第6話
もう逃げ出すことは諦めていた。ろくに記憶をもたない現状では、病院から出られたところですぐに捕まってしまうのがオチだ。外には警察やら何やらが日々公共の安全につとめているのだ。まったくいい時代になったものである。
「あの、お願いがあるんですけど」
ぼくは駄目もとで聞いてみることにした。
「外の空気が吸いたいなあって」
「外の?」
やっぱり即答とはいかないらしく、ふたりは何やら小声で話し合っている。ぼくは黙って答えを待つことにした。
外に出たいのは、単純に室内ばかりで息が詰まっているからだ。ぼく自身はもう逃げ出したりする気もないのだけど、監視する側としては、あまり人の目にふれるような場所は遠慮したいのかもしれない。
「あの、中庭が駄目なら、屋上でもいいんですけど」
「最近の病院は屋上を締切りにしてるんです。危険ですから」
「そ、そうなんだ」
危険って。屋上から落っこちることを警戒してるのかな? 確かに、こんな陰鬱なところに閉じ込められていたら、死にたくなっても仕方がないだろう。病院側からすれば迷惑千万な話なのだろうけど。
「下手な行動はしないと約束できますね?」
念を押すように尋ねられたので、ぼくは若干辟易しながら「約束できる」と答えた。そこまで信用できないのだろうか。
外に出てリフレッシュしたいだけなのに、勘ぐられて気分は青色だ。だけどここで文句をいったところで、この人たちは相手にもしてくれないのは予想できた。怒るだけ無駄なのだ。外に出られるだけありがたいじゃないか。
早速パジャマの上にジャケットを羽織る。カズキの持ち物らしく、羽織ったはずなのに、ぼくがジャケットにはまり込んだ錯覚に陥った。長年愛用しているようだ。適度によれた古着は着心地がいい。
サンダルから外履きに履き替えると、両脇にトオコさんとミオが陣取った。
「……」
無言で抗議するが、軽く流されてしまった。
ぼくはMIBに連行される宇宙人よろしく両脇を固められて中庭へと向かう。
ふと、初日にもこうして連行されたのを思い出した。あれからまだ2日しかたっていない。もしも彼女たちの話が正しいとするなら、ぼくは2日前にこの世界に生まれたと考えてもいいのかもしれない。それ以前のぼくは人間でない何かだったんだろうか。それとも存在すらしていなかったんだろうか。
理不尽な状況に反発する想いは未だにくすぶっている。それでも、トオコさんやミオたちが悪い人ではないのは理解できた。彼女たちはカズキを取り戻したいだけなのだ。大切な人を取り戻したいと考えるのは、人として当然のことだろう。たまたまぼくが障害になっているだけで、もしもいまとは異なる状況で出会っていたとしたら、友達になれたかもしれない。本当に、空想じみている話だけど。
外に出る前に売店に寄る。そこでトオコさんは飲み物を買ってきた。ぼくのはココアだった。
両手で転がしながら礼をいうと、彼女は「それでよかったのかな」と伏し目がちにつぶやく。当然とばかりにぼくはうなづいた。
「ココアは好きですし」
「そうなんだ」
子供っぽいと思われてしまっただろうか。コーヒーも飲めないことはないが、甘いココアは優しい気持ちになれる。気分が落ち込んだときに飲んだりするといい。
「そういえば、病院食の感想はどうです? 味は薄いでしょう」
ミオも会話に入ってくる。なんだか今日は会話が多い気がする。一瞬、彼女たちに不信感を抱きかけたが、いまさら気にしても仕方がない。会話に飢えていたぼくは、気づかないフリをして続ける。
確かに、昨日、今日と食べているが、病院食は驚くほど不味い。味は薄いし、淡白なものしか出ない。もっとも、長く昏睡していたせいで消化器官が弱っているから、消化に良いものしか食べられないのだから仕方がない。
「魚が食べたいなあ。特にサンマ」
思い浮かべるだけでよだれが出てくる。香ばしい香りが脳内に再現されるかのようだ。大根おろしに醤油、サンマにアツアツの白いご飯。たった2日なのに、もう外の食べ物に飢えているのだから世話ないものだ。
ひとり悶々とサンマトークに華を咲かせていると、黙りこくるふたりの姿が目に入った。
「どうしたの、ふたりとも」
「サンマ、好きなんだね」
「う、うん」
いま一番食べたいと思う。
「わたしもね、好きだよ。サンマ」
おいしいよね、とトオコさんはミオに同意を求めている。それにミオは面倒そうに「ホッケの方が好みです」と返す。どうやらミオはホッケの方が好きらしい。確かにおいしいよね、ホッケ。
食べ物の話をしながら中庭に出る。
外に出た瞬間に、その空気の冷たさに驚いた。窓から風を取り入れていたから、寒いことは覚悟していたのだけど。実際に感じる秋の風は想像以上に肌をさした。頬には鈍い痛みさえ感じる。
空は青く澄んでいる。天気はいい。蒼天は無限に広がっている。
多くの木々が植えられているが、大半がイメージチェンジに忙しいらしく、色を変えたり葉を落としたりと冬に向けて余念が無い。ぼくはココアのプルタブを開けると、ちびちびと舐めながら落ち葉を踏みしめる。
中庭には、人影が少ない。車椅子の老婆とその付添と思わしき男性がいるだけだ。
クラシックが聞きたいな、とふと思った。特にヴァイオリンだ。なんとなくセンチメンタルな気分になっているのかもしれない。色とりどりに紅葉する木々たちが、ぼくを哀れみ、見下ろしているような気がした。
だけど同時に、心の底には説明できない力が宿ったのを感じた。それは屈辱と共に宿る反骨心であり、絶望と共に宿る希望だった。そして心からは、自分の理不尽な環境を受け入れるべきではないのか、という諦観ともとれない珍妙な声がした。
外に出てよかったな、と思う。閉じこもりっきりはよくない、ということだろう。
そんなことを考えながら、ぼくは小気味いい調子で歩を進めた。