも、スサノオが常日頃、心の中で思い描いていた優しき母の声に。今囁かれた言葉は似ていた。似すぎていた。
「……なぜお前のような雷神が、母上の声を携えている?」
「我は大雷。イザナミ様にお仕えし、その頭に宿る事を許されし者。
イザナミ様のお考えと、そのお言葉。稲妻の如き速さで遠く地上に届けるなど、造作もなき事なれば」
雷神は誇らしげに胸を張って答えた。
「スサノオや。吾も母として、愛しき子であるそなたに会いたい。
だがそのためには、そなたがただ黄泉の国に来るだけでは足りぬ。
そなたも聞き及んでおろう? そなたの父にして我が夫たるイザナギが、黄泉の国に赴いて、いかなる目に遭うたか」
言われて初めて、はたとスサノオは思い至る。
イザナギほどの尊き神が黄泉に赴いたというのに、目的を果たせず這う這うの体で逃げ帰ったその意味を。
知らぬとはいえ、自分はとんでもない願いを口走ったのではあるまいか。
スサノオの心に、わずかながらに恐怖が芽生えた。
「何の備えもせず、生者たるそなたが黄泉に赴く事。それがいかに危うき事か。
だが案ずる事はない。我が夫イザナギは、吾の戒めを破ったがゆえに願いが叶わなかったのじゃ。
こたびは違う。そなたの母たる吾イザナミが、そなたを助けようぞ……」
すでにスサノオの心は、イザナミの思惑に染まりつつあった。
その様子を見て、大雷は思う。我が主の真に恐ろしきは、その大いなる力ではなく。
言葉巧みに己が子らの心を掴み、意のままに操る話術ではないか、と。