第8話
そっか、とぼくは答えた。
ベンチをなでつけるように冷たい風が通り過ぎていく。地面に寝転がっていた落ち葉は、その風を追いかけるようにひらひらと頼りなく舞う。その様子を見て滑稽に思えた。
だいぶ身体は冷えてしまっていた。女性は冷え性の人が多いと聞いたことがある。中に戻った方がいいだろう。
戻りましょう、と腰を上げると、ふたりはおずおずと後をついてくる。
背中に視線を感じた。外に出るときのように、逃げないよう両脇を固めて歩くことはなかった。信用されたのか、もう逃げる心配もないと思われているのか。
ぼくが彼女たちに対して接しづらいように、彼女たちもぼくを扱いあぐねているのかもしれない。
「明日はどうですか?」
「え、あ、明日?」
困惑した調子が声だけでもわかる。
「早ければ早い方がいいでしょうし、ぼくも、覚悟が鈍らないうちに済ませたいんです」
これは本音だった。うだうだと考えているうちに、逃げ出してしまうかもしれない。ぼくは自分があまり信用ならなかった。口では落ち着いているつもりだったが、心臓はやかましいほどに音を立てている。背中越しに気づかれていないだろうか、と恥ずかしくなった。
「あなたはそれでいいの?」
卑怯な質問だ、と内心で思う。ぼくがいい出したのだ、否定しないのはわかりきったことだろう。それでも聞かずにいられないのが人間の性なのだろうか。
「いいんですよ。―――――さっき、外で月が出てましたよね」
「月? どうだったかな」
「下弦の月だったんですよ。鋭くて、それでいて存在感があって。もしも死ぬなら、下弦の月の下で死にたいって思ってたんです」
驚愕したように睨み返される。あまりの迫力に、ぼくは何か悪いことでもしたような気分になった。
「あなた……何か思い出したの?」
「……はい?」
「下弦の月の下で死にたいっていったよね? もしかして、記憶が戻ってきているの?」
指摘されて初めて思い至った。確かに、こんな風流じみたことなんか、なぜ考えついたのだろうか。あまりに違和感がなかったので気づかなかった。喉に小骨が刺さっているような感じをいまさらながらに覚える。
―――――一瞬にも満たない間のノイズ。
足を止めて、頭をひねる。意識して引き出しを開けようとするけど、肝心の取っ手は見つからなかった。
「ごめん……無意識に口走ったから、よくわからないんだ」
「ミオちゃん」
トオコは意味深な目線をミオに向けた。探るような目線は慣れてきたが、あまり気持ちのいいものじゃない。ミオはひたすら無言である。ややあって、「気にすることはないでしょう」とぼくを通り越していく。慌てて追いかけていくと、彼女は自販機の前にあるゴミ箱に空き缶を捨てているところだった。
ミオはぼくとトオコの飲み終わった空き缶も捨ててくれた。
「確かに、早めに術法を行った方がいいかもしれません」
「……うん」
納得したように追従するトオコを見て、逆にぼくは煮え切らない心地になった。しかしながら、その手の話には、てんでついていけない自分が首を突っ込んでも邪魔にしかならないのは明白だ。口を開く気にもならないぼくは、何気なしに道行く人々を観察してみる。
待合所で会計を待つ人、受付で診察の申請をしている人、売店で目当てのものを買っている人。
多種多様な人々が病院という場所に集まってきている。それは不思議なことに思えた。はたしてこの中には、ぼくのように後先短い人物はどれほどいるのだろう。そしてその人はどんな気持ちで日常を過ごしているのだろう。
死を宣告された人間は、怒り、拒絶、諦め、そういった段階を踏んで死を受け入れるそうだが、ぼくにそれは当て嵌まるのだろうか。彼らと異なる点は、ぼくに惜しむような過去がないことと、惜しんでくれるような人がいないことだ。悲しいことかもしれない。客観的に見ると、ぼくはだいぶ不幸な身の上だ。
だからこそ、無様な最後は迎えたくないと思っているのだ。
最後の花道、なんていったら格好いいだろうが、要はプライドの問題なのだ。ぼくを知っている人はとても少ない。その少ない人々に『ぼく』を哀れで可哀想な存在だと思われたくない。化物、得体の知れないもの、それもいい。少なくとも哀れまれるよりはずっと上出来じゃないか。
そう納得すると、売店で母親に手を引かれた男の子と目があった。どこか大人しげで内向的な印象だ。その子はぼくを見て、にへら、とあどけない笑顔を浮かべた。
ぼくも締まりない笑顔を返す。
もしかしたら、これが生まれて初めて浮かべた笑顔だったのかもしれないな、とふと思った。