一.六柱の神々・前編
薄暗い暗雲の下、二人の痩せこけた男がフラフラと歩いていた。
疲れ切っている。目もほとんど死んでいる。もう何日もまともに食事にありつけていないのだろう。
「なんで……こんな事になっちまったのかね……」
ある日突然、空は雲に覆われ、陽光は地上に全く届かなくなった。
葦原中国の人々にとって、それは何の先触れもなく襲ってきた災厄であった。
男たちの村は作物が育たず、あっという間に餓死者で溢れ返った。
人が人を食うといった有様で、やがて腐った死体から穢れが溢れ出し、災いをもたらす悪神となり、村はトドメを刺された。
彼ら二人は、滅びる寸前の村から命からがら逃げ出した。
だが他に行く当てがある訳もなく、無為にさすらうばかりであった。
「……おい、見ろよ。アレ……」
もう一人の男が指さした先に、牡鹿の死体が転がっていた。
死後何日か経っているらしく、ところどころ肉が腐り変色し、蠅が集っている。
「……何日ぶりの肉だろうなァ……」
「馬鹿、やめとけ。
あんな腐った肉じゃ、どれだけ穢れているか分かったもんじゃないぞ」
「構うものかァ……どのみちこれ以上食えなきゃ、野垂れ死にじゃあねェか!」
飢えた男は相棒の制止を振り切って、腐った牡鹿に近づいた。
その時だった。牡鹿の屍が動いた。
肉が腐り落ち、骨の見える首をもたげ、片方の眼球がない眼窩の奥に、不気味な視線があった。
「……ヒエッ……!?」
近づいた男は腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
腐った牡鹿の屍が、頼りない動きで立ち上がる。その周囲には凄まじく濃い穢れと臭いが充満していた。
「ヒヒヒヒヒヒヒィィ……!」
牡鹿の半分がた腐り落ちた顎から、蠅の羽音の如き醜い哄笑がこだました。
「ごォんな……腐りかけの……肉に……釣られるほど!
地上の人間は……飢えているゥゥゥ……!!」
「うわァァァァ!? く、来るなァァァァ!?」
「ごの……動物の……屍……もう、限界……
新じい……死体……必要だァ! もっと穢れを! もっと瘴気をォ!!」
牡鹿に取り憑きし、無数の荒ぶる禍神。
地上に黄泉の影が伸び、着々と蝕みつつあった。
その様子を傍らで見ていた相棒も、恐怖の余りどうする事もできず立ち尽くしている。腰が抜け、フラフラと倒れそうになったその時。
背後から太く逞しい腕が現れ、力の抜けた男の身体をはっしと支えていた。
「!?」
「……運が良かったな、お前ら」
赤銅色の肌をした偉丈夫の男神が、ニカッと笑って立っていた。
倒れかけた男はハッとなって、必死にすがりついて懇願した。
「どなたか存じませぬが、お助け下さい! 悪神が……」
「そいつに関しちゃ、大丈夫さ」
偉丈夫の男神──怪力の神タヂカラオは、事もなげに言った。
言われて、禍神たちに貪り食われそうになった男の方を見やると。
「おッらぁッ!!」
突如その間に割って入った神が、十拳剣を振りかざし、雄叫びと共に悪神の首を刎ねていた!
若き顔立ちではあるが、鬼と見紛うほどの気迫漂う男神だった。三貴子の一柱、スサノオである。
スサノオの神剣の一撃により、牡鹿の首が腐汁を撒き散らして地面に転がる。
だがその傷口から、屍に憑いた穢れが湿った黴のように飛び出し、憤怒の形相を持つ四柱の悪神となった。
「ぎぎぎ貴様らァァ! 邪魔するでないわァ!!」
「皆滅ぶ! 皆死ぬ! 皆黄泉へと還るのだァ!」
「陽は二度と差さぬ! 貴様らのやっている事は全て無駄よォ!」
「お前たちも新たなる穢れの苗床となるがいい!」
不快極まりない悪神どもの声に、スサノオは不機嫌そうに顔をしかめた。
「……黙って聞いてりゃ、好き勝手な事ばかりほざきやがって。
ここまで来るのに、何度てめぇらみてーな雑魚どもをオレたちが相手してきたと思ってやがる?」
スサノオは剣を構え、襲われた男を庇うようにして悠然と立ち塞がった。
舌なめずりをし、奇声を発しつつ思い思いにスサノオに殺到する禍神たち。
四柱同時の攻撃だ。以前のスサノオであれば、身体を張ってでも全ての猛攻を受け止めつつ敵を討つという蛮行に出ただろう。
だが今は違った。スサノオは前に進み出て、悪神の一柱を相手取ったのだ。
隙が出来たと思い込んだ三柱は、嬉々としてスサノオの脇をすり抜けて、倒れている男を貪ろうと肉薄した。
禍神たちは気づいていなかった。スサノオが前に出る直前、持っていた黒い勾玉を宙に放り投げていた事を。
三柱の周囲を突如、闇の帳が覆った。
暗雲よりも、そして夜よりもなお暗い影が落ち、闇に慣れているはずの悪神どもでさえ、視界を奪われた。
黒き勾玉が、空中にて麗しき顔を持った尊き神の姿となり、その身に纏う闇色の衣を広げたのだ。
それはさながら、十六夜に浮かぶ名月の如し。
偉大なる三貴子にして月の神、ツクヨミである。
闇にひるんだ悪神どもが我に返り、闇に少し慣れた目を凝らすと。
いつの間にか、色艶やかな異国風の衣装を纏う、快活そうな女神が立っていた。
その緩急入り混じった、清流の如き滑らかな動きは、まさに華麗なる舞神と呼ぶに相応しき身のこなし。
両手に閃く筆架叉(註:かんざしに似た武器)も闇の中、流星の如く輝く軌跡を残す。
禍神たちは戦いの最中にも関わらず、美しく舞い踊る女神──ウズメの姿に完全に魅入り、惚けたように棒立ちになった。
後編に続く。