四.黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の戦い・前編
出雲国の地下。黄泉の国と地上との間には、黄泉比良坂と呼ばれる場所がある。
名前ぐらいは聞いた事がある方もおられるのではないだろうか。
だがこの名称、いささか奇妙である。「比良坂」という箇所だ。
比良とは「平」である。そして「坂」。
そのまま繋げれば「平らな坂」という意味だ。
坂道なのに平ら? これは一体どういう事であろうか。
結論を言えば、「坂」は坂道の事を意味している訳ではない。
「坂」とは「境」を表す。すなわち地上と黄泉との境界の平地。
それが黄泉比良坂なのだ。
ツクヨミ、スサノオら六柱が辿り着いた黄泉比良坂は、変わり果てた光景となっていた。
かつてイザナギが黄泉の国を脱出する際にその入り口を、持ち上げるのに男手千人分は要るであろう大岩を用いて塞いだ。その筈であった。
だが今は、大岩は用を成していない。
周囲から凄まじく濃い穢れが溢れ出し、地上へと際限なく漏れ出でている。
「なにこれ、酷い……どうなってんのよ」
いつもは明るいウズメも、さすがに顔をしかめ、口元を抑えた。
周囲に穢れの温床となる屍が転がっていない事だけが幸いした。
さもなくば、ここはたちまち悪神どもの巣窟と化すだろう。
ツクヨミが前に進み出て、大岩に触れた。
「……これは……」ツクヨミの顔が歪む。
「どうした? 何か分かったのか?」タヂカラオが尋ねる。
「過去の記憶を読む」力で、大岩の記憶を知ったのだろう。
ツクヨミはしばらく黙っていたが、やがて意を決したのか口を開いた。
「……この大岩に宿る神の名はヨミドノサエ。
我が父イザナギが、塞いだ時にそう名づけた。
姉アマテラスが岩戸に隠れてからというもの、徐々に黄泉比良坂が広がり、黄泉の穢れを妨げる事ができなくなったようだね」
「それでこんなひでー事になっちまったってのか……」スサノオも唇を噛んだ。
「……不幸中の幸いとでも言うべきか。
本来であれば、千人の力を以て動かさねばならない大岩だが。
大きく広がった黄泉比良坂を通る事で、我々も黄泉の国へと入る事ができる」
「まあ俺の力なら、どうにかなるかもしれねえがよ」タヂカラオは鼻を鳴らした。
「しかし、お前らの親父さんもスゲー怪力だったんだな!
流石は尊き『国産みの神』って所か」
「喜ぶのはまだ早いぜ」
警告したのは、オオゲツヒメの傍にいる小さき闇の神ウケモチだった。
「この岩の先は正真正銘、黄泉の国だ。きっと亡者どもがワンサカいる事だろう。
何しろ世界が闇になってから、葦原中国の人間が大勢死んじまってるからな」
彼の指摘は恐らく正しい。黄泉比良坂が広がっている事を差し引いても、溢れ出る穢れの量が尋常ではない。
一日千人どころではなく死に絶えた人々の穢れた魂魄がごった返し、今も向こうで彷徨い、荒ぶっているのだろう。
その激しさたるや、地上の悪神どもの比ではない事は容易に想像できる。
「少し無茶な旅路になるが、方法はあるよ」ツクヨミが言った。
「ヨミドノサエから少し離れた場所に、父イザナギを助けたという、穢れを祓う力を持つ桃の木があるそうだ。
まずはそこまで、全力で走り抜けるとしよう」
「皆様……こちらをどうかお召しくださいませ」
オオゲツヒメが、白く輝く絹の比礼(註:古代の女性が首にかけるスカーフ)を取り出し、皆に配った。
彼女の頭から生み出される、蚕の生糸を用いてこしらえた物だ。
「気休め程度ですが、多少の穢れでしたら、この比礼にて防ぐ事ができる筈です」
「わあ、綺麗……ありがと、オオゲツちゃん!」
ウズメは片目をつぶって、嬉しそうに絹の比礼を首にかけた。
それに倣い、四柱も比礼を思い思いの箇所に巻きつけ……覚悟を決める。
「準備はいいか?……皆、はぐれるなよ。一気に……駆け抜けるぞッ!」
スサノオの号令の下、六柱の神々は大岩の脇を通り抜け、黄泉比良坂へと飛び込んだ!
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黄泉比良坂の地は、穢れし亡者の荒ぶる魂で埋め尽くされていた。
地上にて死に埋葬もされず、腐るがままに放置されたであろう哀れな屍の群れ。
スサノオたちはその亡者の波を突っ切ろうとする。オオゲツヒメの用意した輝く絹の比礼が、彼らを怯ませるものの……数が多すぎる!
亡者たちは、スサノオたちに害意がある訳ではなかった。
何しろ目も耳も、脳ですらも腐りかけ、もはや用を成していない。六柱の神々が何者であるかすらも、恐らく分かってはいないだろう。
ただ本能で光に群がる羽虫のごとく、スサノオたちが持つ神力に引き寄せられているに過ぎない。
だが今は心ならずも振り払うしかなかった。為すがままにされては、亡者の群れにのしかかられ、穢れの中に埋もれてしまう。それは生きながらにして、黄泉の国の住民となるに等しい。
「おらァ! 道を開けろォ!!」
スサノオが十拳剣を振り回す。
姉アマテラスからの贈り物であり、業物でもあるその剣は、振り抜く度に陽光のような煌めきの軌跡を描いた。
スサノオが太陽神である彼女の力を想像し、それに相応しき神が宿りつつあるのかもしれない。
タヂカラオが力強き拳を、ツクヨミが漆黒の十拳剣を振るい、押し寄せる亡者を切り払う。
彼らの神力は疑いようもなく、亡者の群れを圧倒している。だが……イザナミのもたらした闇の傷跡は、それよりもなお深い。進めども進めども、荒ぶる魂は際限なく行く手を塞いでくる。
無間地獄もかくやという乱戦の最中……やがて彼らの進む先に、唯一亡者たちが寄りついていない箇所が見えた。
穢れに満ちた黄泉比良坂に似つかわしくない、活力に満ちた桃の大木だ。
後編に続く。