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最終話

 誕生から消滅までの時間を、一挙に流し込まれていく。かつて追体験したものとはまるで違う、リアルな苦痛とアイツの苦悩。


 絶叫する。


 文字通り、生地獄だった。まるで身体の感覚が掴めない。意識は覚醒しているはずなのに、白昼夢のように現実感はない。もはや何が現実で、何が非現実なのか区別がつかなくなっていた。


 耳障りな金切り声は耐えることなく不快感をあおる。それが自分の悲鳴だと気づいたとき、許容できない使われ方をされたのどが血の泡を吐いた。それでも意思とは関係なしに悲鳴を上げ続ける。息が続かなくて、吸い込んだ血反吐にむせ返りながら、それでも壊れたラジオのように鳴り止まない。


 ノイズに混じって聞こえてくる誰かの声。もう泣きたいほど遠い昔に聞いたことがあった気がする。名前を呼ぶ声。肩を掴まれる感覚。それは現実なのか、妄想なのか。


 苦しい。


 誰か、助けてくれ。


 いくら助けをこうても差し伸ばされる手は見つからない。代わりに傷付けられていく身体。呪いを受けていく精神。これが人間のすることなのだろうか。

 

「カズキ! やめて、やめてよ!」


 誰かの声がする。それも心穏やかになれる、大好きだった人の声だ。


 それもすぐに罵り声に打ち消される。

 

「あ、にいさ、兄さん、どうして……」


 誰かの声がする。ずっと昔から一緒にいた、血のつながった家族の声だ。


 それもすぐに憤怒の声に打ち消される。


 優しい誰かの声がして、恐ろしい誰かの声にかき消される。そしてあとには何も残らない。『ぼく』を傷つけるだけ傷つけて、満足して帰っていく。好きなだけ罵って、恨んで、悪意を浴びせかけて、晴れ晴れとした表情で帰っていく。あとには何も残らない。


 ぼくに向けられていても、それは違う誰かを罵ったり、恨んだりしたものだ。だから、ぼくには何も残らず、誰かへの怨念だけが堆積していく。


 カズキは胸をかきむしった。肺の中でウジ虫が次から次へと孵化しているようだった。嘔吐感と、形容しがたい痒みに頭を支配される。ばりばりと胸をひっかく。それでもおさまらない。誰かに押さえつけられて胸がひっかけない。邪魔するな、とか細い腕を振り払う。足りない。全然足りない。これじゃあウジ虫が取り出せない。痒い。酷く痒いんだ。


 不確定的な怨念は消すことができない。胸におさめるしか術はない。それを毎日毎日繰り返す。


 早く死にたい、と切に願った。


 それでも時間は無常にも一秒一秒としか進まない。相対性理論は遥か昔からあって、一秒は無限地獄のように目の前に存在し続けている。


 なんてことだろうか。


 こんな苦しみしかない世界で。苦しみしか先にない現実で、彼は人々を癒し続けたというのか。


 こんなのはあんまりではないか、と思考にならない無意識で悲鳴をあげる。救いを求めてきた人は死に、彼を造り出した人も死んだというのに、それでも役割は終わらない。人を癒すという義務は解消されない。


 だからアイツは、口に出さなかったのだ、とようやく理解する。


 いつ終わるかも知れない絶望の中で、自由になるものは自分の思考だけだった。近いようで遠い、その思考のみが自由になるものだった。だからこそ、それだけは汚すわけにはいかなかったのだ。


 本当はすでに真っ黒で、コールタールのように見苦しいものであっても、それを白い外殻で覆ってみせた。最後の悪あがきをするように。


 誇りだとか、信じる道だとか、そんな生やさしいものではない。


 それは、『彼』という汚泥をおさめる外殻だった。もしもある拍子に破れてしまったとしたら、中から正視に耐えない汚物を撒き散らすことになる。


 要するに、彼は全身全霊で偽善者になろうとしていたのだ。


 根っからの善人になれるはずもなかった彼は、どうにかして外面を整えた。それが彼の救いだった。本心ではなく、偽善から人を救うことによって、彼は耐えようとしていたのだ。


 それは呪いだった。


 血まみれになって両手の感覚はない。爪は剥がれて、頼りなく指先に繋がっているだけだ。鈍いようで、身体の状況は否が応にわかってしまう。それが自分の身体なのか、『彼』の身体なのか、カズキには理解できない。


 そして唐突に、与えられる苦痛が終わる。


 続いて訪れたのは、静寂だ。鼓膜を突き破るような静寂だ。


 あれほどうるさかったノイズは消えていた。それと同時に、あらゆる音が消えてしまっていた。小鳥のさえずりも、小川のせせらぎも、緑葉のこすれ合う音も、最初から存在しなかったかのように消失した。


 聞こえない。


 自分の息遣い、心臓の鼓動、骨のこすれ合う音。どれも聞こえない。これでは自分が生きているのか死んでいるのかさえわからない。


 何よりも恐ろしいのは、圧倒的な孤独感だった。自分さえもあるのか知れない中で、正常な精神を保つことなどできやしない。


 それでも、抗うようにぼくは願う。


 かつて、訪れては消えていった人々の幸福を。


 自分ことなど知りもしない人々の幸福を。


 これから、この世界に生まれ落ちてくる哀れな人々の幸福を。


 カズキは恐ろしくなった。この耐え難いほどの孤独を。それを善人であろうとすることで耐え抜いているアイツを。そしてどうしようもなく悲しくなってくる。歪んだ形でしか存在できないということに。


 孤独は極寒だった。


 ひとりでに歯が音を発し始める。カチカチカチ、と憎らしいほどに小気味のいい音だ。寒い、とつぶやく。とても寒い、と。

 

 「カズキ、お願いだから目を覚まして! 正気に戻って……!」

 

 「お願いだから、に、兄さん。兄さん……お兄ちゃんっ」

 

 両脇から包まれる感触、けれどそれもすぐに忘れ去られる。寒い。寒い。凍えてしまいそうだ。手の先から血が通わなくなって、細胞が壊死して腐っていく。それをリアルタイムで見せつけられる。


 心が、腐り落ちていく。


 茫然として眺めている。アイツが、自分が、そんな酷い目に合っているのを。


 いったい誰が悪かったのだろうか。彼を造り出した者か。彼に救いを求めた者か。彼を傷つけた者か。それとも、彼の存在すら知らなかった者か。彼を孤独にした者か。彼を救うと誓ったのに、救えなかった自分か。


 もう、終わりだ、とカズキは思った。ようやく終われる、とも。


 自分のことを抱きしめてくれているトオコのことを思う。ミオのことを思う。健気にも自分の名を呼び続けてくれている彼女たちのことを思う。


 最後に一目顔を見たかったけれど、すでにカズキからは視力が失われていた。


 ああ、残念だな、と諦観にのまれる。頬をぬらしているのは、はたして涙だろうか、血だろうか。


 生きるための力が、底を尽きようとしていた。ごく自然に悟ったカズキは、最後に残った力を込める。


 おまえが人を癒すことを義務とし、誇りとしていたのなら。


 これが、おれの義務であり、おまえへのはなむけだ―――――


 「……あ、う……」


 「カズキ! 聞こえる? わたしだよ、トオコだよ!」


 「な、あ、え」


 「お兄ちゃん……? 何、何がいいたいの?」


 短いようで、とても長く一緒だったアイツのことを思い出す。


 最後に交わした会話を、約束を思い出す。


 「な、ま、え」


 もはや口から漏れ出す言葉が、言葉として用を成しているかわからない。それでも、カズキは血反吐を吐きながらしぼり出す。


 「アイツの、なま、えは……なまえは―――――」


 音は形をなして、意味をもつ。音と言葉の違いは僅かだけど、そこには決定的な違いがある。


 アイツには聞こえただろうか。


 その名前を呼ぶ声が。


 いまでは少し、彼を羨ましくも思っている。客観的に見て、どうやっても彼は報われたようには見えないのに。最後は満足して消えていった。


 いまこうして終わりを迎えようとしている自分とアイツの間に違いがあるとすれば、きっと満足していけるかどうかの違いだろう。

 

 ―――――おれたちは、決して報われない。

 

 なのに、どうして、アイツはあんなに、心底幸福そうに消えていったのだろう。


 そう考えて、苦笑し、餞別代わりにもう一度彼の名前を呼んで。


 さよなら、とカズキはつぶやいた。



                                         <END>

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