ハーレム二人目③
キーボードのキーが押しにくい。
イライラとしながら、なんとかマウスをスクロールさせていく。エンターキー一つ押すのにも、一苦労だ。
「や、イズミちゃん」
唐突に、水知が顔をのぞかせてきた。
この場で明かりになっていたのは、繋いだパソコンのディスプレイだけだった。押入れを開けられて光が差し込んできたことで、目が眩む。
わずかに目を細め、水知を見た。水知は、儚げな笑顔を見せてきた。
「なんで無理矢理にでも襲わなかったんじゃ?」
問いかける。
水知は誤魔化すように視線を逸らし、四つんばいになってのそのそと押入れの中に入ってきた。押入れの敷かれた布団の上に座り、横に並んでパソコンの画面を見つめている。その横顔はやはり切なげで、本当はパソコン画面なんて見ていないことはすぐに分かる。
「うひょー! 再生回数ハンパないねイズミちゃん!」
無理に造った明るい声が届いてきたので、わざと難しい顔を造って首を振る。
「今はそんなことを話してる場合ではないぞ」
脅すように言うと、水知は肩をすくめた。
「そんなこと言って、パソコンで遊んでばっかなのはイズミちゃんだって一緒じゃないかー。目指せミリオン再生! このままずっとこんな生活続けていくのも悪くないって思ったりしてるんでしょー」
ぐっと詰まってしまう。否定はできない。
こんな場所でずっと隠れるように過ごしてきて、幾数日。人目に触れられるわけにもいかず、肝心の水知はミイラ化現象で引きこもり。絶望的状況下で心の安息場になっているのは、パソコンぐらいなのだ。
動画投稿なんてしている場合ではないというのに。最近はチャットにもはまってしまっている。タイピングが遅すぎるという弱点はあるけれど。
本当は、そんなのんびりとしていられる状況でもないのだ。
水知の身体は、限界に近い。
だからもう――手段は選んでいられない。
試してみる価値はあるかもしれない。柚季の情報を、信じるならば。
水知の方へとくるりと向き直り、真っ直ぐ視線で捉えた。
「水知、お前が助かる為には……乾いていく身体を止める為には、昴と夫婦の繋がりを持ってもらわねばならんのじゃ」
「知ってるよそんなことは」
ぷぅ、と水知が頬を膨らませている。
「でも、昴はわたしみたいな人外が怖いんだ。だから無理なんだよ」
「ならば、死ぬことを選ぶというのか?」
「……仕方ない、のかなぁ」
胸が苦しくなって、目を伏せる。
水知は運命を受け入れようとしている。全て分かっていて、その上で昴の幸せだけを願っている。
イライラした。水知は本物のバカだと思った。昴という人物に、憎しみすら覚えた。
「我は、運命にあらがうぞ。その為には手段だって選ばない。どんな手を使ってでも、水知の命を助ける」
***
昴は国生家のドアの前で、かなりの長時間、雨に打たれていた。
激しく降っているわけではなかったが、さわさわと細かい霧状の雨が絶え間なく降り注いでくる。まだわずかに肌寒さを感じる季節、パジャマ姿の昴の身は冷え切ってしまっていた。
柚季と由梨絵が傘を差して帰ってきた時には、昴の唇は青く、歯の根が噛み合わないほどになっていた。
「すばる、ただいま! ユズ帰ってきたの」
「あれ、昴。アンタお隣さんの家にいたんじゃないの?」
のうのうと由梨絵が言ってくる。昴が無言のままでドアの前から退くと、家の鍵を開けた。家に入る由梨絵の後についていく。昴の状態にさすがに同情的になったのか、由梨絵は何も言わずに、昴を中に迎え入れてくれた。
由梨絵が部屋の中に急ぎ足で上がって、タオルを取って戻ってきた。昴へと差し出してくる。
「柚季に聞いたのよ。昴と一緒に寝てた子、お隣に住んでる女の子なんだってね。私がいない間、柚季もよく遊んでもらってるとか。何も聞かずに追い出して、あの子に悪いことしちゃったわ」
昴は玄関に立ち、濡れた髪や眼鏡をタオルで拭いていく。落ちたままの気分なので、言葉を発する気にもならなかった。横で柚季が長靴を脱いで、部屋へと入っていった。
どうやら柚季に助けられたらしい。誤解が解けたことで、昴は息をついた。
それでも表情は鬱々として、生気のない空ろな瞳が虚空を見ていた。
「ねぇ昴。ちょっと手土産持って、お隣さんに謝ってきてくれる? ほら私は急いで仕事に戻らなきゃいけないから。今度改めて挨拶には行こうと思ってるけど。今日のところは頼んだわよ」
昴は由梨絵の言葉に耳を疑った。焦点の合わない瞳を、由梨絵に向ける。
「お隣の潮さん、母親と娘の二人暮らしなのよね? 昨日昴が作ったお菓子と、特上のワインがあるから。ワインはよかったらお母様にって言っておいて。お願いね。じゃあ柚季、いい子にしててね」
「ママいってらっしゃいなの」
柚季が元気よく、手を振っている。
呆然と立ち尽くす昴の横を、慌ただしく姉が通り過ぎていく。
昴が正常な思考回路を取り戻した頃には、バタン、と扉は閉められてしまった。
ダイニングテーブルには、袋にラッピングされたガレットとワインが籐の編み上げ籠にまとめて入れられている。
昴の手からタオルが落ちていき、ぱさり、と音をたてた。
「あの妖怪屋敷に戻れ、と?」
呟いても、時既に遅しだった。姉はもういない。
柚季が近付いてきて、昴を見上げてくるだけだ。
「ミィちゃんのおうちに行くの? ユズも行きたいの!」
何も分かっていない柚季の平和な笑顔には、心が安らぐ。しかし、今から行く場所のことを考えると、暗鬱としてしまう。
それでも居候という立場上、姉の命令には逆らわない方が賢明なのは分かっている。朝の事件で追い出されるかもしれなかったことを考えると、手土産一つで姉の機嫌がなおるならば万々歳だ。
玄関先で手土産だけ渡して帰ろう、と昴は諦めから溜め息を吐きだす。
一度自室に戻って、普段着に着替えた。朝からずっとパジャマのままだったので、ようやく人心地ついた気分だった。
居間に戻ると、玄関で既に柚季が立って待ち構えていた。
真っ赤なカッパを着込んで、てるてる坊主みたいになってニコニコしている。
「すばる、いこ」
なんだか有名な童話を彷彿とさせるなぁ、なんて考えながら、昴は手土産の入った籠を手に取った。
ドアを開けると、長く続いていた雨が、ようやく途切れ途切れになってきていた。
長靴で路面の水を撥ねさせて遊んでいる柚季の後ろを歩いていく。すぐに隣室にたどりついてしまった。
柚季では手が届かないので、昴がインタフォンを押してやる。
……反応はなかった。
二、三度押しても反応がない。
やっぱり帰ろうか、と踵を返しかけたところで、柚季が勝手にドアを開けてしまった。鍵がかかっていないドアは簡単に開いていく。
「おい柚季、何勝手に開けてるんだよ」
「だってユズがミィちゃんのおうちに行くときは、勝手に入ってきていいよ、ってミィちゃん言ってたの」
柚季が悪びれもせずに、中に入っていく。
昴は嘆息し、柚季の後に続いた。玄関で靴を脱いで、家に上がる。
居間は静寂に満ち、誰の姿も見えなかった。家具もないので、がらんとしすぎている。ベランダに続く窓の向こうに、霧状のような雨が見えるだけだ。先ほど水知が窓辺で雨を見上げたいた光景が、フラッシュバックする。すぐに振り払った。
彼女のことを考えると、苦しくなった。だから、目を背けることしかできないのだ。
「いたいたミィちゃん! あれ、どうしたの?」
柚季が和室の方へと、パタパタ走っていく。
昴も柚季の声を聞き、恐る恐る、和室に視線を遣った。
先ほどと違って、和室には布団が敷かれていた。
分厚い掛け布団をすっぽりと被っている水知の顔半分は、隠れて見えなくなっていた。布団の上に散らばる鮮やかな水色の髪、透き通るような白い肌と、潤んだ大きな瞳。何度見ても胸がときめいてしまう美しい少女が、じっと昴と柚季を見つめていた。
「どうしたのミィちゃん? ぐあいがわるいの?」
昴はドキリ、とした。
先ほど水知から聞いた言葉を思い出していた。彼女は、どんどん乾いていく。最終的にミイラとなって死んでいく。もしかして、今がその時なのではないだろうか――
遠くから水知を見下ろすと、布団がもごもごと動いた。
『お土産を持ってきてくれたんだね、どうもありがとう昴』
昴はくわっと目を見開き、眼鏡がずり落ちていった。くぐもった声が耳に届いた瞬間、腰元にビリビリと電流が駆け抜けたのだ。慌てて眼鏡をかけ直し、落ち着くなく周囲に視線を巡らす。
「ミィちゃん、だいじょうぶ?」
柚季が首を傾げ、水知の布団の前に腰を下ろしている。
『風邪をひいちゃったみたいじゃ……みたいだよ?』
不自然に言い直してから、水知がゴホゴホと咳払いした。布団が揺れる。
水知の声が耳に届く度、身体に力が入らなくなっていく。甘く蕩けるような、美声が耳を嬲っているようで、昴は耳元をおさえる。
頬が熱く、心拍数は急上昇だった。
「お風邪をひいてるんだ……でもおふとんそんなにかぶってて、苦しくないの?」
柚季が問いかけている。昴は腰くだけ状態で、その場にへたりこむ。
『それはお口を隠してないと、ばれ……じゃなくて、寒気がするから布団をかぶってるんだよ』
「そうかぁ。じゃあミィちゃん――」
『なあにユズちゃん?』
「なんでそんなにかわいいお声なの?」
『それはね……昴を惚れさせて、昴を食べ――』
最後まで聞くつもりはなかった。
昴は力を振り絞ってなんとか立ち上がり、ずかずかと大股に和室へと踏み込む。
「そこかぁぁあああああ!!」
絶叫し、押入れを開け放った。
緑色のぬいぐるみが、押入れの中にいた。昴の方を見て驚いているのか、持っていた台本を取り落とし、尖った口をパクパクさせていた。
昴も驚いた。想定外の事態に、悲鳴を上げることすら出来ず、緑色のぬいぐるみを見下ろす。
そこにいたのは――カッパがかわいらしくデフォルメされた感じの、二頭身サイズの小さなぬいぐるみ。明らかにアワアワと口が動いているし、ボタンで造られたつぶらな瞳が白黒している。
「何故ばれたんじゃ!」
カッパが喋った。それは、先ほど水知が発したように聞こえた、究極に可愛らしい声だった。カッパのくせに。
「ばれるに決まってるだろうが! 明らかに声は、押入れの方から聞こえてきたんだからな!」
幼い柚季は騙せたとしても、昴はそこまで鈍くはない。天使の囁きのような声を聞いて鼓動を高鳴らせつつも、しっかりとその声がどこから聞こえてくるのかを確認していた。
水知が布団から這い出してきた。
「やー失敗失敗。やっぱりこんなんで昴を惚れさせるのは無理だよ、イズミちゃん」
イズミ、と呼ばれたカッパがしゅん、と項垂れている。
昴はそれを見て、少し胸がキュン、としてしまったのは嘘だと思いたい。
「可愛い声で迫られたら昴はイチコロなんじゃ。だから、水知が可愛い声だったら水知に惚れるはずなんじゃ」
「そんなんで惚れるか。俺がどんだけ単純な人間だと思ってるんだ」
「だってだって、ユズが言ってたんじゃぁあ。イチコロだって言ったんじゃぁあ」
うるうるとボタンの瞳を潤ませているイズミ。その様子があまりにいじらしくて、頭の皿を撫で回してやりたい衝動に駆られてしまったのは嘘だと思いたい。
究極に短い手足で、のそのそと押入れの中から出てくる。カッパのぬいぐるみが動いているというシュールな光景に、柚季はこれ以上ないくらいに瞳を輝かせていた。
触覚髪を揺らしながら走り寄ってきて、イズミを抱き上げる。
「うあ、何をするんじゃっ」
「とってもかわいいの! すっごくかわいいの! ユズ、このぬいぐるみほしいの!」
ぐりぐりと頬ずりされて、カッパのぬいぐるみは焦って逃げ出そうとしている。
「そういえば、昨日ユズちゃんが家に来た時に、わたしとユズちゃん、そんな会話したっけ。聞いてたんだねイズミちゃん」
水知が肩をすくめている。水知に肩をすくめさせるとは、イズミはどんだけ問題児なのだ、と昴は愕然としてしまった。
「呆れてないで助けるんじゃ水知! もげる! 千切られるぅぅう!」
完全に喋るぬいぐるみに勘違いされているイズミがぎゅうぎゅうと抱きすくめられて、鈴のなるような声で悲鳴を上げている。
昴は水知に向き直って、問いかけた。
「こいつ、誰だよ?」
「そういえば紹介がまだだったね。ここにおわすのは、カッパのぬいぐるみ――じゃなくて、潮和泉ちゃん! わたしのお母さんだよ! 水の神様だよ!」
突っ込みどころが満載すぎて、昴は頬を引き攣らせることしかできなかった。