第3話
ようやく病室を出られたかと思ったら、次々と検査を受けさせられた。壮年の医師は「身体に異常があったら困るだろう?」といって、無理矢理にでも受けさせるようだったから、ぼくは従う他なかった。
目覚めの混乱がおさまってくると、次はいいようのない孤独感が襲ってきた。間違いなく、周りには味方がいないのだ。みんな、ぼくを厄介者のように扱っている。髪の長い女性は、ぼくの顔を見るたびに嗚咽をもらす。彼女の友人らしき、ぼくを押さえつけた男は、彼女が泣いているのはお前のせいだ、といわんばかりの表情だ。
逃げ出すこともできない。
ここが精神病棟であるのは本当のようで、ときおり、おぼつかない足取りの患者とすれ違うことがある。明らかに正気を失った目をしている患者もいる。ここで、ぼくがいくら泣き叫んだところで、気違いだと思われるのがせきのやまだろう。
いわれるがままに検査を受けて、開放された頃には日が暮れていた。窓の外に見える風景はすっかり暗くなっている。
病室に戻ると、圧迫感があった当初とは異なっていた。それもそのはずで、残っているのは背の低い少女だけだったからだ。
「……」
正直いって、もうへとへとだった。逆らうことに疲れたぼくは、ベッドに座り込む。腰には優しくなさそうなベッドだが、このときばかりは愛おしく思えた。
「まだ、何も思い出しませんか」
「え、うん……」
話しかけられてびっくりした。まるでペンギンにでも話しかけられているような珍妙さだったので、突然のことにきょどってしまった。
「昼に病室にいた中年の二人は、カズキ兄さんの両親です」
いわれて、確かにそんな二人がいたことを思い出す。そうか、彼らが両親だったのか。でも、なんで話しかけてくれなかったのだろうか。少し興奮していたせいで、変な行動をとってしまったからだろうか。
嫌な感じがする、とどこか胸の底でつぶやく。形にならない不安だ。口に出したら溶けてなくなりそうな恐怖だ。それは排気ガスに汚れた、都会の雪のような色をしていた。
「それから、わたしはミオ。カズキ兄さんの妹です」
淡々とミオと名乗った少女は話し続ける。まるで自分の自己紹介など意味はない、というふうに。
彼女は可憐であったから、その冷たさは際立って見えた。ぼくは気圧されたように、黙りこくって相槌をうつ。切れ目からのぞく感情は、ぼくのその行動さえも忌々しく感じているようだった。
「髪の長かった女性はカズキ兄さんの恋人のトオコさん。あなたを押さえつけていた男性は友人のエイジさん」
脳裏には涙を流していた女性を思い浮かべる。黒髪で美人な人だった。すらっとしていて背も高かった気がする。エイジという人については、押さえつけられていてあまりいい思い出がない。
「どうです? 覚えていますか?」
「ごめん。思い出せない……けど、きっと思い出すよ」
「―――――それは無理です」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。彼女は、どこか後ろめたそうな調子で、けれどはっきりとそう断言した。
「どういう、こと? いまは思い出せていないけど、頑張れば」
「あなたに、直に告げていいものか判断がつかなかったんです。あなたは、わたしたちのことを思い出せない」
嫌な予感というのは、なぜだかよく当たるらしい。ぼくにはそんな経験がないのに。
二人きりしかいない病室はどこか寂しい雰囲気だ。廊下からは、リノリウムを叩く音が聞こえてくる。どこか遠くで叫ぶ声がする。まだ幼い子供の泣き声が耳障りに反響する。
「そもそも、あなたには、わたしたちの記憶がないんです。なぜなら―――――あなたは、カズキ兄さんではないのだから」
何をいわれているのか、わからなかった。ミオという少女は何をいっているのだろうか。まるで異国の言葉を聞いたみたいに、ぼくの脳は言葉の意味をつかめなかった。もう一度読み込んでみるけど、また同様にエラーを起こす。
呼吸はいつの間にか荒くなっていた。過呼吸になりそうだった。
あれほど現状が知りたいと思っていたのに、いまでは何も聞きたくないと思うようになっていた。耳をふさいでしまいたい。だけど、彼女の鋭い視線はそれを許さなかった。
「記憶がないから、思い出せるわけがないんです。わたしたちの記憶を持っているのは、あなたの意識に潰されかけてる兄さんの方です。あなたはどういうわけか、完全に兄さんと意識を住み分けている。身体に憑依しているような状態なのに、脳から記憶が引き出せない。それどころかアクセスすらできない。得体の知れない力で、カズキ兄さんの身体を操っている」
「なんだよ、それ。意味、わかんないよ」
そうだよ。人を化物みたいにいって、何様のつもりなんだ。ぼくは、ぼくは、
ぼくは―――――何者なんだ?
突きつけられる言葉に、気色の悪さを覚える。自分自身の気持ち悪さに気づいてしまう。まるで自分自身の身体じゃないような感覚、まっさらな記憶、みんなから向けられる奇異の視線。
「勝手なこといわないでよ……ぼくは記憶喪失なんだ。だから少し不安定なんだ。みんなからは少し変に思われるかもしれないけど、仕方ないんだ」
「……」
「もう少ししたら治るんだ。ぼくは正気だ、正気だ、正気なんだ」
舌がうまく回らない。酷い頭痛がする。憐れむようにぼくを見下ろす少女。彼女の顔がぐにゃり、と歪む。部屋の至る所が飴細工みたいにひん曲がって、ぐるぐると巻き取られていく。
「思い出してください。あなたが思い出すべきは、人間の記憶じゃない」
うるさい。うるさい。ぼくはニンゲンだ。人間なんだ。ニンゲンなんかと一緒にするな。そんなにぼくを化物扱いしたいのなら、証拠をもってこい。証拠だ。ぼくが化物だっていう証拠だ。証拠がなければ、ぼくは化物じゃない。
なら証拠は?
ぼくが人間だっていう証拠は?
酷い裁判だ、と吐き捨てる。ぼくには記憶がないのだから、反論のしようがないじゃないか。今日の弁論主義のもとでは、ぼくは敗北必至だ。なんて悪徳検事だ。だから冤罪が世にはびこるんだ。
「自覚して。あなたはカズキ兄さんじゃない。あなたは人間じゃない」
少女の手が額に触れる。小さくて、柔らかくて、冷たい。そして残酷な手だ。
「じゃあ、じゃあ、ぼくはいったいなんなんだ」
「それは自分で確かめるべき。わたしが導いてあげます。入り口はあります。他でもない、あなた自身の記憶なんだから」
何かが入り込んでくる感覚がした。胸の真ん中に穴をあけられて、そこから両手で観音開きにされる感覚がした。気持ちのいいものではなかった。
ぐるぐるとした視界は、すでに渦を巻いて轟いている。自分の五感さえも巻き込まれてねじれていく。聴覚と視覚とが混ざり合って、わけのわからない代物になっていく。
ぼくは悲鳴をあげることもできずに、渦に巻き込まれていく。
―――――次の瞬間、ぼくの腕が転がり落ちた。
絶叫する。身体の一部が喪失する感覚は、神経を焼き切らんとするものだった。声はあげられない。それが酷くもどかしい。石でおもいっきり殴打される。鈍い音がして顔が陥没する。大きな鉈で傷つけられ、切り傷が入る。腹の痛みが移され、胸の重さを移され、代わりに怨恨を向けられ、罵声をあびせかけられる。欠損した部位はいつの間にか修復されて、また同じように壊される。その繰り返し。
誰か助けて。
ぼくをいじめないで。
ぼくは何も悪いことはしていない。誰も傷つけてはいない。迷惑もかけていない。それなのに、ぼくは理不尽に傷つけられる。狂ってしまえたら、どんなによかっただろうか。狂えないまま、何度も何度もぼくは壊されていく。痛みがなかったら、どんなによかっただろうか。痛みになれることはできない。時間を感じなければ、どんなによかっただろうか。苦しい時間は引き伸ばされる。孤独な時間は際立ってぼくに与えられる。
そうして、いつ終わるとも知れない時間の輪廻の果てに、君はやってきた。
「―――――なら、助けてやるよ」