第1話
目が覚めて視界に飛び込んできたのは、険しい表情の人々だった。みんな一様にぼくを睨みつけるように威圧している。声にならない悲鳴を上げて逃げ出そうとしたけど、身体は思うように動かなかった。頭も身体も混乱していてうまく動かせない。
かろうじてどこかの病室であることはわかった。
ひび割れた声で叫んでみても、ぼくを助けにきてくれる人は現れなかった。部屋にいる人間は、ぼくを気持ち悪そうに眺めている。
「……やっぱり精神汚染?」
「おそらく。兄さんの意識が圧迫されています。猶予は、あまりないです……」
少し離れた場所に立っている女性二人は何やらささやいている。だけど、そんなのに構っている場合じゃなかった。ぼくは恰幅のいい男に抑えつけられ、まともに身動きが取れない。両腕をがんじがらめにされて、関節はミシミシと嫌なきしみをあげた。
悲鳴を上げて助けを懇願する。男は舌打ちをして、「なら暴れるな」とドスのきいた声で脅してくる。
何が起こっているんだ。誰か教えてくれ! ぼくは恐怖で小便がちびりそうになっていた。あまりにもがいたせいか、酸欠になってふらふらする。もしかして誘拐されたのだろうか。身代金目当てか? それとも愉快犯か? なんでこんな目にあうんだ。ぼくが何をしたっていうんだ。
力が抜けたせいで観念したのかと思ったようで、男はゆっくりと押さえつけていた手を離した。
誰なんだあんたら、ここはどこなんだよ、と泣き声で聞いてみても、誰も答えてくれる人はいない。先程の女性二人は医師と思われる人物と話している。視線はどこまでも冷めていた。まるでゲージの中のモルモットを見る目だった。
ぼくは背筋に冷水を流し込まれた気がした。ここにいる誰もが、ぼくをそんな目で見ている気がする。何かよくないことが起きている。それだけははっきりとわかる。
ぼくはベッドから落下して、情けない声をあげた。男は鼻を鳴らしてそれを見ている。惨めだった。だけど、惨めさを感じる暇もなく、ぼくはどうにかして助けを呼ぼうとした。せめてこの病室から逃げ出さなくては。警察に電話を、誰か外の人間に助けを呼ばなくては。
「無駄なことはよせよ」
まるで子供にいい聞かせるようにいう。
「ここは精神病棟の一室だ。そとから見りゃ、あんたはネジの外れた人間だ」
頭が真っ白になる。
何をいっているんだ、こいつは。
「……はは。じゃ、じゃあ、ぼくは何かの病気でここに運ばれてきたんですか?」
男は何かをいいかけて黙った。その代わり、背の低い女性がやってきて会話を引き継ぐ。例にもれず、彼女も視線は鋭い。元々つり目であるのか、いっそう迫力がある。
「残念ながら、あなたは病気なんです」
「ど、どんな」
「記憶喪失のようなもの、といったら信じますか?」
え、と間の抜けた返事を返す。記憶喪失? 記憶がない? 思い出せない?
心臓はばくばくと小動物のように速く脈動している。口は乾燥してしまって気持ちが悪い。さっきから嫌な汗が止まらないのは病気のせいだろうか。
ぼくは誰だ?
記憶喪失なんてテレビか漫画の世界だと思っていた。それが自分の身に起こるなんて。
「思い出せない……ぼくは」
目の前が真っ暗になりそうだった。