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イザナギの懇願

 暗闇の中を進む影がある。

 耳をすませば、囁くような虫の声。風の音。

 全てが心地よく、気を抜けば眠り落ちてしまいそうだ。

 一寸先も見えぬ。だが影は歩みを止めぬ。

 恐らく幾度もこの道を通ったのであろう。


 ここは夜之食国ヨルノオスクニ。偉大なる三貴子が一柱、ツクヨミの治めし国。


**********


「……父上、よくぞお越し下さいました」


 夜之食国ヨルノオスクニにある御殿にて。

 来訪者を平伏して迎えるは、御殿の主である、月を司る神ツクヨミ。


 御殿の中には明かりは無い。にも関わらず、ツクヨミのかんばせは夜空に昇る望月のごとく、輝くように美しい。

 その中性的な美貌は、絶世の美女と称しても差し支えないほどである。

 が、表情には乏しく、喜んでいるのか憂えているのかも判別はつかなかった。


 ツクヨミが父と呼ぶ神は、かつて「国産みの神」として、数多くの島と神を生み出した、いと尊き者。

 名をイザナギといった。


「ツクヨミよ、久しいな。

 常に夜のとばりが降りておるに、吹く風は暖かく、闇を拠り所とするあらゆる命が、心安らかに過ごしておるのを見た。

 そなたは善く、夜之食国ヨルノオスクニを治めておるようじゃ。父としても鼻が高い。

 同じ闇の国でも、あのけがれに満ちた恐るべき『黄泉の国』とは大違いよの」


 イザナギは自嘲気味に笑った。

 恐らくは、思い出しているのだろう。彼の妻であったイザナミが死した時、自ら黄泉の国へと赴いた時のことを。


 結局イザナギは死者となり果てたイザナミを連れ戻す事は叶わず、黄泉の国から逃げ出す事となり。

 黄泉の国で受けた穢れを祓うため、阿波岐原あわぎはら(註:宮崎県宮崎市にある御池)にてみそぎを行った。

 禊とは、災厄を引き起こす「穢れ」を浄化するために、水で心身を清める行為である。


 禊の最中、実に26柱もの神が生まれた。

 その最後に生まれた三柱こそが、最も尊く神力も強い三貴子。

 すなわち、左目を洗いし時に生まれたアマテラス。

 右目を洗いし時に生まれたツクヨミ。

 鼻を洗いし時に生まれたスサノオである。


「滅相もございません」ツクヨミは平伏して答えた。

「ただ、父上に与えられし神力を以て、命じられた通りに夜之食国ヨルノオスクニを治めているに過ぎません」


「謙遜せずともよい。そなたが治める前のこの国は、何が潜んでいるやも知れぬ、ある意味黄泉よりも恐ろしき魔境であった。

 そなたに与えし神力は確かに強力なもの。だがそれだけでは治めるに足らぬ。

 ツクヨミよ。そなたは我が力だけでなく、慈しみの心も受け継いでおる。優しき神に育ったものよ……」


 言葉を紡ぐイザナギは誇らしげであった。


「あの乱暴で、我儘で、海原を任せたというのに全く仕事をせぬ、子供じみたスサノオとは大違いじゃ。

 アマテラスも善く、高天原タカマガハラを治めておるというに、何故あやつだけがああなってしまったのかのう……」


 そう。三貴子が生まれた直後、イザナギは三柱それぞれに国を治めるよう命じたのである。

 アマテラスには天上の高天原タカマガハラを。ツクヨミには夜の国である夜之食国ヨルノオスクニを。

 そしてスサノオには海原を任せた。


 ……のだが、スサノオは母親恋しさに何年もの間、嘆き続けるだけであった。

 無論、海原は治まるどころか大荒れに荒れ狂い、それを見たイザナギは堪忍袋の緒が切れて、スサノオを海原より追放してしまったのである。


「スサノオは、イザナミに遭いたいと言うておったが……ツクヨミ。そなたはどう思う?

 顔も声も知らぬ母であっても、愛おしく想い焦がれるものであろうか?」


 イザナギとて、スサノオの気持ちは分からなくもなかった。

 妻イザナミに会いたい一心で、独り黄泉の国に赴いた事がある身としては。

 だが、だからこそ、スサノオの我儘は止めねばならなかった。

 黄泉の国は想像を遥かに超えた恐るべき場所であり、何よりイザナミはすでに──


「……このツクヨミには、分かりませぬ。

 ただ私は、この夜之食国ヨルノオスクニを、この闇に棲む全ての生ける者たちを、空に舞う星々を、愛おしく想っております。

 弟スサノオが、母イザナミを愛おしく想うのであれば、遭いたいと願う気持ちも自然なものかと」


「…………そうか」イザナギは目を閉じて、大きく息を吐いた。


「して父上。こたびはどのようなご用件でございましょう? 追放したスサノオの事で?」


 本題に入ろうとするツクヨミの問いに対し、イザナギはかぶりを振った。


「……そうではない。恐るべき『夢』を見たのじゃ。何度も、繰り返しな。

 ここまで来れば、この夢がうつつになるものと覚悟を決めねばなるまい」


 イザナギは意を決したように、がばと額を床にこすりつけツクヨミに願い出た。


「ツクヨミよ。そなたが争いを好まぬ事は知っておる。が……それでも頼みたい。

 そなたの力を貸して欲しい!

 我にはすでに、この悪夢を祓いのける力がないのじゃ。

 そなたの助力が得られなければ……高天原タカマガハラも、葦原アシハラノ中国ナカツクニも、滅びを迎える事になってしまう!」


 あのいと尊き父イザナギが、子であるツクヨミを前にして平伏しながら懇願している。

 国が滅ぶ。女神アマテラスの治める天上も、イザナギ・イザナミが文字通り命を賭して生み出した地上も。

 イザナギの言葉と態度は、繰り返し夢に見た「危機」が、間近に迫っている事をツクヨミに悟らせるには十分であった……



(序章 了)

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