二.六柱の神々・後編
ツクヨミの投げた十拳剣と、ウズメの持つ両の筆架叉が三柱を打ち祓う頃には、スサノオが相手取った一柱もまた、一刀両断されその姿を霧散させていた。
「うふふ~一丁上がり! かしらねー」
異国風の女神ウズメが、舞い終わった高揚感そのままに、弾んだ声を上げた。
「あ。ありがとうござ……いますッ……!」
危ういところを助けられた男二人は、這いつくばって神々に礼を述べた。
「いや……礼を言うのはまだ早いぜ」
タヂカラオは冷然と言い、人間たちに一瞥もくれず、地に降り立ったツクヨミと共に、首のない牡鹿の屍の前に立った。
ツクヨミが屍に手を触れようとすると、中に溜まっていた穢れが膨れ上がる! 未だに二柱の悪神が隠れ潜んでいたのだ。
「空気読めや……腐れ神どもがァ!!」
悪神の一柱の眼前に、その巨体からは想像もつかぬほどの軽やかな動きで、タヂカラオが迫っていた。神力を十分に込めた右の鉄拳が、勢いよく振り抜かれ、穢れそのものを吹き飛ばす!
タヂカラオの神力は身体能力に特化した単純なものだが、それだけに強い。
少々の穢れなら気合いだけで吹き飛ばせるのは、高天原の『力』の象徴と讃えられる所以である。
残った悪神の最後の一柱は、勝ち目なしと見てか、先ほどタヂカラオにすがっていた人間の男に潜り込もうと動いた!
だが恐怖に引きつった彼の前に割って入ったのは、小さな闇を傍らに従えた女神であった。
「大丈夫ですか? もう心配いりませんわ」
女神は振り返り微笑む。ふっくらした容姿に浮かぶ柔和な笑みは不思議と、見る者の心を落ち着かせてくれる。
彼女はオオゲツヒメ。食物を司る女神である。
最後の悪神の顔には、彼女の従える小さな闇から伸びた、細い針のような武器が突き刺さっていた。
人間の男の目には捉えようもなく素早い動きだった。悪神の身体には無数の穴が空き、そこから急速に穢れが噴出して浄化されていく。
「ケッ……小さいからって、見くびるんじゃあねーぞ」
小さな闇の神──ウケモチは悪態をつきつつも、その剣の腕前は確かなものであった。
今度こそ、牡鹿の屍に憑いていた禍神の群れは沈黙した。
命の危機を救われた人間二人は、神々の前に並んで平伏していたが、すぐに腹の音が鳴った。
緊張の糸が切れ、数日間何も食べていない事をようやく思い出したようだ。
「お可哀想に──ウケモチ。わたくしの下へ」
「へいへい」
オオゲツヒメがウケモチを呼ぶと、彼女の周囲は小さな闇に包まれる。
その闇の中、オオゲツヒメは耳から、あらかじめ水に浸した粟を生み出し、ウケモチが木の椀を取り出して粥状にする。
いわゆる粟粥と呼ばれる、簡素な汁物である。
「急ごしらえで味付けも薄いものですが……宜しければお納め下さいませ」
「……ありがてえ……なんてありがてえ……!」
「危うい所を助けていただいたばかりか、食事まで……!」
男たちはそれぞれ差し出された粥を、押し戴くようにして口に運ぼうとする。
「おーい、腹減ってて焦るのは分かるけど、ゆっくり飲んでくれよ?」
ウケモチが言った。
「飢えてる時に急いで食うと、身体が吃驚しておっ死んじまうからよ」
粥の味付けが薄いのも、実はその辺りが理由だったりする。
下手に美味しく作ると食が進みすぎてしまうからだ。
オオゲツヒメたちが救援の後保護をしている間に。
ツクヨミは牡鹿の屍に触れていた。その指先には、生き物の持つ過去の記憶を読み取る力がある。
「……苦しかったでしょう。お察し致します」
牡鹿の魂魄に対して語りかけたものだった。
ツクヨミのような尊き神でも、鹿に対しては敬意を払っている様子だった。
穢れは不浄なものであり、このまま腐りかけた状態で放置する訳にはいかない。
そんな事をすれば、いずれまた周辺に漂う禍神が寄りついて、屍を弄ぶ事になりかねなかった。
「私の手で、貴方を弔わせて下さい」
ツクヨミは牡鹿の屍を、己の闇の御衣で優しく包み込んだ。
その跡には、腐った肉塊などの不浄な穢れは消え去り、綺麗に骨だけが残った。
ツクヨミの神力はその名の通り「月日を読む」。それは過去だけでなく、未来をも読み通し、時の針を進める事もできるのだ。
とはいえ乱用する事はできない。例えば今日若者だった者が翌日老人になれば、無用な混乱を生み出しかねないのは自明の理である。
これ以上の穢れを生み出さないため、牡鹿の魂魄の許しを得た上での、やむを得ない処置であった。
ツクヨミは鹿の骨の肩の部分だけを回収し、残った遺骨は手厚く葬った。
鹿の肩骨は「太占」と呼ばれる、古くは尊き別天神も行った占いに用いられる。それゆえ当時、鹿は聖なる獣として重宝されていたのである。
人間たちは改めて平伏して礼を言った。
「本当に、何とお礼を言っていいものか……」
「このご恩は、一生忘れませんッ!」
「いや、そういうの気にしなくていいから。オレたちは急ぐんで。それじゃあ」
男二人にオオゲツヒメから二日分程度の粟や大豆などの穀物を手渡し、スサノオ達は足早にその場を後にした。
神々の姿が見えなくなると……男たちは、狐につままれたような表情になった。
「あれ……? 俺たち、一体何をしてた? いつの間にか腹が膨れてる」
「食い物もあるぞ……コレ、どこで手に入れたんだろう……?」
彼らはスサノオ達に出会った記憶を、完全に忘れ去ってしまっていた。
これも月の神ツクヨミの力──いや、呪いとでも言うべきものか。
ツクヨミと出会った者は、ツクヨミの姿を見失うと、その間の記憶を失ってしまうのである。
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行く先々で禍神の退治や、襲われている人々の救援などを行っていたスサノオ達であったが、それも急場しのぎにしか過ぎないものだった。
オオゲツヒメの生み出す食糧とて無尽ではないだろう。ウケモチが言うには陽が差さなくなってから、彼女は少しずつ痩せ衰えてきているそうだ。
大元の原因は、高天原にて太陽神アマテラスが襲撃され、黄泉の神々によって『魂』が奪われてしまった事。
そのために彼女は現在、避難所である「天岩戸」に匿われ、どうにか命を永らえている状態なのだ。
しかし黄泉に連れ去られた彼女の『魂』が戻らぬ限り、穢れた暗雲は晴れず……天上も地上もやがては死に飲み込まれてしまうだろう。
それを防ぐために、ツクヨミ、スサノオ、タヂカラオ、ウズメ、オオゲツヒメ、そしてウケモチの六柱の神々は、黄泉大神たるイザナミの統べる黄泉の国を目指して旅を続けていた。
「考えようによっちゃ、ツクヨミがいて良かったよな。
黄泉の連中や禍神どもに、オレたちの居場所を悟られずに済む訳だし」
スサノオの言う通りだった。地上の悪神どもの動きは散発的かつ無秩序なもので、こちらの動向に気づいている様子はほぼ見られなかったからだ。
果たして、六柱は目的の地に辿り着いた。
出雲国(註:島根県)の地下にあると言われ、ツクヨミやスサノオの父イザナギがかつて単身赴いたという──穢れに満ちた、恐るべき黄泉の入り口に。




