イザナギの懇願
暗闇の中を進む影がある。
耳をすませば、囁くような虫の声。風の音。
全てが心地よく、気を抜けば眠り落ちてしまいそうだ。
一寸先も見えぬ。だが影は歩みを止めぬ。
恐らく幾度もこの道を通ったのであろう。
ここは夜之食国。偉大なる三貴子が一柱、ツクヨミの治めし国。
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「……父上、よくぞお越し下さいました」
夜之食国にある御殿にて。
来訪者を平伏して迎えるは、御殿の主である、月を司る神ツクヨミ。
御殿の中には明かりは無い。にも関わらず、ツクヨミの顔は夜空に昇る望月のごとく、輝くように美しい。
その中性的な美貌は、絶世の美女と称しても差し支えないほどである。
が、表情には乏しく、喜んでいるのか憂えているのかも判別はつかなかった。
ツクヨミが父と呼ぶ神は、かつて「国産みの神」として、数多くの島と神を生み出した、いと尊き者。
名をイザナギといった。
「ツクヨミよ、久しいな。
常に夜の帳が降りておるに、吹く風は暖かく、闇を拠り所とするあらゆる命が、心安らかに過ごしておるのを見た。
そなたは善く、夜之食国を治めておるようじゃ。父としても鼻が高い。
同じ闇の国でも、あの穢れに満ちた恐るべき『黄泉の国』とは大違いよの」
イザナギは自嘲気味に笑った。
恐らくは、思い出しているのだろう。彼の妻であったイザナミが死した時、自ら黄泉の国へと赴いた時のことを。
結局イザナギは死者となり果てたイザナミを連れ戻す事は叶わず、黄泉の国から逃げ出す事となり。
黄泉の国で受けた穢れを祓うため、阿波岐原(註:宮崎県宮崎市にある御池)にて禊を行った。
禊とは、災厄を引き起こす「穢れ」を浄化するために、水で心身を清める行為である。
禊の最中、実に26柱もの神が生まれた。
その最後に生まれた三柱こそが、最も尊く神力も強い三貴子。
すなわち、左目を洗いし時に生まれたアマテラス。
右目を洗いし時に生まれたツクヨミ。
鼻を洗いし時に生まれたスサノオである。
「滅相もございません」ツクヨミは平伏して答えた。
「ただ、父上に与えられし神力を以て、命じられた通りに夜之食国を治めているに過ぎません」
「謙遜せずともよい。そなたが治める前のこの国は、何が潜んでいるやも知れぬ、ある意味黄泉よりも恐ろしき魔境であった。
そなたに与えし神力は確かに強力なもの。だがそれだけでは治めるに足らぬ。
ツクヨミよ。そなたは我が力だけでなく、慈しみの心も受け継いでおる。優しき神に育ったものよ……」
言葉を紡ぐイザナギは誇らしげであった。
「あの乱暴で、我儘で、海原を任せたというのに全く仕事をせぬ、子供じみたスサノオとは大違いじゃ。
アマテラスも善く、高天原を治めておるというに、何故あやつだけがああなってしまったのかのう……」
そう。三貴子が生まれた直後、イザナギは三柱それぞれに国を治めるよう命じたのである。
アマテラスには天上の高天原を。ツクヨミには夜の国である夜之食国を。
そしてスサノオには海原を任せた。
……のだが、スサノオは母親恋しさに何年もの間、嘆き続けるだけであった。
無論、海原は治まるどころか大荒れに荒れ狂い、それを見たイザナギは堪忍袋の緒が切れて、スサノオを海原より追放してしまったのである。
「スサノオは、イザナミに遭いたいと言うておったが……ツクヨミ。そなたはどう思う?
顔も声も知らぬ母であっても、愛おしく想い焦がれるものであろうか?」
イザナギとて、スサノオの気持ちは分からなくもなかった。
妻イザナミに会いたい一心で、独り黄泉の国に赴いた事がある身としては。
だが、だからこそ、スサノオの我儘は止めねばならなかった。
黄泉の国は想像を遥かに超えた恐るべき場所であり、何よりイザナミはすでに──
「……このツクヨミには、分かりませぬ。
ただ私は、この夜之食国を、この闇に棲む全ての生ける者たちを、空に舞う星々を、愛おしく想っております。
弟スサノオが、母イザナミを愛おしく想うのであれば、遭いたいと願う気持ちも自然なものかと」
「…………そうか」イザナギは目を閉じて、大きく息を吐いた。
「して父上。こたびはどのようなご用件でございましょう? 追放したスサノオの事で?」
本題に入ろうとするツクヨミの問いに対し、イザナギはかぶりを振った。
「……そうではない。恐るべき『夢』を見たのじゃ。何度も、繰り返しな。
ここまで来れば、この夢が現になるものと覚悟を決めねばなるまい」
イザナギは意を決したように、がばと額を床にこすりつけツクヨミに願い出た。
「ツクヨミよ。そなたが争いを好まぬ事は知っておる。が……それでも頼みたい。
そなたの力を貸して欲しい!
我にはすでに、この悪夢を祓いのける力がないのじゃ。
そなたの助力が得られなければ……高天原も、葦原中国も、滅びを迎える事になってしまう!」
あのいと尊き父イザナギが、子であるツクヨミを前にして平伏しながら懇願している。
国が滅ぶ。女神アマテラスの治める天上も、イザナギ・イザナミが文字通り命を賭して生み出した地上も。
イザナギの言葉と態度は、繰り返し夢に見た「危機」が、間近に迫っている事をツクヨミに悟らせるには十分であった……
(序章 了)