三.黄泉側の暗躍
黄泉の神々である八雷神が、高天原よりアマテラスの『魂』を鏡に変えて奪い、逃走した直後のこと。
「十全とは行かなかったが、良き成果よ!
アマテラスの意識を取り戻すには『鏡』が絶対に必要となる」
「これを携えて黄泉の国に戻り、イザナミ様の下に届ければ、計画は滞りなく進行するであろう!」
八柱が筆頭である火雷は、若雷、土雷、鳴雷、伏雷の四柱に地上に留まるよう命じた。
イザナミの両手に宿りし二柱には、暗雲を広げ、天上と地上に穢れが蔓延しやすい環境を整える事を。
イザナミの両足に宿りし二柱には、地上に降り立ち、禍神を統べる首魁二柱──ヤソマガツヒ、オオマガツヒ──に謁見し、彼らとの共闘体制を整える事を。
「畏まりました」「お任せあれ」「御意」「御意」
火雷の命に従い、四柱の雷神は散った。
残った四柱は、出雲国の地下へと入る。
本来ならば黄泉の国と地上を結ぶ境界は、イザナギの手によって大岩で塞がれていた筈だが、今は違う。
黄泉比良坂が広がっている。
地上世界と死の世界の境があやふやとなり、絶えず凄まじい穢れが満ち、葦原中国へと侵蝕していた。
大岩の脇を嘲笑うようにすり抜け、黄泉の国へと帰還した四柱の雷神たちは……そのまま最奥にあるイザナミの骨の玉座を目指した。
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「……ようやった、カグツチ。
そなたの働きのお陰で、吾の望む世界が、天上と地上に現出した」
骨の玉座の間では、一足先に帰還していた火の神カグツチが、イザナミの御前にて平伏していた。
カグツチは阿蘇山の地下深くに赴いて山神を怒らせる事で、噴火の力によって穢れた暗雲を振り撒いたのだ。
「後はただ、見ておればよい。
我が下僕たる八雷神が、今頃首尾よくアマテラスの命を黄泉へと届けていよう──」
四柱の雷神がイザナミの下へ現れたのは、ちょうどそんな時であった。
バツの悪そうな顔をし、雷神たちは事の次第を報告した。
「申し訳ございませぬイザナミ様。拆雷の奴が『魂』しか奪えず、アマテラス様のお命、完全に黄泉へと連れ去る事、叶いませなんだ」
「ぬかせ火雷! まるでこの拆雷が失策したかのように言うでないわ!
そもそもがして、大雷ぞ!
そやつがスサノオの介入を阻めなかったが為、アマテラスを仕留め損ねたのじゃ!
此度の責を問うならば、大雷を糾弾して然るべきであろう!」
醜く罪の擦り付け合いをする雷神たち。
騒がしくゴロゴロと苛立ち、お互いに取っ組み合いをしかねないほど険悪な空気が漂った。
「…………もうよい」イザナミが静かに、だが有無を言わさぬ口調で遮った。
「拆雷。そなたがアマテラスの『魂』たる鏡、持ち去ったのじゃな? 見せよ」
「仰せのままにィ……黄泉大神」
名を呼ばれ、命じられた事自体に快感を覚えているのか、恍惚とした表情で拆雷は恭しく鏡を取り出した。
それは大きく美しく、黄泉の神々にとって直視すれば目を焼かれる程度では済まない、凄まじい神力を秘めている。
後に八咫鏡と呼ばれる事になる、アマテラスの『魂』の化身であり神器である。
「くれぐれもお触れにならぬよう、イザナミ様ァ……
封じているとはいえ、我ら穢れに満ちた黄泉の神にとっては、太陽の力は猛毒に等しき劇薬ですゥ」
よく見れば、鏡を持つ拆雷の手から、じゅうじゅうと嫌な音が立ち、腐肉が溶け骨が見えている。
いかに黄泉の国の主たるイザナミの命とはいえ、絶えず苦痛を伴う過酷極まりない役目だったろう。
だが拆雷は、屈折しているとはいえイザナミに対する忠誠心は病的と言っていいほど凄まじい。彼がイザナミ以外の、どんなに尊き神であろうと尊称を用いないのは、その表れであった。
「改めてようやった。拆雷……
そなたには、引き続きその『鏡』の管理を命じる。できるか?」
「おお、おおおお……お褒めに預かり、恐悦至極に存じますゥゥゥ……
イザナミ様のご命令とあらば、拆雷に断る道理ございませぬゥ!」
イザナミが命じたなら、自殺すら躊躇いなく受け入れると言わんばかりに、拆雷は大喜びで命令に応じた。
(結果として適材適所であるな……狂信にも似た忠誠を持つ拆雷をおいて他に、黄泉の神にあの『鏡』を持つ任は勤まるまい)
火雷は新たな懸念を進言する事にした。
「イザナミ様。アマテラス様が完全に死んでおらぬ以上、高天原の神々が鏡を奪い返しに、黄泉の国へと攻め入るでしょう。
その備えをせねばならぬのではありませんか?」
「そうさのう……じゃが、案ずる事はない。
我が愛する夫、イザナギですら……黄泉の国のほんの爪先程度の地しか踏み入れられず、無様に逃げ出したのじゃ。いかに尊き神であれ、穢れに満ちた奥深く。辿り着く事など叶うまい……のう、カグツチよ」
カグツチは平伏したまま、一言すら発さずにいる。
「黄泉比良坂に侵入者があれば報せよ。
じゃが普段通りの警戒で良いぞ。
愚かな不埒者が、どこまで辿り着けるか見物よ」
イザナミの昏い情念に満ちたくぐもった哄笑が、骨の玉座の間に響き渡った。




