十二.オオゲツヒメ
高天原からも、出雲の国からも遠く、海を隔てた先の島にある村。
ここは粟国。後に阿波国(註:徳島県)と呼ばれる事になる地だ。
元々は実り豊かな地であったが、先の穢れし暗雲の影響は、この遠い地にも昏い影を落としていた。
アマテラスの「岩屋戸隠れ」による日照量の減少。寒冷化に伴い、瞬く間に作物の収穫量は激減してしまっていたのである。
村長である老人が、簡素な神殿を訪れていた。
戸を開けると質素な居間にて、ふっくらした顔を持つ女神が笑顔で出迎えた。
彼女の名はオオゲツヒメ。「国産み」の際に生まれた一柱であり、食物を司る神である。
「オオゲツヒメ様。幾度も足を運び、お手間を取らせて申し訳ございません」
「……構いませんよ。皆が困っているのですから。
わたくしの力が役立てられるのでしたら、こんなに嬉しい事はありませんわ」
平伏する村長に対し、オオゲツヒメは暖かい言葉を差し伸べた。
暗雲による飢饉が頻発するようになり、不作を補うため、村人はオオゲツヒメに頼らざるを得ない状況に陥っていた。
噂では、葦原中国全土が食糧難に見舞われており、多数の餓死者が出ているという話だ。
そして未だに食糧のある、この粟国を目指して人が集まりつつあるという。
オオゲツヒメは食物の神だけあり、食べ物を生み出す力を持っている。
村長に請われ、オオゲツヒメは毎日のように食物を提供していた。
但し「食べ物を作り出している時は、決して覗いてはならない」という取り決めをした上で。
「……こちらで、皆に行き渡りますかしら?」
オオゲツヒメの用意した稲・粟・麦等を前にして、村長は涙を流して感激し、ますます低く頭を垂れた。
「おお、ありがとうございます。ありがとうございます!
このような事を言える立場ではありませんが……オオゲツヒメ様。
最近少し、おやつれになったのではありませんか……?」
村長の指摘に、オオゲツヒメは笑みを浮かべて「気のせいでしょう? 心配いりませんわ」と答えた。
食糧を受け取り、何度も何度も頭を下げて去っていく村長を見送った後、オオゲツヒメは嘆息した。
(ここのところ……確かに調子が良くないわね。
昼も夜も暗雲に覆われているせいで……わたくしの体内にも影響が出てしまって、いるのかも……)
「…………ケッ。あいつら、調子いいよなぁ」
村長の姿が見えなくなると……オオゲツヒメの傍から甲高い、子供のような声がした。彼女の隣に、大きさ一尺(註:約30センチ)ほどの黒い闇に覆われた神が寄り添うように立っていた。
「切羽詰まった時だけ、こうやってオオゲツにすり寄って来やがって」
「そのような事を言ってはなりませんよ、ウケモチ」オオゲツヒメはたしなめた。
「人も神も、苦しい時はあります。
困った時はお互い様、というではありませんか」
ウケモチと呼ばれた闇の神は、納得いかなさそうに顔をしかめた。
「だってあいつ等人間って。食べ物に困ってなかった時は、さんざんオオゲツの事を疎んでたじゃあないか。
ここの神殿に落ち着くまでの間。お前、酷い目に遭わされたんだろう?」
ウケモチの言葉に、オオゲツヒメは表情を曇らせた。
その指摘が正しかったからだ。
彼女の食物を生み出す力は、その肉体の様々な部分を介して行われる。
それは鼻や口や耳……そして、女陰や尻といった箇所である。
食べ物を受け取った人々は最初こそオオゲツヒメを歓迎したが、食物が生み出される瞬間を目の当たりにした途端、手の平を返し「穢らわしい神め!」と罵倒し、彼女を迫害した。
その度にオオゲツヒメは住処を転々と変えた。時には殺されかけた事もあった。
「でも、それを見かねたツクヨミ様が。ウケモチ、お前を遣わして下さった。
お陰でわたくしは追われる事もなく、ここでつつがなく暮らしていけるのよ」
流浪の身であったオオゲツヒメは、偶然にもツクヨミと出会う機会があった。
その際に彼女に触れて記憶を読み、その窮状を見かねたツクヨミは、己の眷属である小さき闇の神を供させるようにした。
「これからは食物を生み出す時、この神の作り出す闇の中で行うといい。
そうすれば、人に見られて困った事にはならなくなるはずだ」
それがこのウケモチ──本当の名ではない。名前がなければ不便だという事で、オオゲツヒメが勝手に名づけたものだ。
真の名を尋ねない事。それがツクヨミの出した条件だった。
この闇の神はツクヨミに仕えし者であるため、真名を知ればたちどころに加護が忘れ去られ、力を失ってしまうのだという。
「ウケモチにも、ツクヨミ様にも。わたくしを必要としてくれる、村の人々にも。
わたくしはとても感謝しているわ。
食物の神としての使命を、全うさせてくださるのだから」
オオゲツヒメは、お世辞にも美しい女神とは呼べないだろう。
だがその心は誰よりも献身的で、その笑顔は見る者を和ませ、安心感を与える力があった。
ウケモチは、そんなオオゲツヒメが好きだった。