夢想、その二
その青い星の名は、地球。
けれど、その時代の人々には、まだ“惑星”という概念はなかった。
それどころか、“日本”という概念すら、ほぼ無いといっていいだろう。
藩こそが自らが属する“お国”であり、生活は村と町でほぼ完結していた。
僕が生まれ育った山間部の村も、そんな村々の一つだった。
あの時代の農民にしては珍しい一人っ子で、両親はとても穏やかな人達だった。
半ば諦めかけた時に、やっと生まれた長男だったこともあり人一倍、大切に育てられた。
家もそして村も、特別裕福ではないが食うに困らず平和であった。
日々の暮らしの中で、それなりに心配事はあるが、長く思い煩うようなことは殆どない。
唯一、ここ数年来の心配事といえば、大概いい歳にも関わらず嫁がいないことくらいだ。
村の同年代の男女は皆、殆ど身を固めており、僕はあぶれていた。
村の娘御達に嫌われてはいないと思うのだが…
積極的な態度をとることもなかったからだろう。
婚姻は家同士の意向とされていたが、それはあくまで表向きで、実際には本人同士で決めていた。
後で聞いた話しだが、男衆の多くは、随分と若い頃から意中の相手に働きかけをしていたらしい。
そして彼女にも、少なくない若者達が気を引こうと働きかけていた。
にも関わらず、彼女はなかなか嫁にいかず、いき遅れと言われ始めていた。
同年代の仲間は男女問わず皆、彼女を慕い一目置いていた。
でしゃばることはなく、けれど彼女が一言二言、言葉を発するだけで不思議と物事が上手く進むのだ。
華やかな雰囲気ではないが、その笑顔には愛嬌があり。
気さくだが、どこか品があり。
取り立てて器量よしではないが、凛として美しかった。
僕もまた姉のように彼女を慕い、そして眩しく思っていた。
僕の心には、どこか重苦しい疲労感のようなものが、常に住み着いていた。
それは平穏な村の暮らし、ましてや優しい両親との暮らしに似つかわしくない感情だった。
そのことに疑問を抱えていたが、誰に話すこともなかった。
だが、彼女はそれを察しているふしがあった。
彼女はいつだか言っていた。
人の心は、時にこの空よりも広く、時に足下の蟻よりも小さい。
僕は思う。
本当は大概の人間が、自分が一体何を望んでいるのか分かっていないのではないか?
それでも確かに何かを欲していて、手の届く範囲の択肢の中から一番近いものを選び、
精神的な空腹感を満たしているだけなのではないかと。
そして一部の稀な人間は、自分の望みの正体を探ろうと苦行の道を選ぶのだ。
僕は、僕自身は、そのどちらでも無い。
目の前の有り様を、暖かさや切なさを、ただ呆然と眺めている。
満たされたいとも、真実を知りたいとも思わない。
人生という旅を続けてみたい。
強いていうなら、そう思うばかりなのです。
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広葉樹の黄色い葉が、秋晴れの真っ青な空に映える。
僕と彼女は、田んぼの脇で里山の袂、村の隅っこのような場所にいた。
そこは村の若い衆が、ちょっとした相談事や内緒話によく使う場所だった。
歯切れのいい世間話で笑いあった後、彼女はこう切り出してきた。
「この際、余った者同士、くっついてしまおうか?」
「えっ?」
そして、茶目っ気を振り撒きながら、告げてくる。
「よければ、嫁に貰っておくれよ。」
態度や言葉とは裏腹に、その目はひどく真剣で…
それはあまりにも、気遣いに満ちた告白だった。
僕はまるで、乾ききっている時に涌き出る清水を見つけたかのように、
彼女の言葉に頷こうとしていた。
…その瞬間、走馬灯のように駆け巡った。
それは、彼女と夫婦になった未来。幼い娘と息子がいた。
彼女は、よき妻よき母で、孝行な嫁で…
子供達が愛らしくて、いとおしくて…
胸が張り裂けそうなくらい、幸せだった。
そして気がつくと、彼女の申し出を断っていた。
自分のその言動に、僕は驚き、暫しのあいだ戸惑った。
彼女はというと、やっぱりそうかと言わんばかりに肩を竦めていた。
彼女に手をさしのべて貰ったことが、これ以上ないくらい嬉しかった。
けれど、「そういう奴だと分かっていたよ」と、茶化してくる彼女を見ている内に、
これで良いのだと、何故だかストンと腑に落ちてきたのでした。
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ーー俺はお前の絶望。
そうだね。星が滅んだ、あの時。
僕の魂が一人弾き出された、あの時。
渦巻く疑問が激しい怒りとなり、僕の人格その全てを焼き尽くした。
その焼け跡に立ち尽くしていたのは、俺だった。
ーーそして、お前は俺の絶望。
俺は求めた。そして、見つけた。
けれど道のりは遠く、足掻いても足掻いても、手が届かない。
それでも確信に突き動かされ、俺は足掻き続ける。
優しさを裏切る度に思うのだ。
この確信は、かけがえのないものだと。
けれど俺が今、突き放したそれも、とてもとても尊い。
どうして受け取らない?
どうして満足しない?
ありがとう。と、手を伸ばせばいいじゃないか。
そして、乾いた命を潤せばいいではないか。
なんて俺は愚かなんだ。
分かっている。分かっているんだ。
尊いものは、かけがえの無いものは、時に両方は選べない。
だから、どんなに惨めでも、足掻くしかないんだ。
けれど時々、フツリと切れて、真っ白になってしまう。
……そこに佇むのは、僕だった。
『僕は、とうに消えて然るべきなんだけどね。』
「…そうなのか?」
『そうとも。だって僕は、分かってしまったんだ。』
「何を?」
『姉のように敬愛した彼女と、夫婦にならなかった理由だよ。』
「何故なんだ?」
『…君だよ。』
「俺?」
『ああ。もう、分かっているんだろう?』
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遠い遠い昔、俺は唯一無二の相手と出会った。
結ばれることは無かったが、最後に約束を交わした。
それから何度も、生まれ変わった。
ついこの前の人生で、最後の二年間程、権力を握っていた。
権力そのものに興味は無かったが、守りたかったのだ。
女神のような彼女の心と、新たな王たる彼の人の未来を…
そして、そんな俺をあの人が、ずっと支えてくれた。
けれど俺は結局、彼女を守り抜くことが出来なかった。
彼の人をひどく悲しませた。
あの人に、後の面倒事を全て押し付けてきた。
俺の唯一無二の生まれ変わりは、彼女だと思っていた。
けれど彼女は最後の最後に、俺の手をすり抜けていった。
何故だか分からなかった。
女王であった彼女に、重荷を背負わせた愚民どものせいだと思った。
俺は死んでも激しい怒りを腹にかかえ、それは今生、生まれてきても変わらなかった。
ごく普通の中流家庭に生まれ、普通に人の世話になり、家族に可愛がられ…
そうして過ごす内に、自身の怒りに疑問が募ってきた。
本当に悪いのは民であったのだろうか?
違うのならば、では一体、誰が悪いのか?
この星とか宇宙とか、そういった大きな存在にも心があるとするならば、
それは一言で言い表すと“神”だろう。
“神”は大いなる存在でありながら、何もしてはくれない。
なんと残酷なのだろう。悪いのは“神”だ。
なにもかも全て、神が悪い。
そう思った瞬間、俺の精神は空を駆け、雲を突き抜け、大気圏も越えて…
気付けばそこは、果てしなく真っ白な空間だった。
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意外だと思った。
漠然と、若々しい成人の姿を想像していた。
目線は俺と同じ…当時は小学校高学年だったから、十代前半の子供ということになる。
それが、そこにいた“神”の姿だった。
一瞬、呆気にとられたものの、その目を見れば分かった。
その姿は仮初めなのだと…
その日から俺は、事ある毎にそこに通い、怒りを疑問をぶちまけた。
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“神”とは、なんぞや?
その問いの答えは、自分で考えてくれ。
これはあくまで、俺が出会った神様の話だ。
あの日から何年経っただろう。
俺の頭は、すっかり冷えていた。
本当に許せないのは、俺自身。
大嫌いなアイツと同じことをやらかした、俺自身だった。
怒りの全ては…そう、ただの八つ当たりだ。
そうと分かった以上、詫びるべきなのだが…切り出せずにいた。
神様は何もしてくれないのではなく、これ以上は何も出来ないのだった。
既に全てを与えてしまっているからだ。
だから、神様に何かして欲しいのであれば、相応に返す必要があった。
果てしなく真っ白な空間…それは、人々の虚無。
その神様は、たった一人でそれを受け止めていた。
そして、俺の怒りと疑問も、全て受け止めてくれた。
…支えてくれた。
嘗て、かけがえのない約束を交わしたのは、貴方だった。
けれど、それすら関係なく…俺は貴方と会う口実を失いたくなかった。
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『…なぁ、君はもう、答えを分かっているんだろう。』
ああ。俺はまた、フツリと切れてしまったのか…
ここは、俺の虚無。俺とアイツが鉢合わせる場所。
俺はまた、ここに逃げてきてしまった。
「そうかもな…けど、この子はどうする?」
俺の腕のなかには、赤子のミイラ。
俺はこの子を、何度も刺し殺してきた。
そしてアイツは、この子を何度も絞め殺してきた。
だから、この子はもう、ピクリとも動かない。
『その子は、僕が連れていこう。』
「お前が?」
『ああ…』
「そうか。」
『僕は君を超えられない…でも、君は僕を超えて行くのだろう?』
「…そうだな。」
俺は、どうしてもどうしても、あの人を諦められない。
笑えるだろ?あの人は今、人間ですらないのに…
『懐かしい陽だまりに帰るよ。だから、その子を僕に渡して。
君はまた、せいぜい苦しみ続けるといい。』
そうだな。それが良いのかも知れないな。
……けど、だけど
『さぁ、渡して。君はもう、その子を抱えきれないだろ。』
ーーそして俺達の後ろには、もう一人いる。
『“あれ”に、その子を取られてしまってもいいのか?』
駄目だ。それだけは、絶対に駄目だ。
けれど、やっぱりお前にも渡せない。
身勝手もいいところだが…俺は、どうしようもないほどに、この子が愛おしい。
気付けば、この子を庇うように、アイツに背を向けていた。
『…君は、この上、まだ苦しみたいのかい?』
「そうだな…」
『強欲は、身を削るよ。』
「…分かっている。」
足掻いても足掻いても、手が届かない。
それでも…この子も、あの人も、あの人が統べる世界も
「全て…俺のものだ。」
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ーーそして俺達の後ろには、もう一人いる。
俺達人格の後ろにいる、“あれ”
それは、存在そのもの。
それは、善でもなく悪でもなく。
それは、力…そして、快楽。
快楽とは、怠惰のことをいう。
快楽とは、精進のことをいう。
快楽とは、絶望のことをいう。
快楽とは、希望のことをいう。
快楽とは、欲望のことをいう。
快楽とは、正義のことをいう。
それは生きる為の力。
そして、やがて人格を飲み込んでしまう、死。
だから俺は、鬼の金棒が欲しい。
魂が齎す死を捩じ伏せる為に…
この強欲が、快楽によって形を失わないように
本来、魂に形を与えるが為の人格、なのだろう。
けれど俺は、逆行する。それが俺の答えだから…
生まれ変わっても、また貴方に出会えるように
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魂すらも、捩じ伏せる。
また貴方に会いたいから…
けれど、それは、あの人の有り様を否定するも同然のこと。
この矛盾に、言葉を紡ぐたびに胃がキリキリと痛む。
「…もう少し信用してくれないかな。」
神様が微笑む。
「詫びも遠慮も要らないよ。」
何で、そんなに簡単に許す?
「分からない?悲しいのは味方になってくれない事なんかじゃない。」
俺は、誰の味方にもなれはしない。
「…体よく無視される事だよ。」
貴方を無視なんて出来るわけがない。
「その点、あなたは可愛いよ。何でも反応するんだもの」
「……」
「困った顔も、可愛いよ。」
「…可愛い、言うな。」
「怒った?」
「…怒ってない。」
「じゃあ、いじけたんだ。」
貴方は困ったように微笑むと、くるりと踊るように廻る。
振り返った貴方は、すらりとした青年の姿をしていた。
深い夜に浮かぶ満月と、水面に映る満月。
二つの大きな満月に照らされ、貴方は煌々と輝いていた。
「ねぇ。形あるもの全ては、不完全なんだよ。…例えば今、発しているこの言葉すらね。」
言葉ほど、明確かつ不完全なものはないだろう。
「けれど、形を得なければ命を得ることもないんだ。」
不完全ゆえに、様々と結び付くということか。
「生まれ変わっても、あなたは時々、同じ言葉を繰り返す。…そして、私も同じ言葉を返す。」
ああ、言われてみれば、そうかも知れない。
「それでも、同じ言の葉でも、そこに宿る息吹は少しずつ変わっていると思うんだ。」
そうだな。けれど…
「俺が“命”に反することばかりして、貴方がそれを諌めるのに変わりはない。」
「そうだね。けれど、こんなにもその命を繋ぎ止めたいと思うのは…そんな、あなただからだよ。」
「…」
「あなたが何度その命を粗末にしたって、私は何度だって諌めて繋ぎ止めようとすることでしょう。」
ーー神は自由を与えたもうた。