一.長鳴鳥(ながなきどり)
昼夜問わず闇が覆うようになった、葦原中国。
暗くなった大地は灰色に染まり、淀んだ雲は鉛のような色をしている。
木々も、獣も、国に住む人々も、生きるための色を失ってしまった。
太陽が黒雲に覆われ、姿を現さなくなってから。
高天原の尊き三貴子が一柱、アマテラスが天岩戸に隠れてしまった時から。
地上も、天上も、全てが死に向かいつつあった。黄泉の国に飲まれつつあった。
これこそが、黄泉大神たるイザナミの望んだ世界。
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暗雲の影の中、ひた走る鳥の姿があった。幾羽もの鳥の群れ。
彼らは長鳴鳥という。
後の世において鶏と呼ばれる事になる、朝を告げる鳥たちだ。
しかし今や、彼らの中で元気に鳴く者は一羽としていない。
彼らは知っている。朝が来ないことを。
自分たちの役目が今、この地上には無いことを。
長鳴鳥たちは走るのをやめた。
だが生きるのを諦めた訳ではなかった。
彼らは知っていた。今、自分たちが居るべき場所のことを。
いと尊き「国産みの神」が、彼らを教え導いた。彼らは待つ。待ち続ける。
やがて夜が来た。昼と区別のつかぬ夜が。
それでも長鳴鳥たちは、歓喜の声なき声を上げた。
彼らの救い主の姿が見えたからだ。
月の神ツクヨミ──尊き三貴子が一柱にして、夜之食国の主。
ツクヨミの顔は、憂いの色を帯びながらもなお美しかったが、望月の明るさには程遠く、朧月が如き昏い影を落としている。
ツクヨミは長鳴鳥の一羽に触れた。
「…………辛かったね」
ツクヨミの言葉に、長鳴鳥は一礼するように頭を下げる。
「おいで、常世の国に。そこでしばらく安らうといい」
常世の国。海の果てにあると言われる、不老不死の異郷として伝わる地の名だ。
ツクヨミは鳥たちに一羽一羽触れていき、そのことごとくに労いや慰め、時には涙を流して迎えた。
そのやり取りは、一夜の夢のごとく。一瞬にも、永遠にも感じられる時の中で行われ続けた。
(……やはり父上の言っていた通りの悪夢が、現のものとなってしまった)
ツクヨミは長鳴鳥たちを通じて、闇に覆われた葦原中国の惨状を思い知った。
穢れし暗雲は、ツクヨミの治める夜之食国にも影響を及ぼしつつあった。
星々は雲に隠れ、闇に棲む者たちも、風の音も、情なきを悲しみ、歌うのをやめてしまった。
彼らは存在する。ツクヨミが慈しむべき者たちは、今なお国で安らいでいる。
だが彼らの姿は見えず、声も聞こえない。今のツクヨミは孤独だった。初めて夜之食国を訪れた時のように。
(……こんな感覚……久しぶりだな……)
父イザナギはツクヨミの国に訪れ、去りし折に「自分も出来る限りの事はする」と、ツクヨミに約束した。
この長鳴鳥たちを、ツクヨミの下へと参集させる事もその一つなのだろう。
だがその全てが、無事辿り着けた訳ではない。それはツクヨミにも判っていた。
彼らの仲間の内の大半は、地上に蔓延る穢れに飲まれ、命を落としていた。
穢れとは、何も汚れる事だけを意味するのではない。
穢れは「気枯れ」とも書く。仕事続きで疲労したり、人間関係で極端に精神を消耗してしまう事もまた、穢れに繋がるのだ。
だから枯れた気を取り戻すために、宴や祭を催す事もまた、穢れを祓う立派な禊となる。
(スサノオは……来るだろうか? この夜之食国に……)
ツクヨミに導かれ、常世の国へと辿り着いた長鳴鳥たちは、眠りにつく。
安らうために。力を取り戻すために。葦原中国に陽が差し、自分たちの役目が再び来ることを祈りながら。
常世の長鳴鳥。それは来るべき禊──アマテラス復活のための宴──を迎えるために、イザナギが講じ、ツクヨミに託した手段であった。




