うこん桜の香り
うこん桜の香り
昭和から平成と年号の変わった初秋、西山明は左目の視野が狭くなり、網膜剥離と診断された。
その日のうちにG医大病院に入院した。
アイマスクで目を覆われ、砂袋で頭を固定された。身動きもできず、ベットに寝ているだけである。
闇の世界で体が動かないと、余計なことばかりを考えていた。
夜になり、病室が静かになると、同室の患者のいびきでさえ安心させられた。
そんな明を勇気ずけてくれたのは、水田百合であった。明は手術を待つ3日間の間、二十歳の青年のように百合に恋をした。
手術が成功して最初に見る者が百合であることを願った。
月に一度の波子の墓参りには、どんなに雨が降ろうと、寒くても、暑くても百合は歩くことにしていた。
寺までは5キロほどの道のりであった。
8月10日は波子の三回忌の一日前であった。看護婦をしている百合は、休暇を取らなかった。別居中の稔と顔を合わせることが不快であった。それに担当の患者の事も大事であった。
日差しの強い日である、歩く負担を考え、日傘を持たずに来た。1キロも歩くと、日陰を選んで歩いていても、汗が噴き出していた。
私鉄の駅を通り過ぎると、渡良瀬川である。川から吹き上げてくる風が百合の汗を運んでくれた。百合はシャツを指でつまみ、その風を体に入れた。
橋を歩いているのは百合1人であった。橋を渡り終えると、百合は波子の好物の、ケーキを買うことにした。寺に行くには少し遠周りになるが、波子に喜んでもらいたいと考えた。
洋菓子店に向かうと、画廊が目に入った。少女の絵が見えた。
どこか波子に似ている気がした。立ち止まり中を見た。
「どうぞ中でご覧になってください」
店番の男がドアを開けた。
「すみませんこの絵はいかほどでしょうか」
百合はドア越しに尋ねた。
「どうぞ中は涼しいですから」
「ありがとうございます」
店に入れば絵を勧められることは覚悟していた。
「こちらの絵は非売品でして、お売りできません」
「残念ですわ」
「この絵は私がこの店を開店した時、初めて仕入れた記念の絵ですので申し訳ございません」
「とても娘に似ているので・・・」
「それでしたら肖像画の先生を御紹介いたしましょうか」
「この絵が欲しいのですから、結構です
「この絵を描いた先生の作品でしたら他にもございますが」
百合は他の絵を見る気はしなかった。しかし涼んでいきたい気持で、店内を眺めた。波子に似ている絵は見れば見るほど欲しくなった。下着にしみ込んだ汗が冷えて冷たさを感じ始めた。
「どうぞ」
テーブルにホットコーヒーが用意されていた。
「いただきます」
百合はコーヒーを口に運んだ。
「名刺か何か頂けますか?」
「どうしてかしら・・」
「気が変って、お売りするならお客様にと思いまして」
「ぜひ、お願いしますわ」
百合は住所と電話番号を書いた。
画廊を出て少し歩いただけで汗が出た。
ケーキを買い、花を買いながら寺に向かった。
逆さ川のほとりを歩いた。
百合が7歳の時に百合の父は死んだ。百合は納骨の時まで泣き続けた。
「百合いつまでも泣いているんじゃないよ」
この川に来た時、母に言われたことが思い出された。
逆さ川を覗いた。あの頃の水草の生えた清流ではない。
橋を渡ると、波子の墓である。
波子の墓には萎れた花があった。
周りを掃除して、新しい花を入れ、ケーキを供えた。線香に火をつけ、手を合わせると、蝉の声が、波子の声のように聞こえ始めた。
いくら考え直しても、今の百合は稔を許す気にはなれなかった。波子の保険金が手に入ると、稔は人が変ったように、株の信用取引に手を出した。上手くいかなくなると、商品相場にも手を出したのである。損が重なると、勤めている銀行の客の金に手をつけたのである。
百合がそのことに気がついたときには1000万円ほどの金であった。
監査でそのことが解り、波子の保険金で清算したが、銀行は首になった。
稔は、競艇、競馬、競輪とギャンブル三昧であった。百合は自分がいなくなれば仕事に就いてくれるだろうと、別居を決めた。離婚も考えたが、波子に申し訳が出来ない気持ちであった。
百合が死のうと思ったのは、2度目である。最初は、看護婦になって2年目の事、担当の患者が病室で自殺したのである。
当直の当番は2人いたが、1人は百合に頼みこんで外出していたのである。
その時間に患者が自殺したのだ。4人部屋で、カーテンで仕切りがされているだけであるが、ベッドに紐をかけて死んだ。
同室の患者が見つけ、ナースコールで知らせてくれた。
とにかく紐をとき、ドクターに知らせた。
百合の処置に間違いはなかったが、見回りの時間が10分遅れたことが問題になった。
2人で見廻ればそんなことは無かったのだが、百合は自分がうっかりしていたと相手の看護婦をかばった。
責任を感じ、死を決めて、青森の恐山に来た。
異様な景色である。どんよりとした臭いのきつい池、沢山のカラス、通り過ぎてきた杉の木立の緑色が生の世界なら、正にここは死の世界を思わせた。
ここで優しい言葉をかけてくれたのが、稔であった。
その優しさで生きる事を知り、2年の交際を経て結婚したのである。
波子の死
波子が高校1年の夏休み、1人で佐渡島に行くと言いだした。
美術部に入っていたので、夏休みの課題を仕上げるための、写生旅行であった。
心配でもあったが、いい経験になると、百合も稔も同意した。2泊の予定であった。ところが帰る予定の日になっても戻らないのである。旅館に電話をしたが予定通り、旅館を出たのであった。直ぐに2人は佐渡に行き、波子の足取りを追った。
何も手がかりが掴めず、地元の警察に捜索願を出した。
半日経って、波子の水死体が海岸に打ち上げられた。
事故と自殺の両面の捜査が行われ、結果は自殺と判断された。
夫婦岩の絵は仕上がっていたように見えた。靴が揃えてあり、
砂浜には波子の足跡だけしかなかったのである。
百合と稔の生活が狂い始めたのはこの日からであった。稔は、波子を1人っ子でもあり可愛がっていた。その落胆ぶりは傍目から見ても解った。70キロの体重が、2カ月で50キロまでに痩せてしまったのである。
稔は休みのたびに、1人で佐渡に行っていた。初めのうちは百合も行ったが、そうそう休みを取れるわけではなかった。
稔は波子の描いた絵を眺めては、煙草をふかし、何もしないでいた。
百合はそんな感傷に浸っていられなかった。病院の仕事は週に2日の夜勤がある。2度と過去の過ちは犯したくないから、特に夜勤は神経が疲れた。
次第に百合と稔は生活が狂い始めた。
そして、稔のこの始末である。
百合は死ぬのなら、波子と同じ場所が良いと思った。
佐渡に渡った。
夜になるのを待った。5月の連休が過ぎた週である。
観光客もまばらである。砂浜で海を見ていると、波子の事ばかりが思い出されてくるのである。
自然に涙が出てきた。
百合が下を向いて涙を拭こうとした時、大きな波が来た。
百合は除ける間もなく波を被ってしまった。
ハンカチで拭いたくらいでは、衣服の水気は取れるものではなかった。
「どうぞ」
厚手のタオルを差し出してくれた。42,3歳の男である。
「すみません」
死を覚悟していたのに、余りにも素直な自分に驚いた。
男は絵を描いていたのだと言った。
百合は波子が轢き合わせてくれたのかもしれないと感じた。
男は西山明と名乗った。画家であった。
百合は男の勧めで男の宿に行くことにした。何しろ死を覚悟していたので、宿の予約もしていなかったのである。
濡れたままでは風邪をひくと親切に言ってくれたのである。
その宿は、男の定宿らしくて、女ものの浴衣と袢纏を用意してくれた。
「風呂に入れば体が温まります」
百合は言われるままに従った。
風呂から部屋に戻ると、すでに夕食の用意がされていた。
「いい風呂でしょう」
何か今知り合ったばかりには思えなくなっていた。
「はい、温まりました。おかげさまで」
「ビールどうです」
「いただきますわ」
百合はアルコールは強かった。
「いける方ですか」
百合は笑って答えた。
ビール2杯を呑んだ所で
「この部屋は使って下さい、自分は別に取りましたから」
と男は言った。
百合は男西山明を信用した。死ぬ前に話をしてみる気持ちになった。アルコールがそうさせてくれたのかも知れない。
波子の自殺や夫と別居していることを話した。
「なぜお嬢さんは佐渡に来たのでしょう」
「夏休みの絵の課題のためです」
「その課題とは?」
「確か海の見える風景です」
「栃木には海が無いからな」
「もっと近くにあるのに」
西山は佐渡に来たわけを知りたがっていた。
百合にもそんなことは解らないのである。
今晩宜しかったら海辺を歩いてみませんか」
西山が百合を誘った。
食事を済ませると、百合と西山は外に出た。
「その辺に下駄を脱いでみてください」
「どうしてですの、素足では冷たいわ」
「下駄を揃えてください」
百合は言われるままにした。
「こちらに歩いて来て下さい」
西山は波打ち際に立っていた。
こうしてこのまま海に入れば、足跡は1人しか付きません。
百合と西山はずっと波打ち際を歩いて来た。2人の足跡は波に消されてしまうのである。
心中したのか、殺されたのか、自殺なのか解りませんが、自殺する動機が無いのでしたら、後の残った2つのうちの1つです。
「気の弱い子でしたから・・・」
百合は言われるままに従いたくないと思った。
自殺と決めて諦めたことである、いまさら何かを探し出そうとしたところで何にもならない気がしていた。
百合は翌日、西山に礼を言うと帰宅した。そして、その日の夜勤に勤務した。
西山が百合に生きる希望を与えてくれた気がした。
百合は波子の友達を調べ出した。
波子は日記を書いていないので、そんなことでさえ大変な作業であった。
百合は信じたくは無かったが、波子は女になっていたのではないかと感じていたのである。それは親としてより、女としての直観である。
西山が言い出さなければ心の奥に置いておきたいことであった。しかし、心中か殺されたのであれば、大事なことになる。
司法解剖されたがそこまでは警察も知らせては来ない。
部活だと言って、学校の帰りの遅いことが何度か有ったことを思い出した。
美術部の友達に電話で聞きだすと
「波ちゃん先生の事好きと言ってた」
と教えてくれた。
恋文
波子の好きだという教師の名は川田正巳、28歳であった。
美術担当である。すでに結婚して2年経っていた。
背の高い、筋肉質で、若い生徒の憧れであることが一目で解る。好青年である。
百合は電話で面会を申し込んだ。波子の母親であることは隠して、絵の事を教えて欲しいと言った。断れないようにと、校長に先に許可を取っておいたのである。
美術の教官室に案内された。絵の具の臭いがして来た。
「どんな質問でしょう」
「欲しい絵があるのですが、先生に見て頂ければ助かるのですが」
「そういう事でしたら、いつでも」
「ありがとうございます」
「こんな所なのでお茶も出ませんし、用件がすみましたら、失礼させて頂きたいのです。生徒を待たしていますので」
「それでは、お電話いたします」
百合は波子に似ている絵を見てもらおうと考えていた。
その後何回か川田先生に電話をしたが、都合が悪いと断られた。やっと約束を取り付けた。
百合が学校に迎えに行くと
「僕の車を出します」
と言った。其の車はベンツであった。
「いいお車乗っていらしゃる」
「親父のお古です」
「お父様は何のお仕事です」
「弁護士です」
「すごいですね」
「僕は頭が悪いからこの仕事にしたんです」
「先生ですからご立派ですわ」
「先生も嫌いなんです」
「どうしてです」
「絵を描いているのが一番好きです」
そんな話をしているうちに、目的の画廊に着いた。
「非売品ですがこの絵です」
「これは僕の絵ですよ。どうしてここにあるのかな」
「先生がお描きになったのですね」
「サインは本名じゃないんです」
「そうでしたか」
この日はこの間の店番の男ではなかった。
百合はこの絵が波子であると確信した。
しかし、波子がどこまでこの教師を好きだったのかが知りたいのだった。
百合は波子の残した佐渡の絵に、少し不自然な所があるように感じていた。
休みの日にその絵を持って、西山のいる東京に行った。
喫茶店で会い、絵を見てもらった。
「この空と海のタッチは違います」
「そうですか」
「外の明るい所で見ましょう」
少し歩くと公園があった。
西山はキャンバスを太陽に向けた。
「この絵は下に何か書いてありますよ」
「何がです」
「上に描いた絵の具を取り除かないと解りませんね」
「出来るのですか、そんなこと」
「私のアトリエに戻ればできます」
「お願いします」
タクシーを見つけ、西山のアトリエに向かった。
西山の作業から浮かんできたのは、桜の花であった。
それも珍しい、うこん桜であった。
その根元にサインとも暗号ともとれる「愛」の文字が記されていた。
うこん桜であると解ったのは西山である。さすがに画家であると百合は感心した。
「ぼくが余計なこと言いだしたから、こんな探偵ごっこになって、責任ありますから手伝います」
うこん桜探し
西山が言うには、うこんザクラに何か秘密があるのではないかと言うのだ。
百合は市の観光課に電話した。しかし、観光課では把握していなかった。
次に市内限定の豆新聞に電話した。
「聞いたこと有りませんね」
と言う返事であった。
百合は自分の車のガラスに(この近くでうこん桜を知っている方教えてください)と書いた貼り紙をした。それには自宅と病院の電話番号を入れた。
3日後に自宅に知らせが入った。
波子の通っていた高校にあると言うのだ。
すぐに高校に行った。事務室で許可を取り、事務員にうこん桜を尋ねたが解らないと言った。事務員は生物の先生に聞いてくれた。
「案内しましょう」
「すみません」
「珍しいですね、このさくらはこの街には多分ここだけですよ」
「どんな花なんです」
「八重です。色は白に淡い緑がすこし入っている感じです」
そのさくらは校庭の隅にあった。
「4月半ばに咲きます、今はただの桜の木ですよ」
「ありがとうございます。少しここに居ても宜しいでしょうか。スケッチをしたいのですが」
「許可を取ったのですからどうぞ」
教師は帰って行った。
百合はゆっくりと、うこん桜を観察した。
すると幹の一部が躯になっていた。根元の方である。
中を覗いた。瓶がある。誰かがいたずらで入れたのであろうが、取りだしておこうと思った。
コーヒーの瓶であった。中に何か紙が入っている。
蓋を開け、手紙を取りだした。
君の白い肌は綺麗だったよ。僕にはとても君の肌の色は出せなかった。だから、君を肌で感じたかった。許してくれなんて言いたくない。せめて、うこん桜の花が咲くまで待っていて欲しい。君の絵には洋服を着せたから安心していいよ。
誰が誰のために書いたのか?
百合はこの恋文をバッグに入れた。そしてすぐに、西山に電話を入れた。
「多分、美術の先生が波子さんに書いたのだと思うよ」
「私もそう感じたわ」
「結婚している先生は、波子さんが邪魔になったのかな」
「波子妊娠してたかも」
「それだといよいよ、先生怪しいよ。先生の文字が欲しいな」
「後で頂きに行くわ」
モデル
学校ほど何をするにも安全で安心な所は無いと、川田は考えていた。生徒は午後7時には校舎から完全に出なくてはならない。それ以降まで残るには、教師の許可が必要になる。
川田は水田波子にモデルを頼んだ。それもヌードモデルである。普通の感覚では生徒にそのようなことをさせるのがおかしい。川田は常識を超えても波子の白い肌を描きたいと思ったのだ。
波子も川田に好意を寄せていたし、例え裸になったとしても先生なら安心できると思ったのだ。
4月ではまだ寒い夜である。
「いいか、暗幕は閉めてあるから光は外には漏れないし、鍵もかけてあるし、学校には俺とお前だけだ」
「はい」
「記念になる。先生を信頼してくれ」
「はい」
「裸になったらその椅子に座れ」
「はい」
命令するような川田の言葉を波子は受け入れるだけであった。
波子はな制服を脱いだ。
「先生は教官室で待ってる。用意できたら言葉をかけてくれ」
「はい」
波子は下着を脱いだ。風呂に入るつもりでいいんだと言われても、恥ずかしい。ふと見ると大きな花瓶に、桜の花があった。
波子はその花を取った。
「いいです」
波子は桜の花で陰部を隠した。
「おお、考えたな」
川田は笑いながら言った。
「寒いです」
「ストーブつけるか」
川田はヒーターのスイッチを入れた。
「始めるぞ、気楽に行こう」
「はい」
「今日は1時間、3日で仕上げるから」
10分もすると波子は落ち着いてきた。父親にいつも見られているようなものだと感じた。
「この絵どうするんですか」
「美味く描けたら展覧会に出す」
「嫌です、それなら顔は似せないで書いてください」
「それは解ってる」
「安心した」
「このことは誰にも言うな、親にもだ、2人の秘密だからな」
「はい」
「デッサンが出来た。終わりだ。洋服を着でいいぞ」
川田に言われるままの波子であった。
波子は波子で川田に期待もしていた。この秘密を持ち続けることで、川田先生が自分1人の者になるかもしれないと考えたのだ。
3日が過ぎた。
「駄目だ、駄目だ」
川田は自分の思ったように絵を仕上げることが出来なかった。
「先生、私が動いているから」
「色が出ない、君の色だ」
川田は言いながら、波子を押し倒していた。
「いや、いや」
萎れ始めた桜の枝で、波子は川田の顔を叩いた。
イーゼルが倒れた。波子の絵が波子を見ている。
波子は何をどこまでされたのかも解らなかった。洋服を身につけると、教室を出た。波子の足音が静かすぎる校舎に反響した。
川田はイーゼルを立てなおすと、波子の裸婦の上に絵の具を載せ始めた。青色のカラーシャツを描き始めた。自分の波子への行動の後悔なのか、絵の仕上がりの悔いなのか、黙々と描いた。
波子は自転車をこぎながら涙が止まらなかった。驚きの体験であった。男とは恐ろしいものと感じていた。
夕食も取らずに風呂に入った。体をきつく洗った。あれほど慕っていたのになぜなのか解らない。
波子はいつものように登校した。
その日に川田先生から手紙を貰った。読むとそれをコーヒーの瓶に入れ、うこん桜の幹に入れた。庭掃除の時に幹に穴のあいていることを知っていたのである。
それ以来、波子も川田先生も余り口を利かないようになった。
波子は手紙の言葉が気になったが聞き出すことはしなかった。
相変わらず川田先生は女子生徒にもてていた。それを見ると自分も近づきたいと思うが、可愛いパンダがいつ獣になるのかと心の奥には、恐怖心があった。
そのまま夏休みに入ったのである。
波子は絵を描くため佐渡に行こうと決めた。
佐渡は川田先生の生まれた所であった。
稔の過去
百合の夫である稔は、百合と結婚する前に、2年ほど同棲生活ををしていた。其の事は百合には話していない。
大学を出て、銀行に入り、そこで知り合った女性であった。
結婚を前提に同棲生活に入ったのだが、妊娠したら女性は銀行を辞め、正式に籍を入れる約束をしていた。
所がいつになっても妊娠しないのである。女性は産婦人科で診てもらったが異常は無かった。とすると原因は稔と言う事である。女性は子供が出来ないなら別れると言いだし、稔は承知した。
その傷跡を癒すために行ったのが、恐山であった。
そこで百合を知り、看護婦と言う仕事から来る優しさを感じた。この人ならたとえ子供の出来ない自分でも解ってくれると感じたのである。
百合は稔の思った通りの女性であった。
結婚しすぐに子供が出来たと嬉しそうに百合が打ち明けた時、
稔は信じたくは無かった。
すでに結婚式を済ませ、籍も入れた後である。とても離婚など言い出せない。
子供の出来ない自分に百合に子供が出来たのなら、それは百合が浮気したことに間違いないのだ。
稔は百合を愛していた。結婚式の前の浮気なら許そうと考えた。これから上手くやって行けばいいのだと自分に言い聞かせた。
生まれた子供は女の子であった。稔に似ていると言われると、その子が本当の自分の子のように思えてきた。可愛い。
どうせこのまま暮らしていくのであれば、親子3人仲良く暮らそうと思い始めた。
波子は中学2年まで稔と風呂に入った。
百合が夜勤のときは必ず入った。
百合がいる時には百合と入った。
「ガス代勿体ないよね」
無邪気に言うのである。
そんな波子を稔は女として感じ始めていた。
百合がいない安心感もある。
「体洗うよ」
稔は波子の体を洗いはじめた。今まで何回となく洗っていた体であるが、稔のなかに波子を女と感じた時、稔の手の力は自然と百合を愛撫するかのように、ゆっくりと柔らかな動きになっていた。
「くすぐったいから、もういい」
波子はシャワーを浴びて出てしまった。
その日から波子は稔と風呂に入らなくなった。
稔は波子が風呂に入ったのを見ると、バスタオルを持って来たとか、シャンプーはあるかとか様子を見に来た。
波子は裸を見られることが嫌になった。同時に父親が嫌いになった。
今まで可愛がっていた波子に嫌われていると感じた稔は、自分の子ではないという意識が大きくなりだした。
波子を女として感じ始めた稔は、波子が成長するほど、その意識が強くなっていた。そして今まで自分を騙し続けた百合にも、愛が憎しみに変わり始めた。
百合に復讐するのであれば、波子を犯してしまえばいいのだと思い始めた。
波子が佐渡に行く日に稔も銀行に休暇届けを出した。
稔の心の奥のどこかには、まだそんな恐ろしい事を許さない気持ちもあった。
波子の日程を手にして稔は考え始めた。
手紙
百合は川田の筆跡を確認するため手紙を書いた。
先日はありがとうございました。
実は私、西山波子の母親です。波子が在学中は大変お世話になりました。
波子の遺品を整理致しましたら、川田先生のお手紙が出てまいりました。
これは先生にお返しすべきか、こちらで頂いて宜しいものかと思案しております。
つきましては先生からご指示を頂きたいと思いますので、ご返事お待ち申し上げております。
川田からは直ぐに返事が来た。
そのような手紙を水田波子様に書いた記憶はありません。
何かの間違いかと思いますので、お確かめいただきたく思います。
もし私川田正巳の物でしたらいかようにされても結構です。
葉書で返事は届いた。
百合は直ぐに西山に知らせた。西山はこちらに来てくれると言った。
3日後に来た。
川田のはがきを見て、瓶から出てきた手紙と同じだと言った。
「それにしても達筆だ」
西山は感心した。
「川田先生出してないとどうして書いたのだろうな」
西山は考えだした。
「波子さんではなく他の生徒に書いたとも考えられるな」
「それでは波子は、何でうこん桜に愛と書いたのです」
「そうですね」
西山はまた考えた。
「波子さんは川田が他の生徒に手紙を出したことを知っていたのかもしれません」
「それでは波子と川田先生とは何の関係も無いと言う事」
「はて、さて」
西山の推理通りなら、波子はやはり自殺なのかもしれない。
でも波子に自殺するような動機が百合には考えつかないのだ。
「変なこと僕が言い出したからいけなかった。許して下さい」
「いいのよ、死のうとしていた私を助けてくれたのですから」
「そう言ってくれると嬉しいです」
「それに波子に悪いことしたようだわ。変に疑ったりして」
「波子さんの事真剣に考えたのだから怒りはしませんよ」
「そうかな、今まで波子のこと何も考えてやらなかった」
「看護婦さんの仕事がそうさせたのですから」
「甘えていたのね」
「百合さんの看護で何人もの人が感謝してますよ」
百合と西山はそんな会話をしながら駅に向かった。
「もう、探偵ごっこは終わりですね。残念だな。百合さんに会えなくなる様で」
「また相談すること有るかもしれません」
西山は電車に乗った。
百合はこれ以上、波子の死の詮索は止めようと思った。
以前病室で患者の自殺があった時、疑う気になれば、何人かの患者がいた。百合自身でさえ殺す事はたやすく出来た立場なのだ。ただ誰にも確たる動機が無い。
人の命を奪うにはそれなりの動機があるはずである。
果たして川田先生に波子を殺すだけの動機があるのだろうか。
いくら自分の娘とは言え、やたらに疑うことはできないと反省した。
川田先生が関係無いとすれば、もう疑う人はいないことになる。殺されることより、自分で死を波子が選んだとすれば、それなりに諦められる気持ちに落ち着いた。
百合は仏前に座った。
笑顔の波子がいる。あまりにも早い別れに、波子は涙がとめどなく流れた。
波子の死が昨日のように感じられたのである。
鬼畜の涙
波子は久しぶりに海を見た。生まれて5度目くらいである。
船から見る海は初めてであった。航跡の白い波が綺麗でいくら見ていても飽きないのだ。
風も今までの風ではない、潮の香りを運んでいる。
両津の港に着くと、佐渡おけさの出迎えがあった。
波子は佐渡に来たのだと改めて感じた。
バスに乗り、予約してある宿に向かった。
その頃、稔は船に乗っていた。波子の予定より少しずらして船を選んだ。
稔は景色を見るゆとりは無かった。波子を自分の女にすることだけを考えていたのである。それが今まで育ててきた波子の自分に対する態度への復讐なのだ。結果、百合に対しても復習になる。
波子は宿の主人の案内で、夜の佐渡おけさを見に行った。
「私はこれで失礼します。すぐに覚えますから少し踊るといい記念になりますよ」
波子は踊りの輪に入った。
前の踊り手のまねでどうにか踊れた。面白くなり、汗も出てきた。
「なみこ」
自分と同じ名を呼ぶ声が聞こえたが、波子は自分ではないと思い踊り続けた。
「なみこ」
今度は肩を叩かれた。振り返ると、父の稔であった。
「どうして、ここに居るの」
「波子が心配で来ちゃた」
「お母さんも来てる」
「パパだけ」
「そうか」
「パパだけで悪かった」
波子は踊りを止めた。
「宿はどこなの」
「少し離れたとこだよ」
「いつまでも子供扱いしないで」
「明日絵を描くんだろう」
「そのために来たのよ」
「どこで描くんだ、絵を見たいから」
「宿からすぐ近くにするわ」
「そうか、また明日会おう」
稔と波子は別れた。
翌日、波子は砂浜にビニールを敷き絵を描き始めた。
時間が無いので昼の食事はおにぎりを作ってもらった。
ピーチパラソルがあるとはいえ暑い。
なかなか思いどうりに絵は描けない。でも海を見ているだけで何となく気持ち良かった。
海水浴場でもなく、夕方になると波子1人になっていた。
やっと涼しくなり始めてきた。
「描いてるな」
稔が声をかけながら、コーラーの缶を波子に渡した。
稔は波子の脇に腰を下ろした。
「波子パパのこと、ママから聞いてるだろう」
「何の事」
「波子はパパの子じゃないって」
「嘘でしょう」
「いいんだよ隠さなくて」
「知らないよ、そんな話」
「じゃ、証拠を見せてやる」
稔は波子の髪の毛をつかむと、そのまま砂の上に波子を倒した。波子の顔に稔の顔が近づいた。
波子は持っていたコーラーの缶で稔の顔を叩いた。コーラーが稔の顔に降りかかった。
稔は我に返った。波子の体から離れた。
波子は泣きながら走って行った。
稔は波子を追う気にはならなかった。
(時間が無いのにごめんな)
稔は心の中で波子に謝った。倒れたイーゼルを起こし、波子の描きかけの絵に筆を走らせた。
涙が波子の描いた絵の上に落ちた。その絵をなぞりながら砂の上に吸い込まれていった。それは稔が波子の体を女と感じた時のように、後から後から波子の体に触れるかのように落ちて行った。
あれが事の始まりなのだ。あんなことさえしなければ波子も自分をこんなにも嫌いにならなかったかも知れない。
稔は絵がどうにか形になると、裸になって海に入った。
泳いで行くうちに、岩の上に波子が見えた。
稔は立ち泳ぎをしながら、波子に手を振った。其の時、大きな波が来た。波に体を運ばれて、岩にあったたまま気を失った。
水色のシャツの意味
川田は公務員のアルバイトが禁止されていることは承知していた。
美大の大学院時代に裸婦のパン画で生計を立てていた関係もあり、教師に採用されてからも業者の依頼を断れずにいた。
東京の画廊なので安心もしていた。ところが波子の母親に連れて行かれた画廊に自分の絵があるのには、驚いたのである。
裸婦以外の自分の絵も2点あった。
そんな時の事も心配して、サインを変えてあったので言い訳はできる自信があった。
ただ波子の事が気になっていた。
川田は波子を佐渡に行くように仕向けたのだった。
川田と波子はモデルの事もあり、何かぎくしゃくしていた。
川田は来春には転勤しようと考えていた。
それで波子との出来事も何もなかったことに出来ると考えた。
所が、波子との関係を知っている男が現れたのだ。
その男はバレーを指導している外部の者であった。
男は堀越茂と言った。
校舎では生徒は7時になると許可なしに残ることはできないが、校庭や体育館は例外となっていた。
堀越は波子が8時過ぎに校舎から出てきたので注意をした。
「川田先生の許可を頂いてます」
波子はそう答えたのである。翌日も堀越は波子の姿を見たが呼びとめはしなかった。
その翌日、波子が泣きながら帰るのを堀越は見ていた。
制服の乱れに気がついた。
堀越は美術室に駆け上がりドアを開けた。
裸婦の絵に川田が色を載せていた。驚いた川田はあわててイーゼルを倒したが、堀越はその絵のモデルが波子であると解ったのだ。
「先生何してたんだよ」
「絵を描いてただけです」
「モデルはさっき泣いて帰ったよ」
「ここには誰もいませんでした」
「絵を見れば解るよ」
堀越は倒れたイーゼルを起こして、絵を手に取った。
まだ半分以上が裸のままであった。
「泣いて帰った生徒の顔だよ」
「生徒に頼まれたんです。記念にしたいから」
「先生解りました。大人の話にしませんか」
「どんなことです」
「この絵は燃やすにはもったいないから、何か服を着せて下さい。出来たら貰いますよ。其のほか2,3枚。先生の絵は売れるんでしょう」
「いくらかには」
「商談成立」
「生徒に頼まれたとはいえ反省していますので、他言はしないと約束してくれますね」
「大丈夫です」
「絵の他に10万円払います」
川田は何かの時には脅迫されたと言えばいいと思い、その場で持ち合わせの3万円を渡した。
「悪いな」
堀越は嬉しそうに出て行った。
翌日残りの7万円を渡し、受け取りを書いて貰った。
堀越はなにも疑わずに書いてくれた。
これ以上何かを言ってきたら、父に相談すれば解決してくれると安心した。
堀越との約束通り波子の裸体は、清楚な青緑色のシャツが着せられた。白のスカートにはうこん桜の花が描かれていた。
川田は手抜きをしないで描いた。
仕上がりは満足できるものであった。
このまま絵の解りそうもない堀越に渡すには惜しい気もした。
黒い糸
西山明の手術は終わった。
病室に帰り、アイマスクはそのままであった。2日後には針のような小さな穴が開いたアイマスクになった。その穴からかすかに物が見える。
それは西山に新しい心境を生んだ。
アイマスクで全く見えない時は、食べ物の味ですら良くわからない気がしたが、見えたことで味覚も戻ったのである。
水田百合を初めて見たときから、西山は素晴らしい女性と感じた。親切にしたことは別に下心があったわけではないが、もう一度会いたいとは思っていた。
そんなとき、百合から波子の死の話を聞き、あんな推理話をしてしまったのだ。
絵を描く者が美しさに轢かせるのは自然であると西山は思っている。
西山は独身であった。まだ1度も結婚の経験が無い。収入が不安定だからである。結婚するからには妻となる人には苦労をさせる気にはなれなかった。
そんな考えで婚期を逃したのだ。
西山は百合には随分心配をさせたと反省していた。
アイマスクが外され、西山の視力は元には戻ってはいないが回復した。
画家としてどうにか続けることが出来るのである。
退院を許された。しばらくは安静と言う事である。電気カミソリも使用禁止であった。振動は避けなくてはならないのだ。
早く百合の顔が見たいのだが、自分から移動はできない。
西山は、百合の顔を思い出しながら、百合の肖像画を描きだした。
描きだして2日目の事、西山は目に違和感を覚えた。鏡で見ると、目の中に黒い糸が有った。睫毛かと思ったのだが、紛れもなく糸である。
病院に電話をすると、縫った時の糸だと解った。
翌日も黒い糸は出てきた。
西山は百合とは、こんな短い黒い糸の繋がりであるのではないかと考えていた。淋しい気持ちになった。
しかし百合の絵は描き続けた。
その頃、百合に稔から電話が来た。どうしても会いたいと言うのだ。離婚の話だろうと承知した。
約束の喫茶店に行くと、稔はすでに来ていた。
「コーヒーを飲んだら出よう」
「ここでいいでしょう」
「ここではどうしても話せない」
「人に聞かれてはまずい事なの」
「大事なことだから」
稔の懇願するような態度に百合は承知した。
「ゆっくり話したいから、モーテルでいいね」
「いいわよ」
「ありがとう、百合をどうにかしようなんて気は無いから」
「当然でしょう」
モーテルに着くと、稔は冷蔵庫からビールを出した。
「運転どうする気」
「百合が運転して帰ってくれ」
稔はビールを2杯立て続けに呑んだ。
「今まで黙っていて許してくれ、波子は俺が殺したんだ」
「何を言ってるの、実の娘をあなたがなぜ殺すのよ。波子は自殺よ」
「波子が実の子だとまだ言うのか」
「何を言い出すの、波子はあなたの子でしょう」
「おれには子種が無いんだ、看護婦のお前は解ってるだろう」
「調べてもらって言ってるの、波子は誰の子でもなくあなたの子よ、生んだ私が言うのよ」
「嘘だ、信じるものか」
稔は百合の調べたのと言う言葉に、動揺した。確かに医者で調べた訳ではなかった。
本当に自分の子であるなら、どうしようも無いバカ者だ。
百合はなぜ稔がこんなことを言いだしたのか解らなかった。
それよりも、波子の自殺の原因は自分にあるようにも思えたのだ。
百合は自殺の遺伝子を波子が受け継いだような気になっていたのである。
春に向かって
波にのまれて、稔はもがいている時、波子が海に飛び込んだような記憶があった。
波子は自分を助けるために、洋服を着たまま飛び込んだに違いない。
ろくに泳げもしない癖に、何で俺を助ける気になったんだ。
俺はお前を犯そうとしたんだ。パパなんかじゃない。
犯罪者の男なんだ。
お前ならそうかもしれないな。溺れかかっている人がいれば、誰にでも飛びこんでいたな。
もっと、もっと泳ぎを教えておけばよかった。
お前の名前を付けたのはパパだよ。
泳ぎが上手くなるようにと付けたんだ。
なんでさ、悪人の俺が助かって、無垢なお前が死んでしまうんだ。
この世にさ、神様はいないのかよ。
稔は波子が自分の子であることを知り、気が狂いそうに苦しんだ。
いくら反省しても、後悔した所で、仏前に手を合わせても、どうにもならない事であった。
稔は自分に誓った。死んだ気になって、波子の分まで行きぬいて、波子の生きた証のために、うこん桜の並木を造ろうと。
稔は植木職人になるため、造園業に就職した。
そして、百合とは正式に離婚をしたのである。
百合は稔と離婚したが再婚する気にはなれなかった。
白衣を身に着けていると、患者には優しく見えるのだろう、ひとり者だと解ると、何人かの患者から付き合いたいと申し込まれた。百合はすべて断った。
このままで暮らしていこうと決めていた。
そんな時、西山から電話があった。
(見せた絵があるので会いたい)と言うのだ。
百合は休みの日に会う約束をした。
当日になり、鏡の前に座ってみると、胸の高鳴りを感じていた。化粧も丁寧にしたのである。
百合は自分自身で女を感じた時であった。
西山であれば、今日身を任せてもいいと思った。
ホテル内の喫茶店で会った。
西山は絵を抱えていた。自分で描いた百合の絵である。
テーブルに座ると、すぐに風呂敷を取った。
「この絵です」
「まぁ綺麗。自分じゃないみたい」
「百合さんそのままです」
「嬉しい」
「この絵とふろくを貰っていただけますか」
「えぇ、喜んでいただきます。ふろくって何です」
「僕です」
「まぁ」
「冗談です」
師走である。クリスマスツリーのイルミネーションが賑やかに点灯していた。
百合と西山は渡良瀬川に架かる鉄橋を歩いていた。
川から吹いてくる風が2人を近づけてくれた。
どちらからともなく腕を組んだ。
「今日はゆっくりできるんでしょう」
「ひとり者ですから」
「私もそうよ」
百合と西山達だけではない、ここを歩いている誰もが幸せなように二人には見えた。
西山は手袋を通しても百合の温かな体のぬくもりを感じていた。
出来ることならこのまま歩き続けていたい気分であった。
百合の香水の臭いが、今の西山には、眩暈のするほどの出来ごとに感じていた。
春、桜の咲く季節まで、このぬくもりのままで我慢して行こうと西山は思っていた。
咲いた桜は散るのも早いから、この香りを覚えておきたいのだ。
絵を描くように
百合は波子の月命日の墓参りを済ませ、少し暖かな日であり、川原の土手を散歩した。
犬を連れて散歩していたり、ジョギングをしていたり、若い2人ずれや、老夫婦にも会った。
それぞれの人がそれぞれの思いで歩いている。
百合は西山の事を考えていた。
とてもいい人だと解っていた。プロポーズもされた。
百合には西山がいい人過ぎて、結婚するには躊躇いを感じた。
百合は西山に対してありのままの自分を見せていたつもりであった。しかし、西山と会えば会うたびに、西山の優しさに轢かれて行く自分が解っていた。
百合は食事をしお酒を飲んでも、手を握ることしかしない西山を歯がゆく感じていた。かといって、女の百合から西山を誘う事は出来なかった。お互いが1人身であるし、どんな会話をすることよりも、お互いの肌と肌を重ねることの方が、何よりも2人を近づけることになるのは、お互いが知っていた。
だがどちらも、そんな誘いはしなかった。
百合はだから決心が鈍ったのだ。
西山と肉体が結ばれていたなら、西山からプロポーズをされた時に、すぐに受けていたと思うのだ。
いつの間にか、名所の桜並木に来ていた。
焼そばやおでん、金魚すくいなどの店が並んでいる。
ソメイヨシノが美しさを誇示しているようだ。確かに満開の桜は美しい。
西山はいつまでもこの満開の桜を見ているのではないかと、百合は思った。
私の体を知ってしまえばあとは散る桜のように、色あせて行くことが西山には耐え難いことなのかもしれない。
女の美しさははそんなものではない。
花の後には青葉の美しさもある。派手ではないが、緑の美しさである。
この緑の葉が来る年の花の美しさを生みだすのだ。
西山は絵を描いていた。
百合との結婚は焦らなくて良いと考えていた。
この絵を描くように、物を良く観察し、色を選び、色を合わせ、無垢のカンバスに乗せて行く。
西山は百合を完璧な絵として仕上げたかった。
1枚の絵は人間の命よりも長く生きるかも知れない。
西山には百合と唇を重ねることや肌を合わせることが目的ではなかった。
百合の心を感じるだけで満足であった。
百合はあまりにも気高く感じた。
西山はうこん桜の気高さを百合に感じていたのである。
うこん桜に香りなどは無いのだ。
西山が感じたうこん桜の香りは百合の香りである。
また、うこん桜は珍しい桜でもあった。
それだけに西山は百合を大切にしたかったのである。