二.カグツチの受難
大雷が出立したのを満足げに見送ったイザナミは、獄卒に命じた。
「カグツチを呼んで参れ」
イザナミの言葉を受け、獄卒は恭しく下がる。
程なくして全身に炎を纏い、少年のようなあどけなさの残る顔立ちの神が、イザナミの下へ参上した。
彼の名はカグツチ。イザナミが国産みの際に、最後に産んだ火を司る神であり、イザナミを死の淵に追いやった原因でもある。
その首には、痛々しい傷跡がくっきりと残っている。
カグツチは怒り悲しんだ父イザナギによって斬首され、黄泉の国に住まう神となったのだ。
「母上……このカグツチにいかなる用向きでございましょうや?」
「うむ。そなたにしか頼めぬ話でな……我が雷神を七柱、遣わすゆえ。
『さる場所』の地下に赴き、そこでそなたの力を蓄えて欲しいのじゃ。
力を解放する時は、追って伝える」
イザナミの言うところの「さる場所」。
そこに火の神であるカグツチを遣わす理由。
カグツチはイザナミの考えを理解した。
そして、それが恐るべき結果を生むであろう事も。
「しかしながら、母上……それは事を成しえた暁には。
葦原中国だけでなく、遠き高天原にさえも害を及ぼしませぬか?」
「……そうじゃ。それが狙いじゃ」
「母上……! お待ち下さい。どうか、お考え直し下さいませ……!」
カグツチは震えながら平伏し、イザナミに再考を促した。
しかしイザナミからの返事はない。代わりに返ってきたのは、ひどく下劣な割れ鐘のごとき声だった。
「畏れ多き事を申すなァ……カグツチ……
そなたの母君であり、黄泉大神でもあらせられるイザナミ様の言葉に、従えぬというのかァ?」
下劣な声の主は、イザナミに仕える八雷神が一柱、イザナミの女陰に宿りし拆雷のものであった。
「そなたを産みし折、イザナミ様はそなたの炎に女陰を焼かれ、苦しみ抜いて死んだのよ。
その負い目があろう? そなたの炎で、どれほど醜く焼けただれたか。この場で見せてやろうかァ?」
「……拆雷」
まとわりつくような嫌味たっぷりにカグツチを煽る拆雷に対し、イザナミが静かに、だが怒りの込もった声で言った。
「そなた、その下劣な口を閉じねば……その頭蓋を踏みしだいてやろうぞ?」
「ヒッ……も、申し訳ございませぬイザナミ様ァ!
この拆雷め、決してイザナミ様に対し他意があった訳では……!
お許しを! 平にお許し下さいませェ!!」
大袈裟に芝居がかった口調で謝罪し平伏し、慈悲を乞う拆雷。
イザナミはこの雷神の下劣かつ、被虐を愉しむ品性はまるで好きになれなかったが、その忠誠心だけは買っている。
拆雷を一瞥したイザナミは、カグツチに歩み寄り、優しい声音で言った。
「カグツチや。そなたとて吾が産んだ35柱の一柱。腹を痛めた愛おしき子である事に変わりはない。
そなたを産んだ事で、確かに吾は命を落とした。だが一度たりとて、そなたを恨んだ事などない。信じては貰えぬやもしれぬがな……」
「め、滅相もなく。ありがたきお言葉……」カグツチの声は消え入りそうな蝋燭の火のようであった。
「そなたには、そなたの考えがあろう。吾は決してそなたに無理強いはせぬ。
だがもし……カグツチ。そなたに吾を憐れむ気持ちが少しでもあるならば。
吾の頼みを……どうか、聞き届けてはくれぬであろうか?」
カグツチの心に怖気が走った。
その言葉も声音も、まさに母が愛おしき子に語りかけるが如き優しさ。
にも関わらず、火の神であるカグツチはその言葉の裏にある、イザナミの暗き妄執の炎をも感じ取った。
だが逆らえぬ。
母に負い目を持つ子は、何としてでもその寵愛を得たいと願うものだ。
たとえ行動した先に、阿鼻叫喚の地獄絵図が待っていたとしても。
カグツチは平伏し、イザナミの言葉に従うほかは無かった。