一.黄泉大神(ヨモツオオカミ)
荒廃した大地。暗き曇天。行き交う者たちにはみな活気がなく、常に肌寒い風が吹き荒ぶ。
ここは死者が向かうとされる、穢れに満ちた「黄泉の国」。
黄泉の国に奉られた骨の玉座に、禍々しき雷光を纏う、暗い影のような姿の女王がいた。
名をイザナミ。かつてイザナギと共に「国産み」を行った女神である。
「あな……にくし……あな……いとし……」
イザナミは悲嘆に暮れていた。彼女は黄泉へと堕ちた時、黄泉の食物であるヨモツヘグリを食した。
あれほど後悔した事はなかった。ヨモツヘグリを食した者は、完全に黄泉の住民となり、二度と黄泉の国より出る事は叶わなくなる。
イザナギが迎えに来てくれた時、全ては手遅れであった。
美しかったイザナミの肉体は腐り、ただれ、蛆が湧くようになり。
生者の目にはおぞましき屍同然の姿と成り果ててしまったのだ。
イザナギが禁を犯し、醜き己の姿を見て、恐怖し逃げ惑った時。イザナミは怒り狂った。
イザナミの従えし雷神たちや、黄泉の軍勢、黄泉醜女らを総動員してイザナギを捕えんとしたが、あと一歩というところで逃げられてしまった。
「イザナギ! 愛しき我が夫よ! このような酷き仕打ちをよくも。
そなたの国の人々を、一日千人、絞め殺してくれようぞ!」
「イザナミ! 愛しき我が妻よ! そなたがそのように申すならば。
我は一日千五百の産屋を建て、生まれさせよう!」
イザナミの呪詛によって、葦原中国では毎日千人が死に。
イザナギの返しの言霊によって、毎日千五百人が生まれるようになった。
イザナミはただ、愛しきイザナギと共にありたい。それだけであった。
だが葦原中国が、イザナギの生の加護によって存続する限り。
イザナミとイザナギが再び出会う事はない。
日に千人の人間を殺すため、イザナミは黄泉大神となり。
葦原中国の様子を手に取るように見る事ができた。
差し引きで五百人ずつ産まれ、殖え、育ち。
かつてイザナギと二柱で作り上げた地上の国は、少しずつ栄えていった。
生きていた頃であれば、共に喜べたはずの光景。
だが今は、愛しき夫との邂逅を阻む障害でしかない。
イザナミの暗き妄執はつのるばかりであった。
だがある日、ふと海原を見た時のこと。
荒れ狂う海。枯れた山々。夏の蠅のごとくけたたましく満ちた悪神の声。
海原に混沌が現出していた。
その中心には、ひたすらに泣き叫び続ける神が一柱。スサノオである。
「あやつ……確か、スサノオとか言うたか」
イザナミの腐り落ち、淀んだ瞳に喜悦の色が浮かぶ。スサノオは母である自分に遭いたい一心で嘆いているのだ。
「……使えるやもしれぬのぅ」
イザナミはとある計画を思いついた。あの時は叶わなかった己が願いを成就させるべく、スサノオを利用する手筈を整える事にした。
「大雷よ」
「はいィ……大神サマ」
イザナミが呼ぶと、彼女の頭部に渦巻いていた雷が形を成し、狡猾そうな目つきをした青年の姿を取った。
イザナミに仕えし八雷神が一柱、イザナミの頭に宿りし大雷である。
「吾の声とこの剣を携え、あのスサノオの下に馳せ参じるのじゃ。できるか?」
「容易い事にございます。今、あの者の周りは穢れに満ちておりますれば」
大雷は嫌らしい笑みを浮かべ、必ずやイザナミの思惑通りにスサノオを誑かして見せると豪語した。
「期待しておるぞ、大雷」
「吉報をお待ち下さいませ」
大雷はゴロゴロと笑い、雷神らしく稲妻の如き速さで、スサノオの歩く地上を目指し、飛び出していった。