ハーレム二人目②
『昴様のハーレム。随時会員募集中!』
そんな紙を、鼻歌交じりにペタペタとガムテープで貼り付けている少女が一人。
少女自身の家の前で、ご機嫌に長い水色髪を揺らしている。
「お前本気か」
ドアから顔をのぞかせた昴は脱力しきり、突っ込みのキレも悪く、彼女へと言葉をかける。
あの後、スリップ姿だった潮水知は一旦洗面所に姿を消した。シャワーを浴びてきたのか、髪が濡れそぼっていた。濡れた頭のまま、ブレザーの制服姿となって再び昴の前へと現れたのだ。
水知はどこから持ってきたのかスケッチブックの紙を一枚破り、何かを書き込んでいた。
その内容が、今、昴の目の前にある。
「本気も本気! こうやって書いておけば、誰か入ってくれるよ!」
「……お前の思考回路は一体どうなってる……」
先ほど昴が放った言葉によって、水知の気持ちをおおいに傷つけてしまったのではないか、と心配していたというのに。水知は全く変わらず、ハチャメチャっぷりを発揮している。昴としては、少し安堵した部分もある。
水知の笑顔は、昴に安心感を与えていた。
作業を終えた水知が、満足気に家の中へと戻ってくる。
「それにしても最近さ、外に少し出たり窓辺に立ったりすると、誰かの視線を感じるんだよね。今も誰かに見られてる気がした」
「気味の悪いこと言うな」
昴も顔を青ざめさせながら、再び家の中へと入った。
水知の乾ききってない髪は、更なる雨の雫が降り注いだことによって、ずぶ濡れ状態だ。
「頭拭けよ。風邪ひくぞ」
言うと、昴を追い越して先を歩いていた水知は、振り返ってきた。
「いいのいいのこれで。水もしたたるいい女って昴が惚れ直すかもしれないし」
「……」
にこやかな水知は、結局昴のことを諦めていないということだろうか。昴は嘆息し、国生家に帰る際にはあの恥ずかしい貼り紙を剥がしておかねば、と胸に誓う。
まだ午前中であるし、やみそうにない雨が続いている。先ほど確認したところ、国生家はばっちり鍵をかけられてしまっていたし、しばらくここにいるしかない。
昴は水知の住まう住居にようやく慣れてきたこともあって、居間の床へと腰をおろし、あぐらをかいた。欠伸をしながら、きょろきょろと居間を見回す。
フローリングには絨毯がひかれておらず、冷たい感触が伝わってくる。テーブルも椅子も、棚一つ見当たらない。キッチンスペースは使われていない様子で、やはり全体的に生活感がない。冷蔵庫もなかった。食生活はどうなってるんだろうか、とどうでもいいことが心配になった。
「チッ、テレビくらい置いとけって」
娯楽品が一切ないこの部屋で、昴は時間を持て余す。もちろん時計も置いていないので、時間の流れも曖昧になってしまう。
「ごめんね何も出せなくてー。お茶くらい用意しとけばよかったなぁ。まさか昴がわたしの家に来て既成事実をつくるチャンス到来な事態は考えてなかったよ」
「俺も全く考えてなかった。そして二度と考えるな」
居心地が悪すぎる空間で、昴は逃げ出したい衝動に駆られるものの、やはり身動きが取れない。パジャマのままなので由梨絵の帰りを待つしかない。柚季の幼稚園が終わったら、由梨絵は一度家に帰ってくる。そのタイミングで頭を下げて家に入れてもらおう。土下座覚悟で。
頭の中で計画を反芻している間に、水知の姿が見えなくなっていた。
キョロキョロと周囲を見回すと、開け放たれた和室に目が留まった。
先ほど聞こえてきた、和室の押入れからの物音は一体なんだったのだろう……気にはなるものの、究極に怖がりな昴は確認することすらできずにいる。
和室に注目していたら、その和室からひょっこりと水知が出てきた。
どうやら死角になる位置に、水知がいたらしい。昴は心臓が張り裂けんばかりに驚いたが、なんとか強面を保つことに成功した。これ以上恰好悪い自分は見られたくない。
「じゃーん!」
水知は小脇に抱えていた冊子を、昴の前へと差し出して見せてきた。
自慢げに、にんまりとしている。
「なんだよ? ……ってぇぇえ!! ぬわぁあぁ!!」
水知の差し出してきた冊子。眼鏡のフレームを指で押し上げて確認し、またも簡単に自分が崩れ去った。
水知の持っていたのは、グラビアアイドル鳥居美園の写真集だったのだ。
切り取った雑誌のページなんかも数枚あるし、古い雑誌なんかは擦り切れてしまっている。見覚えがありすぎた。
「これは俺のだ!」
昴は眉を吊り上げて立ち上がり、大股に水知へと迫って鳥居美園集団を奪い返す。
「盗んだのかお前!」
「借りたんだよ」
「かしてほしいなんて一言も聞いてないぞ!」
「かーしーてッ♪」
「今更遅いわぁ! なんで盗んだ!? 嫌がらせか!? ストーカーか!?」
まくしたてた昴は肩を上下させ、荒い息を吐き出す。
水知は平和な笑顔のままだ。
「昴の部屋に忍び込んだ時にね、押入れの中に隠してあるのを見つけたの。とりあえず回収しとかなきゃって思ってうちに持ってきておいたんだ」
「とりあえず回収する意味がわからない!」
「昴は、この女の子が大好きなんだよね?」
水知に聞かれて、ドキリ、と鼓動が跳ねた。
「な、なんだよ突然……」
好きか好きじゃないかと聞かれれば、彼女が好きだから写真を収集しているに決まっている。しかしその感情がどれほどのものなのかと問われれば、昴には答えることができない。実際、鳥居美園に会ったこともないのだ。
「昴がこの女の子が好きだって知っちゃったから、決めたのです!」
「……何をだよ?」
「鳥居美園ちゃんを昴のハーレムに入れる!」
――は? 何言ってんだこの妖怪?
昴は大真面目な顔を向けてくる水知へと、可哀相な子を見る瞳を向けた。
水知は気付いた様子もなく、ガッツポーズを作っている。
「まず彼女を誘拐する方法を、昴と詰めていかなきゃね」
人差し指で、額を小突いた。
「あぅっ」
水知が顔を仰け反らせる。顔を戻した時には泣きそうに瞳が潤んでいた。
「なにするんだよ」
「誘拐は犯罪だ。まずそのへんの常識を身につけろ妖怪」
「だってさ、グラビアアイドルだよ? 誘拐でもしなきゃ、昴のハーレムに入ってくれるわけない」
「そういう常識は身につけてるんかい」
「とは言っても、わたしはなかなか身動きが取れないし……ね、昴、ちょろっと学校に行って彼女を勧誘してきてよ」
簡単に言ってのける水知に、昴は眉間に皺を寄せた。眼鏡の奥から冷たい眼差しを、水知へと向けて放つ。
「嫌だね。俺は学校に行くつもりはない。お前だって俺と同じ学校なんだろ。しかも鳥居美園と同じ学年。声をかけるならお前の方が最適じゃないか。むしろ友達になって俺に紹介しろ」
「……うーん。行けるものなら学校に行きたいんだけどね――へくちっ」
水知が困ったように苦笑いを見せた後、小さくくしゃみをした。身震いし、鼻をすすっている。
「ほら、言っただろうが。やっぱり濡れたままだから、風邪ひいたんじゃないか」
「ずぶ濡れの方が元気が出るんだよ」
「なんでだよ」
昴は不機嫌に問いかける。学校の話題が出たあたりから、気分は沈んだものになっていた。自分でも分かってはいるけれど、学校の話題に対して頑なになっている。
「だって、わたし――乾いちゃうんだ」
「え?」
昴は呆けたように、水知を見つめた。
水知がベランダに続く窓際へと歩いて行く。その場所に立ち、昴に背中を向ける。
窓の向こうに見える雨を、穏やかな瞳で見上げている横顔が見えた。
「どんどん身体が乾いていっちゃうの。雨の日だったらなんとか動けたりするんだけどね。それでも昴の部屋に行くくらいが精一杯かなぁ。学校には行きたいけど、やっぱり、今のわたしには無理で――」
「ちょ、ちょっと待てよお前。乾いていくってどういうことだ?」
昴が強張った面持ちで、水知の背中へうわずった声をかける。
水知は、やはり穏やかな瞳を昴に向けてきた。
「見たでしょう? ミイラみたいになっちゃうの。完全に乾ききっちゃうと、死ぬの」
***
なんと声をかけてよいか分からないまま、気付けば長い時間が過ぎていた。
水知はぼんやりと雨を見ていたし、昴は無言で座っているしかなかった。
聞きたいことはたくさんあった。
でも、昴は何一つ問いかけられなかった。
他人の懐へと、踏み込むことができなかった。だから、聞けなかった。自分が嫌になり、昴は険しい顔を俯かせることしかできない。
あまりのことに、空腹感もなかった。雨の音だけが聞こえてくる空間に身を委ねて、数時間。
昴はようやく立ち上がる。
「どこ行くの? 昴?」
水知は外を見ているのかと思ったが、昴の気配は感じていたらしい。声をかけてくる。
「……帰るんだよ。お前と一緒にいると、息苦しい」
時間は分からないけれど、パジャマだろうと裸足だろうと、この空間から逃れたかった。
外で姉と柚季の帰りを待とう、と決意する。
「来てくれて嬉しかったよ。昴と一緒に過ごせて、楽しかった。……また、会えるかな?」
昴は水知の言葉に応えず、背中を向けた。
逃げるように早足で家を出て、後ろ手にドアを閉める。
ドアの向こうにいる、水知という少女の存在を頭から追い払うように、頭を振る。
「あ、佐藤、君」
傘を差した宮代翔子が、タイミングよくアパートの外階段を昇ってくるところだった。
「ちょうどよかったです。今日もたまった学校のプリントを持ってきたんです」
性懲りもなく翔子が昴に近づいてきて、紙袋を差し出してきた。見慣れた大真面目な固い表情で、昴を見た後、頬を赤く染めた。
「なんでいっつもパジャマなんですか」
「知るかよ。副委員長が俺のパジャマ姿が拝みたいんだろ」
「ちがっ……あのですね! 今日来たのはそれだけじゃないんです!」
翔子が意を決したように、顔を上げる。眼鏡の奥の瞳が、昴を真っ直ぐ見つめてきた。
「佐藤君が学校に来ない理由を考えてみたんです。それで、あの、佐藤君も友達が出来たら学校が楽しくなるんじゃないかって!」
「は?」
雨が雑音のようにうるさくて、昴は忌々しげに顔を歪ませる。雨の音は不快だった。先ほどの少女の存在を、嫌でも感じさせた。
翔子が紙切れを差し出してきた。紙切れを持つ翔子の指先は震えている。
「だから、これ!」
昴は紙切れを見下ろす。
おそらく翔子の携帯の番号である、数字の羅列。ご丁寧にメールアドレスまで書いてあった。翔子は震えながら顔を俯かせ、ひたすらに紙を差し出している。
昴は――その紙を、翔子の手を、はねのけた。
翔子が息を呑む。
「俺に友達がいないから、友達になってあげる? ふざけてんのかよ、お前」
「……あ、ごめんな――」
「失せろよ。二度と俺の前に現れるな」
昴が言い放つと、翔子がくしゃりと顔を歪ませた。
背中を向けて、逃げていく。
昴はもう一度、水知の家のドアに身を預けた。深い息を吐き出す。
濡れた髪を、毟り取るように掴む。
「なんでお前ら、俺の中に、踏み込んでくるんだよ……」
地面に落ちた紙が、雨の雫に叩かれて水分を含み、柔らかくなっていく。
数字の羅列が、滲んでいく。