九.落魂落日
承前。時間は少し遡り、機屋の天井にいたスサノオの様子を語るとしよう。
彼は穢れの渦によって、中の様子が見えない事に思い至った。
そして上がる悲鳴。見知った姉アマテラスの切羽詰まった声。
スサノオはようやく、事態がただならぬものであることを悟った。
「おい! 大雷!」
「……何でございましょう? スサノオ様」
スサノオの呼びかけに応じたのは、母イザナミからの使者である雷神だった。
「下で姉上の悲鳴が聞こえる! これは一体どういう事だ?
オレが今までやってきた事は、母上に会うために必要だって話だったろう!?」
苛立ちながら詰問するスサノオに、雷神は表情ひとつ変えずに答えた。
「お言葉を返すようですが……我が主イザナミ様は。
これまでただ一つとして、スサノオ様に偽りを申し上げておりませぬ」
「ふざけるなァ!
母上に会う事と、姉上が危険に晒される事がどう繋がるってんだ!?
……もういい! てめェの言う事なんざ信じたオレがバカだったぜ」
相変わらず中の様子は、天井からでは伺い知れない。
それでもスサノオは、姉の窮状を放っておく訳にはいかなかった。
「降りられるつもりですかな?
イザナミ様のお言葉にない行動を取られるおつもりか」
「黙れ! オレの邪魔をするなら、まずはお前の首から叩き落とすぞ!」
鬼気迫るスサノオに対し、大雷はそれ以上は何も言わなかった。
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スサノオ決死の防衛も、あと一歩及ばず。
七柱の雷神の襲撃のうち、六柱までは防いだものの。
スサノオの防御をかいくぐり、八雷神が一柱たる拆雷が、アマテラスの胸から巨大な『鏡』を奪い取った!
雷神の割れ鐘のような下劣な声が、勝ち誇るように響く。
「はははは! 黄泉大神よ、ご照覧あれ!
やりましたぞ! この拆雷が!
アマテラスめの『魂』を奪い取る事に成功したのですッ!!」
古来より、人や神に宿る霊を魂魄と呼び、二つの陰陽の気が均衡を保っていなければならないと言われる。
天からの陽の気を司るは魂。精神の源であり、死しては天に昇るという。
地からの陰の気を司るは魄。肉体の源であり、死しては地に帰るという。
拆雷がアマテラスより奪った『鏡』こそ。
後に八咫鏡と呼ばれる事となる神器。
太陽の化身たるアマテラスの持つ陽の気の結晶であり、彼女の『魂』──すなわち精神そのものであった。
「拆雷。それだけでは足りぬぞ。
アマテラスを完全に亡き者にするためには、『魄』である勾玉も奪わなければならん!」
「無茶を言うでないわ、火雷!
あの一瞬で魂魄共々、我一柱のみで奪い去れと申すのかァ?
……それにもう遅い。外から物々しき足音が聞こえるであろう」
拆雷の言う通りだった。
異変に気づいた高天原の神々が、次々と機屋に駆けつけようとしている。
「これ以上、ここには留まれぬ。潮時ぞ!
まさか我らだけで、タケミカヅチをはじめとする天津神全員を相手取れとでも言うのではあるまいなァ?」
「ぐッ……まあよい。
『魂』である鏡さえこちらに有れば、もはやアマテラスの意識は戻らぬ。
暗雲に覆われた天上と地上!
穢れを祓う陽は翳り、二度と昇る事はあるまいて……
者ども、引き上げるぞッ!!」
火雷の号令を受け、残り六柱の雷神たちも天井から暗雲に飛び出そうとした。が……
「…………返せッ…………!」
「!?」
拆雷が機屋から逃亡する直前、背後から恐るべき声が聞こえた。
スサノオだ。あれだけの傷を負い、意識も朦朧としていよう。にも関わらず。
飛び上がる拆雷に肉薄し、彼の持つ『鏡』に手を伸ばそうとしている!
「姉上の魂! 返しやがれェッ!!」
「ひいッ!?」
スサノオの凄まじい執念に、拆雷は恐怖の悲鳴を上げた。
だがスサノオの伸ばした手は、あと一寸届かず。雷神の頬を切り裂いただけで、力を失った。いかに三貴子の一柱といえど、この重傷でこれ以上動くのは限界だったのである。
(なんと恐ろしい……スサノオの力も。アマテラスの力も。
あの女神、あれだけ弱っていたのに、ここまでの『鏡』が作れるだけの陽の気をまだ蓄えておった。
三貴子の持つ神力、底が知れぬ。奴らが万全であったなら、我らことごとく打ち祓われておったであろうなァ……)
「待ちやがれてめぇらァ!!」
タヂカラオが怒りの咆哮を上げる。有り余る力で再び織機を持ち上げ、空飛ぶ雷神たちに投げつけようとしていた。
「止めておけタヂカラオ」火雷が嘲るように言った。
「我らはアマテラス様の魂である『鏡』を持っておる。貴様の投げる織機の盾にしてやってもいいのだぞ?」
「!……卑怯者どもがぁぁぁッ!?」
タヂカラオの絶叫が虚しく響く。
雷神たちの逃走を阻むものは、もはや何もなかった。
大勢は決した。
アマテラスの魂は雷神に奪われ、彼女は眠るように昏倒してしまっていた。
「──タヂカラオ! これは一体どういう──」
「──オモイカネ、コヤネ。すまねぇ、アマテラス様が──」
駆けつけてきた天津神たちの喧騒が、スサノオの耳に遠くに聞こえる。
(…………あね……うえ…………)
スサノオの意識が途切れる寸前、彼の心にあったのは屈辱と後悔であった。
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この日を境にして、高天原に暗い影が落ち、葦原中国も全て闇となった。
終わらぬ夜が続き、天上と地上に神々の嘆き悲しむ声が満ち、あらゆる災いが起こるようになった。
古事記に記されし、アマテラスの「岩戸隠れ」である。
(第一章 陽が翳るとき 了)




