第4話
「う、っぐ……」
ミオは感情の逆流にやられてその場に膝をついた。あと一瞬、離れるのが遅かったら戻ってこられなかったかもしれない。その事実を改めて理解して、冷や汗をかいた。
ベッドには眠りに落ちている兄の姿が見える。まるで死んだように静かに眠っている。あんな悪夢を見ているというのに、うめき声ひとつあげないのは、かなり不気味だった。
「ミオちゃん、大丈夫?」
いつの間にか、トオコとエイジの姿があった。病室の前で待機していてもらったのだが、異変に気づいて来てくれたらしい。
吐き気はおさまらない。青い顔をしている彼女を心配したのか、エイジはパイプ椅子を持ってきてくれた。礼をいって腰をおろす。
ちら、と目をやると、時計の針はあまり進んでいなかった。それでも、一瞬のうちに感じたはずの苦痛は永遠にも感じられていた。
カズキにとり憑いているものの記憶を探る傍ら、カズキの意識を覚醒させようとする試みは失敗に終わった。ミオも軽い小手調べのつもりで始めたのだが、痛いしっぺ返しをくらってしまった。
深く潜るつもりはなかったのに。
入り口の時点で、これは不味いと直感した。いくら兄がやられた相手だとはいえ、自分はその手の専門なのだから、と侮ったのがいけなかったのだ。あれは危険だ、などという生やさしいものではない。長い年月をかけて溜められ続けた人々の怨念だ。恨みとか、辛さとか、悲しさとか諦め。負の感情の塊といって間違いない。
今更ながらに、目の前の『得体の知れないもの』が恐ろしくなった。あれはなんなのか。
しかしながら、感情の奔流に巻き込まれながらも、確かに何か掴めそうだった。もう少し、あと少しで、何が起こったのか掴めそうだったのだ。だけど、そのあと少しにこだわっていたら、ミオの精神は壊れていただろう。
「ごめんなさい、うまくいきませんでした……」
「ううん、そんなことはいいの。ミオちゃんが無事だったから」
トオコも相当焦ったようだ。心配をかけたことに、ミオは心苦しくなった。
「やはり、ヤバいらしいな。カズキに憑いてるやつは」
カズキの友人であるエイジは、普段から寡黙であるけれど、今日はいつにも増して口数は少ない。付き合いが長いだけに、ショックは大きいらしい。
親友ともいえるカズキが危ない状態であることは承知しているつもりだったが、あのミオをのみこんでしまう相手だとは思わなかったのである。彼女はまだ若輩ながら、精神系の術法に秀でていることで名が知られている。その彼女をもってしても手こずる様子なのだから、エイジが不安になるのも無理はなかった。
だから、辛うじて残っているカズキの意識は善戦しているといえる。あいつも戦ってるんだな、とエイジは胸が熱くなった。
「それにしても、敵の様子が知れないから、対策が立てづらいな」
「……」
ミオは難しい顔をして黙り込んでいる。それを見て、二人は顔を見合わせた。
「どうしたの? 何か気になることでもあった?」
「いえ、推測でものをいうのは危険ですから……ただ、意識を切り離す直前、何かひっかかることがあった気がして」
のみこまれてはたまるものか、と無我夢中で切り離しをはかっていたので、よく覚えていないのが悔やまれた。一度気になると、どうしても考えずにはいられないのがミオの癖だ。ダメだダメだ、考えるのは後にしよう、と頭を切り替える。
「実際に件のヒトガタを見ましたけど、もうただのガラクタになってましたよね」
兄が倒れてから、すぐさま元凶たるヒトガタの処理に駆りだされたミオたちだったが、まるで最初からただのガラクタだったかのように妖気は霧散していた。だからこそ恐ろしいのだ。その膨大な悪意が兄の中に全て入り込んだとは考えたくない。だが状況証拠からして、その最悪の状態であるのは間違いないのだ。
「ミオちゃんも見たと思うけど、あのヒトガタは高名な彫り師が作ったとか、そういうものじゃなかったわ。庶民が見よう見まねで作ったみたいに不恰好だった」
「そうだな。あれなら、おれが作ってもどっこいどっこいだろうさ」
美術的センスが皆無のエイジにいわれるほどなのだから、ヒトガタの不恰好さは目立つ。そのまま道端に置いておくと、ゴミ収集車が勝手に持っていくに違いない。
「それがどうして、あんな妖気をもつに至ったのか。依頼者も詳細は知らないのでしたよね?」
「そうね……」
トオコは依頼者である建設業者社長を思い出す。
若干禿げ上がった頭に、脂っこい顔。腹はビール腹でベルトが窮屈そうだった。彼は作業員が亡くなったことで対応に負われているらしく、こちらの相手も面倒そうだったのを覚えている。
依頼人の愛想が悪いのは珍しいことではない。特に企業関係の人間は、手に負えず依頼してくるくせに、まるで耳元で蚊が飛んでいるみたいに嫌な顔をする。
「あの社長の話でも、最初は廃材と一緒に捨ててしまおうとしたんだけど、作業員に怪我人が出たとか。そんな被害の話ばっかりだった」
作業現場の村は過疎化が進んでいて、昔のことがわかる人間は殆どいないのだという。古来の風習や伝統は、残そうとする人がいなければ風化して消えていく運命だ。運が悪いことに、この村もそんなタイプだった。
ヒトガタが安置してあった寺社も取り壊しになるほど劣化が進んでいたのだし、管理する人間は誰もいない。これでは手がかりをつかむこともできそうにない。
「一応、あれから文献とか漁ってみたんだけど、それらしき記述はなかったわ」
カズキが昏睡している間、何もしなかったわけではない。各人が自分にできることをしていたのだ。
「手詰まりだな」
忌々しそうにエイジはいう。
「こいつも、まるで役にたたない」
睨みつけたのはカズキだが、本当に視線をむけているのは、彼に入り込んでいる意識だ。
カズキとは似ても似つかない性格。臆病な態度。相手の機嫌を伺うような目線は、確かに気持ちのいいものではない。かつてのカズキを知っているがゆえに、そのギャップのせいかもしれない。とにかく、彼ら3人にとって、得体知れない人格と話すのは苦痛を伴うものであった。
記憶がない、というのは確認済みだ。だが、唯一の手がかりといってもいい彼をなくしては、カズキを助けることなどできないだろう。
「兄さんの意識がもつのは、2、3日です。いざとなれば、強引にでも事を進めなければならないでしょう」
完全に眠っていることを確認していうが、それでも多少声は小さくなった。
「そのとき、彼が素直に身体を明け渡してくれるかどうか」
「そうだな。力ずくっていうのは、あまりいい方法じゃない」
特に精神に関係する事例ではな、とエイジは付け加える。彼は正真正銘の武闘派だが、精神系術法にも理解がある。でなければ、裏の仕事はやっていけない。様々な怪異は、直接的に危害を加えてくるものの他に、人の精神を犯すものもある。両方に通じていなければ、とても仕事など任せられないのだ。
「自分が人間じゃないって気づいたのかしら……」
先ほどの取り乱しようを思い出して、トオコはどこか気の毒そうにつぶやいた。
「あまり、そういうのは考えない方がいいと思うぞ。じゃないと、肝心なところで判断が鈍る」
「わかってるわ。でもね、もしも自分が彼の立場だったらどうなっていたのかなって考えずにはいられないの」
「おい、あいつはカズキのなりはしてるけど、人間じゃないんだ」
まるで自分に言い聞かせるように、エイジの声は鋭い。「うん、ごめん」と素直にトオコも謝る。
ミオはそんなふたりを見て、優しい人たちだな、と思った。トオコのいったことは、確かにミオも考えなかったわけではない。彼女だって血の通った人間だ。いくら『得体の知れないもの』だとはいえ、まるで人間と変わりはない彼のことを考えずにいるのは不可能だった。
それでも、もしそのときがやってきたのなら、自分は間違いなく彼を消し去るのだろうとミオは思う。
特段、自らを無情だとか冷血だとか思ったことはない。人より口数は少ない方だが、心まで無味乾燥しているわけではない。嬉しいときは嬉しいし、悔しいときは悔しいし、悲しいときは悲しいものだ。
要は、優先順位なのかもしれない。
わたしにとって、兄はあなたよりも優先度が高いんです、と消される理由を問われれば、ミオは答えるだろう。合理的な考え方は、ともすれば反感を買いやすい。脳内でシミュレートしてみて、これはいわない方がいいかな、と改める。
「明日、明後日が勝負だな。気を抜くなよ」
今日はここまでにしておこう、といわんばかりにエイジは話を断ち切った。