余話・ツクヨミは男神? 女神?
スサノオ達は野営をしていた。
昼夜の別なく曇天は相変わらず晴れないが、それでも夜は昼に比べて輪をかけて暗く、寒い。
夜間は特に穢れを持った悪神が跋扈しやすい。野営の際には見張りが必要だ。
スサノオが見張りに立ち、タヂカラオやウズメ、オオゲツヒメらは大樹の傍で、綿の外套に身を包みながら寝息を立てていた。
スサノオはふと、自分の身に着けている黒い勾玉に声をかけた。
「……ツクヨミ、起きてるか?」
「…………ああ」
ツクヨミと呼びかけられた勾玉は、たちどころにその形を変え……紫がかった闇のような御衣を纏った、美しい顔を持つ神の姿を取った。
月の神ツクヨミ。夜の世界を治める主にして、スサノオと同じ三貴子の一柱だ。
同じく三貴子であり、二柱の姉でもあるアマテラスの魂が黄泉の国へと連れ去られてしまい、それを取り戻すための旅路に同行している。
「オオゲツヒメが旅に加わってから、本当に助かってるよな……
あの女神、食べ物だけじゃなくて頭から蚕まで生えてくるし。
お陰様で夜でも、寒い思いをしなくて済んでる」
「……そうだね。彼女の力とウケモチの技は、ある意味我々三貴子の持つそれよりも、ずっと尊いものだ」
元々彼女に同行を依頼したのは、黄泉の国の食物を口にしない事が目的だったが……
オオゲツヒメの蚕の繭から採れた生糸から、旅に必要な衣類までも作成する事ができた。彼女に付き従う闇の神ウケモチが、絹とするに足りぬ質の生糸を加工する事で、保温性に優れた真綿を作った。真綿を衣類に入れる事で、防寒着として大いに役立ったのだ。
アマテラスの岩戸隠れにより日が差さなくなってからというもの、葦原中国の食糧事情も極端な悪化の一途を辿っていた。
スサノオ達のような神ですら、夜露で飢えをしのぐに近い有様だったのだ。黄泉の国に辿り着くまででも、彼女の食物には世話になりそうだ。
地上の人々の飢餓はさらに深刻であった。
道すがら、飢えて死にかけている人を見かけては、オオゲツヒメは快く食物を提供した。
幸い彼女の食物を生み出す瞬間は、ウケモチの作り出す闇の加護もあり見られずに済んでいる。
餓死寸前の人々はオオゲツヒメを救い主と称え、涙を流して感謝していた。
「あんなスゲー力を持ってるのに、迫害とか受けてたんだよな。あいつ……
オレだったらイジけちまって、人々に施しなんて頼まれたってするもんか!
って思っちまいそうだが」
「持って生まれた力というのは、ままならない事も多いものだよ。
他者からは優れていて、便利なように見えても……それと長い事付き合っていると、何かしら不満や不便を感じている事は多いと、私は思う」
ツクヨミは星の見えぬ空を眺め、悲しげに息を吐いた。
「私の持つ神力も、君のような対等以上の力を持つ尊き神でなければ、いずれ忘れ去られてしまう。
今はもう、大分慣れたけど。
生まれて間もない頃は結構、寂しい思いをしたよ……」
ツクヨミの力は、名の示す通り「月日を読む」。触れた生き物の記憶を読み取る事ができるのだ。
だがどういう訳かツクヨミが姿を消すと、ツクヨミと出会っていた時の記憶は消えてしまう。いくら善行をしても、立ち去れば忘れられてしまうのである。
「持って生まれた力や才能、環境は覆しようがない。過去の行いを変えられないようにね。
しかしそれに絶望し、嘆いたり不満をこぼすだけでは、結局何も変わらない。
オオゲツヒメは己の不遇に絶望する事なく、今の自分にできる事を精一杯やろうとしている。敬意に値すると私は思うよ」
「だったら、お前のお陰でもあるよな、ツクヨミ?
お前がオオゲツヒメに会って、あのウケモチって奴を寄越したからこそ、彼女は食物神としての役目を果たせるようになった」
「……そう、なのかな?」
「気づいてないかもしれないけどよ。
彼女のお前を見る時の目、オレたちと全然違ってたぜ。
きっと感謝してもし足りないくらいの気持ちがあるんだろーね」
ツクヨミは急に押し黙り、スサノオから顔を逸らした。
照れているのだろうか? 最初はとっつきづらいと思っていたが、意外と世間慣れしていない初々しさがある、とスサノオは思った。
しばらくの間、沈黙が続く。
少し気まずさを感じ、何か話題はないかと考えたスサノオは……ふと今まで疑問に思いはしたものの、尋ねる機会のなかった話を思い出した。
「ツクヨミ。前々からずっと気になっていた事があるんだが……」
「…………な、何?」
「お前って。男神なのか? それとも女神?」
またしても、長い沈黙が二柱の間に漂った。
ツクヨミから普段からは想像もつかないほど、戸惑いの雰囲気が感じ取れた。
「なッ……何をいきなり今更な話を……?」
「いや……オレ自身、キチンと確かめた訳じゃねーから、知らねーんだよ。
オレも最初はウズメちゃんと同じで、お前を男神だと思ってたんだが……タヂカラオは『あんなに綺麗で整った顔立ちしてるなら女神だろう』って言ってたしさ」
スサノオの言葉は純粋に単なる疑問からだったが、ツクヨミはひどく取り乱し、俯いて黙り込んでしまった。
「……ツクヨミ? な、なんか不味い話だったか?」
「いや、いやいやいや! そんな事はない! そんな事はないよスサノオ!
い、今までのやり取りからして、大体察せるだろう!?」
「……察せなかったから、今こうして聞いてるんだが……?」
「し、失礼な奴だなスサノオは! どこからどう見ても、私はお、男神だろう!
こんな色気のない喋り方をする女神が、いる訳がないじゃあないか!」
男神なら男神であると、普通に言えばいいだけのような気もする。
というか、この狼狽ぶりは明らかに不自然だ。
スサノオは色々と腑に落ちない事だらけだったが、当のツクヨミ自身が男神だというのだ。疑うのも気まずい。
「そっか。ツクヨミは男だったんだな! 疑ってて悪かったよ」
「…………」
「……ツクヨミ?」
「……い、いや。気にしないでくれ。そう、分かってくれればいいんだ」
今のツクヨミの声は、普段の冷静そうな様子が微塵も感じられない。
何やらがっかりしたような、安堵したような。奇妙で複雑な感情が入り混じっているかのようであった。
「…………スサノオ。こっちからも聞いていいか?」
「あ、ああ。勿論だぜ。オレに答えられそうな事なら」
「あの……ウズメって神だけど。高天原の女神って、皆あんな感じなの?」
「……いや、それは……姉上を含めた、高天原に住む女神全員の名誉にかけて断言するけど。
違うから! ウズメちゃんがちょっと特殊なだけだから! あんな開放的すぎる女神がそうそういる訳ないだろ!」
ウズメの明るさと親しみやすさを、スサノオは嫌いではない。むしろこの旅にとって救いになっているし、かけがえのないものだと思っている。
が、それとこれとは話が別だ。
「……なんでウズメちゃんの事を? 気になったの?」
「いや、その……私も長い事、夜之食国にいたから。外の世界の天上や地上の女神がどんな風なのか知らなくて……」
「なるほど。さっきも言ったけど、ウズメちゃんは本当に例外だから。韓国や大陸の風習とかに影響されてるんじゃねーかな。
一般的な女神っつったら、姉上のアマテラスや、オオゲツヒメを参考にした方がいいと思うぜ」
「……そうか……そう、だよね……
てっきり外の世界に出たら、あんな恰好をしなきゃならないのかと……」
「そりゃ喜ぶ男神はいるかもしれねーけど、あんな女神ばっかりってのもなぁ。
やっぱ女性ってのは、ある程度は慎み深さってモンが必要だとオレは思う」
「……そうかぁ……ちょっと安心した……」
ツクヨミが目を合わせようとしないので、スサノオは何気なく訊いた。
「やっぱりツクヨミ兄貴も、慎み深い女神のほうが好みだったりする?」
「え!? いや、別にそういう訳じゃ……って、兄貴って……」
「だって、ツクヨミ男神なんだろ? だったらオレからしたら兄じゃあないか」
「……そーかもしれないけど……その呼び方はやめて」
「えっ」
「『兄貴』なんて呼ばなくていい。今まで通り『ツクヨミ』でいいから」
「いや、でもさ……」
「いいから!」
「……お、おう。悪かったよ……ツクヨミ」
ツクヨミの有無を言わせぬ口調に、思わずスサノオは鼻白んだ。ところが……
スサノオは異変に気づいた。ツクヨミの背後に、蛇に似た生き物が這い寄ろうとしている。
当のツクヨミはというと、スサノオから視線を逸らしたままで、何やら考え事に耽っている様子で全く蛇に気づいていない。
蛇の顔は歪み、穢れていた。間違いなく禍神に憑かれている。
「ツクヨミ、何ボーッとしてんだ! 危ねえ!!」
スサノオが叫ぶと、ツクヨミはようやくハッと我に返ったようだった。
蛇が不気味な笑みを浮かべ、好機とばかりにツクヨミに襲いかかる!
スサノオは反射的に身体が動いていた。
「……くそッたれがァ!!」
「うわッ!?」
間一髪。鎌首をもたげた蛇の悪神を、スサノオの十拳剣が両断した!
しかし咄嗟の判断だったため、勢い余って彼はツクヨミの身体に覆い被さってしまった。ツクヨミもまた、スサノオの勢いに押され為すすべもなく地面に転倒してしまう。
「痛って……大丈夫か、ツクヨミ? 突然悪かったな。
つーか、お前らしくねえぞ。考え事してて禍神の接近に気づかないなんて」
「……ああ、うん。済まない……助かったよ、スサノオ……」
予期せぬ事故とはいえ、ツクヨミを押し倒す形となってしまったスサノオは、慌てて起き上がろうとして……違和感に気づいた。
「ツクヨミ、お前……意外と身体、柔らかいんだな」
「!」
「……もうちょっと、鍛えろよ?」
「…………えっ」
「タヂカラオみたいに全身筋肉まで行くのはやり過ぎだけどよ。
仮にも男神なんだから、ちったぁ鍛錬しねーと」
スサノオの言葉を最後に、また長い沈黙が続いた。
ツクヨミは放心したように、目が宙を泳いでいる。心なしか顔も紅潮しているように見えた。
しかしやがて憮然とした表情で、ボソリと呟いた。
「…………重い」
「えっ?」
「いつまで上に乗っかってるのスサノオ! 重いからどいて!」
「……あっ。そ、そうだったな。悪かった、スマン。ツクヨミ……」
ツクヨミの奇妙な態度に、スサノオまで何やら面映ゆい気分になってしまった。
結局この後、二柱は会話らしい会話もなく、押し黙ってしまった。
だがこれだけの長い時間、ツクヨミと言葉を交わしたのも初めてだった。
その夜は見張りの交代があるまで、ずっと目を合わせようとしなかった事だけが気がかりではあったが。
ツクヨミとスサノオの旅は、まだ始まったばかりなのだ。
(余話・了)
記紀神話(註:古事記&日本書紀での神話という意味)において、ツクヨミは騎馬の男神の姿とされる。
だが『日本三代実録』なる書物では、出雲国において女月神という位階を授けられている、という記述があるそうな。
本当にどっちなんですかねこの神は……(笑)