小さな部屋のサンカクカンケイ
手招きすると、裾を踏んずけてこっちに寄ってきた。条件反射のように腰に腕が回り、満足……というよりは当たり前。集合時間まであと二十分。玄関にはもう荷物はまとめている。
フットサルサークルの旅行で、二泊三日家を空けることになった。よーチャンとは長い付き合いだ。同棲だってしているから今更少し離れたくらいで寂しいもクソもない。それにたぶん、俺が留守にしている間こいつは喜んで外に遊びに出るだろう。バイトのシフトが、俺のサークル旅行に合わせて休みを取っていることくらいわかっている。(よーチャンの手帳で確認済みだ)
本人がそんな態度でも、ただこうしとかなきゃ後でちょっとは後悔するって自覚はあったから。
額同士を合わせると、丸いおでこの感触が気持ちいい。視線を合わせ、見詰めるとそれがサインだ。感情の方はいつまでも鈍いけれど、俺の我儘につき合わせているうちに何が欲しいのか察してくれるようになった。
ふわっとした感触が唇に残り、昨日エッチしなかったのを若干後悔する。なんとなく自分の中でムキになっていた。ちょっと留守にする前に、チャージするみたいにやるのなんて馬鹿みたいだ。すぐに戻ってくるんだし、連絡だってしなくていいくらいの短さ。
別にいいだろ、って。昨日までは確かに思っていた。
だけど早朝から玄関でのキス、しかもよーチャンから(やらせてるっていうのは考えない)っていうのは中々クるシチュエーションだ。キスを深くしていくと、段々後ろに仰け反って苦しそうに服を引っ張る。
いつもやる気なさそうだから、切羽詰まった姿がかわいくてつい無理させてしまう。酸素を求めて顔を逸らしたよーチャンはむっとしていた。
「朝から」
「留守にするんだからこれくらいいいだろ」
「……お土産ください」
寝起きでぼさぼさの髪。灰色のスウェットは俺が量販店で買ってやったやつ。首元が大きく空いているから着せようと購入したら、着心地が良かったらしく気に入っている。
そんな恰好と、朝の乾いた声が対価としてお土産を請求している。子供みたいな姿がどうしようもなくかわいく映るから末期だ。
「食べ物でいい?」
「ん。食べ物がいい」
餌みたいにもそもそ食べさせる光景を想像して、今からお土産を選ぶのが楽しみになる。
感情の起伏があまり見られないから物で釣るのが一番わかりやすい。俺がこいつに恥ずかしいせりふひとつ吐いたって変化しないくせに、ご当地物の甘味を買って帰るとめちゃくちゃ嬉しそうに目を輝かせるからむかつく。……且つ、甘やかしたくなる。
「お前、わかってるよな。俺が帰ってきたとき外で遊んでんなよ」
「はいはい待ってる待ってる」
「いなかったらお土産なしだから」
「待ってるってば」
ほんとにわかっているのか危ういけれど、とりあえずメールでいいからと夜には連絡することを約束させた。家を出る時も、よーチャンはいつも通り、学校に俺が先に向かう時と同じ一言。「いってらっしゃい」だけだ。
……別に、全然いいけど。
*
アイザワくんが家を留守にする。それも、二日間。
いなくなってから思わず「やった」と声に出てしまったのは口が裂けても言えない。
溜まっていたゲームを朝まで攻略コース、それとマっちゃんをついに家に呼べる日が来た。友達の少ないおれの、一番の仲良しがマっちゃんなのに、一人暮らしを始めてからまだ一度も部屋を見せたことがなかった。
計画的に丸三日、バイトは休みをもらい、マっちゃんにも連絡済みだ。今日の夜六時から外で飲み、それからうちに泊まりに来る。この日をどれだけ待ちわびていたかマっちゃんにもわかって欲しい。
「マっちゃーん!」
アパートは割と近くだけど、用事があったということだったので二駅離れた駅前で待ち合わせをしていた。駅前広場のモニュメント前に立っていた、携帯に目を落としているコワモテなその人を見つけ、条件反射的に飛びついていた。
「って!吉澤痛い」
思い切り体当たりしたのでマっちゃんはよろけた。怒られるのが嬉しいのは断じてMとかじゃない。構ってもらえてる気がするからだ。
ごめんごめん、と建前だけの謝罪をする。予約してくれたという居酒屋に早速向かうことにして、ビルが陽に落ちる街並みをだらだらと歩く。駅前のビル群を抜けると、雑多な小路がいくつにも分かれる飲み屋街が出現する。時間としてはまだ早すぎるからか、どこも空いているようであまり人がいない。あと一時間もすれば会社帰りのサラリーマンや、おれたちみたいな暇な大学生で賑わうだろう。
洋風居酒屋と木の看板に書かれた店に着き、奥の席に通される。障子で区切られた個室は、中が見えないようになっている。店内の障子が開けっ放しになっているのが目立っているから、まだまだ空いている。
案内された個室の引き戸を開け、そこにいた人の姿に一瞬思考が固まった。
「……赤井さん?」
久しぶり、と柔らかに笑うその人は、髪が短くなっていたけれど間違いなくおれの高校時代の癒し。そしてあまり女子と話さないおれが、一番仲良くさせてもらっていた人。心のオアシスだ。
「なんか昨日偶然会ってさ。明日お前と飲むって話したら会いたいねってなって」
「お、おおおマっちゃんグッジョブすぎ!!て、そういえばマっちゃんて赤井さんと知り合いだったっけ?」
「あー……まあ」
「この前松本くんと別れた彼女と私、友達だったから」
濁した内容をさらっと暴露して、なんでもないことのように扱う赤井さんにマっちゃんがたじろいでいる。高校のときから付き合っていた女の子だ。そこらへんの事情を赤井さんは知ってそうだった。
「そういえば吉澤くんって今大学でなにしてるの?」
「んー、一応農学部だけど、っていうより生物学ぽいのかなあ。農作物の遺伝子とか実験してるよー。赤井さんは?」
「あたしは教育学部。小学校の先生希望なんだけどね」
「うわあすごい似合いそう」
「吉澤くんも。畑いじりとか想像したらすごいはまるー」
「そうかなあ」
「そうそう」
へらへらするおれに、赤井さんは目が線になるふわふわした天使スマイル。割って入ったのはマっちゃんの「いちゃいちゃすんな」とおれと赤井さんの間にえんがちょーの形をしたチョップだった。
いちゃいちゃなんて照れくさい。すぐに「松本君は?」とフォローを入れてくれたのに、「とって付けたように言うな!」という鋭いつっこみが入る。いつだってマっちゃんはキレキレなつっこみ要員になるので話が進む。
頼んだアルコールが来たら、とりあえず再会の乾杯。
マっちゃんはビール。おれと赤井さんは聞いたことのない名前のカクテルを頼んで飲み比べる。マっちゃんに「女子かよ」と突っ込まれるけど、かわいい女子とお酒を交換して草っぽいとか飲みやすいとか文句をつけたり感想を言い合うのは楽しい。距離感が自然と近くなり、髪からいい匂いが漂ってきた。
飲み放題コースが時間切れになる頃、お酒に強いマっちゃんは変わらないまま。赤井さんは少しふらついて。おれは、べろべろで。肩を支えられながら家に着くと、忘れかけていたもう一人の部屋の主が今日はいないのを思い出した。
「寄ってく?」
「いいの?!」
きゃー、と黄色い声が鉄筋の柱に当たって響く。扉の前でぴょんぴょん跳ねる赤井さんは兎みたいだ。
「簡単に女子誘うな」
「マっちゃん何考えてんのー。ただ言っただけじゃん。あ、でもマっちゃんは泊まるよね」
「あたしもあたしも!」
「だめ。送るから赤井は帰れ」
マっちゃんがこっちにちらちら視線を送ってきて、その意味を理解するのに気付いたのは二人を部屋に入れて、床に腰を落としてからだった。邪魔だと言って肩につくくらいの髪を後ろで一本結いにし始めたその、女の子特有の仕草に見とれていたら今更はっとして。
おれのカレシがどれだけ目ざといのか。そして、自分の詰めがいつもどれだけ甘いのか。
絶対ばれないと思っていても、バイトだから遅く帰ると嘘をついて参加した飲み会も、学科みんなで女の子を含めて遊んだことも、勝手に原付バイクを借りて倒したら後ろが少しへこんでしまったことも。
言い訳や嘘が通用しなかった。ドン引きするくらいおれのスケジュールもきっちり把握しているし、赤井さんくらいの長さの髪がどこかに一本でも落ちていたらそれだって見つけてしまうかもしれない。マっちゃんが頑なに拒否したのは、いつもそういうことを聞かされているおれのためを思ってだった。
マ、マっちゃんごめん。
やっと気づいて視線を送り返すと呆れたように鼻を鳴らす。
「あ、赤井さんごめん」
「んー?」
「やっぱり帰ったほうがいいかも」
目をぱちぱち瞬かせる仕草に、勿体なさが増幅する。折角今日久々に会えて、しかもこんなに仲良く話ができたのだって高校以来なのに。アイザワくんはほんと罪な男だ。
どうして? と小首を傾げて、説明をどうすればいいのか躊躇われた。
「んっと、実はこの部屋おれのじゃなくって。だから女の子泊めたら怒られるっていうか」
「えーと、それって」
伝わりにくいのは昔から直っていない。
「彼女さんと住んでるってこと?」
それで、気長に意味を探してくれる相手がおれにはとても救いで。頷くと、酔いが醒めたようにふわんとした笑みを止めた。口元は緩く曲線を描いているから機嫌が変わったわけではなさそうだ。
マっちゃんは口を挟まずに見守ってくれている。事態がややこしくなるかもしれないのにいつもなら出す助け舟がないのは、この場では時間がかかってもいいってことかな。
「吉澤くん」
どきりと心臓が跳ねた。柔らかい指が、両頬を包んでいる。しっかりした肌触りしか普段感じることがないから、女の子の細くて丸い指先はもうこの先触れることがないんじゃないんだろうかと思うと、この感覚を取っておきたい。なんて、場違いな妄想。
「そういうの言ってくれる人でよかったー。やっぱりだ」
「え?」
「えへ」
「ん?んん?」
ふふ、とまた緩やかな笑みが浮かぶ。言っている意味がよくわからないけどつられてへらっと笑った。女の子ってよくわからない。
「しょうがないなあ。じゃあ言う通り遅いから帰るけど、また遊ぼうね」
「うん」
それまで何も言わなかったのによっこらせ、とおっさんぽく立ち上がるマっちゃん。もっかい来るわー、と言って二人で部屋を出ていく。玄関先まで見送ると、ひらひらと綺麗な形の手の平が上下に動いた。顔を寄せると、この距離で意味があるのかわからない耳打ち。
「またね」
というたった一言。それが耳元で静かに囁かれるだけなのに、かーっと耳に熱が集まる。知らないうちに赤井さんは随分男を翻弄する手段を身に着けていたようだ。高校の時よりは女子耐性がつくられているとはいえ、こんな不測の事態に対応できるようにはなっていない。
どう飲み込んでいいかわからないまま、マっちゃんの「行くぞ」という声に促された背中を眺めていた。
「どうすんだよ」
普段は手をつけないアイザワくんのサッカーゲーム。マっちゃんがまた来るからと引っ張り出しておいた。二人で肩を並べて、床には缶ビール。
「んー何が?」
「何がってお前。赤井……モロだったじゃん」
「赤井さんかわいかったね」
「じゃ!なくて」
よそ見をするのでマっちゃんのパスは意図しない選手に流れる。こぼれ球をもらい、おれの方が先取だ。
「付き合わねーの?」
「付き合うって。そもそも今日久しぶりに会ったばっかだよー」
「だから。お前が押せばすぐに付き合えんだろ。高校の時からお前ら仲よかったじゃん」
「んー。そりゃ、赤井さんと付き合ったらすごい楽しそうだと思うけど」
「じゃあさ」
あ、もう一点取れそう。
「でももうおれ、アイザワくんと住んでるし」
「だから!」
部屋がびり、と振動した。真横からの大声に鼓膜が震えて痛い。
手を止めて隣を見ると、強面がこちらを睨んでいた。怒っているように見えて、違うんだ。マっちゃんはおれをずっと気にしてくれていた。
「マっちゃん」
「あん?」
「やっぱおれ、マっちゃん大好きだ」
赤井さんを紹介してくれたのって、もしかしたらこの同棲状態を心配したからなのかもしれない。家に誰も連れてきちゃ駄目とか、飲み会が終わったら連絡しろとか。少し緩くなったものの変わらない束縛具合とか。なし崩しにずっと付き合ってるからそれでいいのかって。
「あーもう……なんだそれ」
「大丈夫だよ。ありがと」
「馬鹿みてえ……」
肩の力が抜けたのか、コントローラーを投げ出してプレイを諦めたおれの親友に、うへへ、とだらしなく笑って飛びついた。マっちゃんといると興奮した犬みたいになるのは条件反射だ、仕方ない。離れろホモ、と罵られて、それがなんだか嬉しく感じるあたりもうダメかもしれない。
ゲームを投げ出して結局、引っ付いた勢いで疲れるまでプロレスごっこ(という名で遊んでもらっている)に変わる。ベッドの上に放り投げてもらったり、肩車ができるのか試して、低い天井に頭をぶつけてみたり、だ。
汗だくになって、少し休もうと床に転がると隣にマっちゃんも転がる。すぐに睡魔が襲ってきて、寝ながらぬるくなったビールを流すとすぐに陥落した。携帯が光っているのがぼやけた視界に入り、何を意味するのかうっすら理解しながらも睡魔には勝てない。
バイブ音に「あいつからじゃねえの」とマッちゃん。曖昧に返事をして、意識を手放した。
きっとまた怒られるけど、それでおれも、向こうもおれのことを嫌いにならないのはわかってるから。
このまま。