六.桃木の女神オオカムズミ
ツクヨミ、スサノオら六柱が辿り着いた、無数の桃の実のなる巨木。
その周囲には穢れを感じない。土地のみならず、空気までもが絶えず浄化され、黄泉の国とは思えぬ清々しい気分になる。
「…………助かったぁ。痛ッ」
安堵の溜め息をついたウズメは、へなへなと尻餅をついた途端、左腕を押さえて苦痛に顔を歪めた。
ツクヨミの施した『時戻し』の力が失われ、再び時が動き出したようだ。周囲に桃の木の力が働き、傷口から穢れが侵蝕して来ない事だけが救いだった。
「大丈夫ですか? ウズメ様……」
オオゲツヒメが心配そうにウズメに駆け寄る。先ほど彼女の不注意で負わせた傷だけに、気が気ではないのだろう。
「心配しないでいいわよ、オオゲツちゃん」
ウズメは痛みを感じるものの、幾分余裕のある笑みを浮かべて答えた。
「ツクヨミちゃんの時戻しのお陰で、穢れのど真ん中で傷口が開く、なーんて目も当てられない事態は防げたし。
……この桃の木も、本当に凄いわねー。亡者も穢れも全然寄ってこない。それにとってもいい香り!」
桃の持つ力については、大陸に渡った事もあるウズメはよく知っていた。
桃の木は仙木とも呼ばれ、邪気を祓う呪力がある。仙薬として万病に効果があるとされ、不老長寿の仙果としても有名だ。
日本においても、3世紀前半に栄えたとされる大和国(註:奈良県)の纏向遺跡から大量の桃の種が発見されており、古来より祭祀に使われ、信仰を集めていた事が伺える。
童話の「桃太郎」や、「桃の節句」とも呼ばれる雛祭りなど、桃と関わりのある伝説や風習は枚挙にいとまがない。
「確かこの桃の木、父イザナギを助けてくれたんだよな」
スサノオが木に近づいて言った。
「名前もつけて貰ったんだろ? 確か……ええと、オオカムズミ」
スサノオがその神名を口にした途端、桃の木の雰囲気が変わった。
「……気安く、妾の名を口にするでない。イザナギの子、スサノオよ」
桃の巨木から鈴の音のような声がしたかと思うと、木の裏から桃色の衣を纏った女神が姿を現した。
その顔は、ややあどけなさの残る可憐な容姿ではあったが、不機嫌そうな表情で六柱に品定めするような視線を注いでいた。
よくよく見れば衣の端から覗く素肌は、虎のような獣毛がうっすらと生えているのが分かる。
「えっと……あんたがその、オオカムズミ?」タヂカラオが尋ねる。
「ぬし、頭が良うないのか?
今そちらのスサノオが、妾の名を呼んだではないか」
獣人めいた幼き顔の女神は、嘆息してからかうように言った。
巨木の女神にしてはその背丈は低く、タヂカラオの腰くらいしかない。だが少しも物怖じしない態度に、タヂカラオは「ああ、すまん」と詫びた。
「幾度も確認をする必要などあるまい。じゃが分からぬなら、自ら名乗ろうか。
妾はオオカムズミ。黄泉比良坂の麓にある、この桃の木に宿る女神じゃ。
ツクヨミ、スサノオよ。そなたらが生まれる前より、そなたらの父イザナギを、黄泉の軍勢より救った事がある」
イザナギは黄泉の国から逃げ帰る際、迫りくる黄泉の軍勢に向かって、桃の実を三つ投げつけたという。
するとたちどころに軍勢や、それを率いる雷神たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。そのためイザナギは難を逃れる事ができた。
その際にイザナギは大変感謝し、桃の木に「オオカムズミ」の名を授けたのだ。
「その節は大変ありがとうございました。
父イザナギに代わって礼を申し述べます」
ツクヨミはその場に跪き、恭しく頭を垂れた。
「オオカムズミのお力添えがなければ、私やスサノオは今頃生まれてもいなかったでしょう。
貴女は我々の命の恩人です」
「お、おお。偉大な三貴子と聞いておったが、なかなかに殊勝な心がけじゃな」
面と向かって感謝され気分が悪くなかったのか、オオカムズミの声は平静を装いつつも少し弾んでいる。
そして、チラリとスサノオに物欲しげな視線を送る。
「?」スサノオは最初は意図を掴めず呆けていたが、後ろからウズメに小突かれてやっと、形だけツクヨミと同じ姿勢を取り、まったく感情のこもっていない声で「ありがとよ」とだけ言った。
「……ふん、まあよかろう」オオカムズミは不服そうだったが、話を打ち切る事にしたようだ。
「今はそれどころではあるまい。そちらの女神。傷を負っておるな?」
オオカムズミはウズメを指し、彼女が頷くと……木に生えている桃の実を一つ、フワリと浮かせて手繰り寄せた。
「この実を授けよう。食するがよい」
「は、はい……ありがとうございます」
戸惑いながらもウズメが桃の実を口に運ぶと……途端に彼女の全身に暖かな光が満ち、左腕の傷が溶けるように消え去っていく。
「!? 凄い……こんな一瞬で傷が。痛みも全然ない!」
「ふふ、どうじゃ。妾の桃の実は。生者が食べるとその傷を癒し、亡者が触れれば激痛を伴うのじゃ」
「うん、凄い凄い! オオカムズミちゃん! ありがと!」
「ちょ……こら、気安く触れるでない! 感謝の意は伝わったゆえ、手を振り回すのをやめるのじゃ!
こう見えても妾は、そなたらなどよりずっと年長の女神なのじゃぞ!?」
破顔一笑したウズメに嬉しそうに両手を掴まれ、文字通り振り回されたオオカムズミは、慌ててその手を振りほどいた。
少々棘のある態度で子供じみた話しぶりではあったが、悪い神ではなさそうだとスサノオは思った。




