第9話
病室で彼と別れたあと、ミオとトオコは担当の医師の元を訪れて、明日術法を行うことを告げた。彼は予想よりずいぶんと早い、という顔を隠しもせずに経緯をたずねてきた。カズキに憑いている『彼』が協力的なこと、事情を話したら早めに行うのがいいと本人からいわれたこと、それらをかいつまんで話すと、医師は難しい顔をして黙りこんだ。
「裏があるわけではないんだね?」
「はい。わたしが保証します。彼は何か企んでいる様子はありませんでした」
ミオは医師が危惧するようなことを、あの人は考えていないと確信していた。得体の知れない、だけど悲しすぎるほど人間じみた考えを彼はするのだ。
内心の葛藤は嘘偽りなくミオに伝わる。彼は消えたくないと思っているし、自分たちに含みももっている。だけどそれを口に出すまいと虚勢を張る姿を、ミオは美しく思えた。
不屈の精神で、死をも恐れない。そんな強靭な心を持てたならどんなに素晴らしいことだっただろうか。現実は非情だ。心はたやすく壊れてしまうし、絶対だと思った信念も、時の流れと苦痛には為す術もない。ミオは暴力の怖さを知っていたし、恐怖の使い勝手のよさも認めていた。
だからこそ、いまこのときまで一言も弱音を吐かない彼をすごいと思ったのだ。
まったくもって、得体の知れない人だ、とつくづく思う。兄も恐ろしいものに憑かれたものだ、とも。
トオコにも医師にも、彼の心の葛藤を話すつもりはなかった。それを彼が望んでいたからだ。もちろん、障害になるような考えだったら躊躇せずに報告するつもりだ。
関係者への連絡は医師がしてくれることになった。事態の急展開にみなが驚くだろうことは予想できる。友人が助かる、と喜ぶエイジの顔。息子が帰ってくると微笑む両親の顔。
恋人との再会に涙するトオコ。
兄が目を覚ましたことにほっとするミオ。
そうだ、これでいい、と納得させる。彼を犠牲にするのは忍びないが、どうすることもできないのだ。本人だって了解している。
―――――だが、何か嫌な予感がする。
自分は勘などという不確定要素には頼らない、とミオは昔から自負してきた。だけど、今回感じる悪感は無視してはならない気がする。
今日感じた不可解な点を思い出して、ふたりに話してみる。
カズキの話を聞きたがっていたこと。話の最中にやや情緒不安定になったこと。そのあと口調に乱れが生じたこと。下弦の月の下で死にたい、といい出したこと。
「下弦の月か。なかなか風流じゃないか」
「それなんですが……」
ミオは同じような話を、昔にカズキから聞いたことがあった、ということを話した。
「それは、本当かい?」
「わ、わたしも聞き覚えがあります。あくまで、冗談交じりにいっていたことですけど」
トオコも気になっていたらしく、いささか顔を青白くして不安を口にする。
カズキと同じ言葉を口にした彼は、なんとも思ってないようだった。記憶を失っているはずなのに。彼からすれば、思ったことを口にしただけなのだろうか。
初日は完全に切り離されていたふたりの記憶が、区別を曖昧にしてきている。あまりよくない兆候といえた。現時点において、カズキの精神は傷を負っている。このままでは、カズキの精神は彼に塗りつぶされてしまうだろう。
「早めに手をうつのが最良か」
ミオは自分から提案した手前、不安があることを話すか迷っていた。この医師はそれなりに長い付き合いだ。自分の予感を一笑に付したりはしないだろう。だが、その理由が理由である。カズキの命がかかっているといっても過言ではない状況で、さらに不安要素を招き入れるのは得策とはいえない。
悪いことは、考えれば考えるほど湧いて出てくるものである。ある程度は、そのときに合わせて行動するしかない。
「術の発動に適した時間帯は逢魔ヶ刻です。気をつけるのはそれくらいでしょう」
「じゃあ、そのように。一応、病室は特別に防音が効くのをあけておく」
万事うまくいけばいい。だが何事にもアクシデントは付き物だ、もしもということもある。慎重過ぎても問題ないだろう。
トオコと医師は、他に取り決めておくことはないかと、明日の予定を確認している。それを傍目に見ながら、ミオはここ数日の兄の姿をした彼のことを思い浮かべた。
―――――わたしが彼を消すのだ。
殺す、といってもいい。存在を抹消するのだから、彼からすれば同じことだ。覇気のない表情、どこか諦めた雰囲気。ここ数日で彼女が得た彼のひととなりだ。普段ならば、好ましくない部類に属する性格である。確かに嫌いだ。兄を脅かす存在なのだから。だが悔しいことに、必要以上に気にかけてしまうのも事実だった。
これが術法に影響しなければいいんだけど、と唇をかむ。
ミオが行おうとしている術は精神に干渉するものだ。人の精神は単純でいて複雑怪奇をなす。制御には繊細な加減を要されるし、山勘では成功するはずがないので、念密な工程を踏まなくてはならない。
幸い、今回の術法実施場所は最高の状態で行えるだろうから、あとはミオ次第、ということになる。
これは同情なのだろうかと、自問自答する。彼を前にすると、なんともいえない苦い想いに駆られるのだ。これではいけない。失敗してはならないときに致命的な間違いを起こす可能性がある。
あくまで、兄を救うことを考えなければならない。
あの『得体の知れないもの』をはらうことだけを考えなければならない。
私情に左右されるな、とはよくいうけれど、それがいうほど簡単に克服できないことも理解していた。自分は未熟であることを自覚する。その上で、わたしは作動しなければならないのだ、と自己暗示をかけていく。彼に術を施すときばかりは、機械のように的確に動けるように。
記憶のない、名前さえもたない彼を哀れんだところで、いいことなどひとつもない。
真っ白な病室に、彼はひとりぼっちでいるのだろうか。
兄と同じ顔をした異邦人は、明日の夜にはもういなくなっている。
「……お兄ちゃん」
あなたなら、彼を救うことができたのかな。