九.黄泉醜女(ヨモツシコメ)が来る②
オオゲツヒメは黄泉比良坂を抜けるまで、オオカムズミより譲り受けた桃の実を掲げていた。それだけで亡者たちはスサノオたちを恐れ、遠巻きにして寄りつかなかったからだ。
生者である彼らには想像もつかないが……邪気を祓うという桃は、死者にとってよほど恐るべきものなのだろう。
景色は相変わらず殺風景だ。のっぺりとした灰色の大地に、鉛色の曇天。吹く風は肌寒く、魂魄を奈落に引っ張ろうとしているかのように錯覚してしまう。
しかし黄泉の国に入ってからの旅路は平穏そのもので、何事もなくすでに四日が経過していた。
「妙だな……黄泉比良坂には、あんだけ亡者がひしめいてたってのに」
タヂカラオが訝しんだ。
「無事に済むに越した事はありませんが……何か引っかかりますね」
いつものように、皆に食事を配り終えたオオゲツヒメも首をかしげた。
「誰もいないのは確かに奇妙だけどよ。こいつは好機だぜ」
スサノオが言った。
「亡者に目をつけられない内に、オオカムズミの言っていた、葡萄と筍って奴を探しておこう」
スサノオの提案に従い、彼らは歩を進めようとした。が……
最初に違和感に気づいたのは、ウズメだった。
「……ねえ。なんか妙な音が聞こえない?」
「音? どんなだ?」タヂカラオが聞き返す。
「あたしも上手く言えないんだけど……蟲が何かを食べながら、歩いているような……不気味な音」
ウズメの言葉が気のせいではない事を、皆はすぐに思い知る事になる。
ガササササ……ブチブチ……シャカシャカシャカシャカ……
彼らの進もうとする先の岩陰から、何やら不穏な音が聞こえてきた。せわしなく地面を引っ掻くようで、不快な雑音めいている。
ふと岩陰から、その音の正体がひょっこりと顔を出した。
「!?」最初に目を合わせたオオゲツヒメが驚愕する。
覗いたのは女の顔だった。だがそう呼ぶには余りにも醜い。おまけに逆さまになっているように見えた。
不気味な逆さの女は、すぐに顔を引っ込めて姿を消した。
「今のは……いったい……!?」
「どうしたんだオオゲツ? 何が見えた?」
ウケモチはそれに気づかなかったらしく、震えるオオゲツヒメの顔を心配そうに覗き込んでいる。
ツクヨミはすかさず、オオゲツヒメの手に触れた。
「……オオゲツヒメ。黄泉醜女を見たのか」
「ヨ、黄泉醜女……? 今のが、そうなのですか……?」
「ああ、間違いないだろう。
私は過去に、我が父イザナギの記憶を見た事があってね。
その時に見た記憶の中に在る姿と、非常によく似ていたんだ」
黄泉醜女の名を聞き、一行は即座に身構えた。
かつてイザナギを追いかけ回した、黄泉の国の恐るべき力を持つ亡者たち。
理性も知性もほとんど持ち合わせておらず、イザナギが作り出した食物に本能的に飛びつくほど、激しく飢えていたという。
異変は再び起こった。六柱も十分に周囲を警戒していた。にも関わらず。
眼前の岩の頂点に、二つの奇怪極まりない姿があった。いつの間にか、気づかぬうちに。
彼女らは仰向けになって這っていた。いわゆる橋状姿勢という奴だ。
四肢の関節があり得ない方向に曲がり、頭部もだらしなく垂れており、伸び放題の荒れた髪が地面に広がっている。
不幸にもスサノオとタヂカラオが、彼女ら──黄泉醜女と目が合った。
目が合うと、口が裂けるほど薄気味悪い笑みを浮かべた。そして次の瞬間、彼女たちは『消えた』。
『なッ…………!?』二柱が同時に驚愕の声を上げる。
ドヒュン!!
凄まじい風切り音がしたかと思うと、スサノオの左脇腹と、タヂカラオの右肩の肉が、それぞれ無残に食い千切られていた!
「あがッ…………!?」「うごおッ…………!!」
ブシュウウウウッ!!
激痛が襲うと同時に、思い出したかのように抉られた箇所から鮮血が噴き出す。
二柱の背後に、先ほどの黄泉醜女たちがいた。
仰向けの蜘蛛のような姿勢のまま、その口には今しがた噛み千切った二柱の肉をぶら下げ、満面の笑みを浮かべてボリボリと咀嚼している。
「スサノオ! タヂカラオ!」
突然の出来事に、ツクヨミも思わず焦りの叫びを上げた。
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古事記に曰く、イザナギは黒い髪飾りや爪櫛の歯を地面に投げつけて葡萄と筍を生やし、黄泉醜女がそれらを食らっている間に逃げおおせた、とある。
これも奇妙な話だ。イザナギは決して、武勇に劣っていた神ではない。黄泉の国を脱出する際、十拳剣を振り回して黄泉の軍勢と存分に戦っているし、持ち上げるのに男手千人は必要と言われた巨岩ヨミドノサエを使って、黄泉比良坂を塞ぐほどの怪力ぶりを発揮している。
つまりイザナギは剣術においても腕力においても、突出した技と力を兼ね備えた神であったという事だ。
そんな強く尊いイザナギですら、黄泉醜女を前にしてはただひたすらに逃走している。何故だったのか?
その答えは単純だった。
黄泉醜女は恐ろしく速いのだ。その脚力は一駆けで千里(註:4000km)を軽く飛び越えてしまうほど凄まじいという。
いかな卓越した剣術だろうと、千人前の剛力だろうと。当たらなければ、どうという事はない。イザナギは防戦に徹するしかなかったのである。