ハーレム二人目①
『街を汚す悪い子はピカピカがお掃除しちゃいます! ぷんぷん!』
国生家の小さな居間に、可愛らしいアニメ声が響き渡る、午後四時過ぎ。
ブラウン管の向こうで、女の子がポーズとともに、決めゼリフを発している。昴は耳をくすぐられるような感覚に襲われ、わずかに身をよじった。
現在昴と柚季の二人は、夕方に放映されているアニメに釘付けであった。柚季が毎週この時間にこのアニメを見るのは、欠かせない恒例行事となっている。昴が本日のおやつに作ったガレット・ブルトンヌを片手に、柚季が真剣な眼差しをテレビに向けている。
柚季は膝をたてて座している昴の前に、ちょこんと、小さくおさまって座っている。
昴としては、体温を感じそうなほど柚季がすぐそばにいることで、こそばゆくて少しも身体を動かすことができずにいる。しかも先ほどからに耳を弄られているような甘い響きに、身体が火照って仕方がない。
誤魔化すように、ショートブレッドのようなお菓子をサクサクと頬張る。うん、我ながら最高の出来だ。
柚季のトレードマークである触覚髪が視界を遮っているので、テレビの内容はあまり頭に入ってこない。
しかしストーリーは正直どうでもよかった。先程から昴の気持ちを掴んで離さないのは、テレビのアニメキャラが発する声なのだ。
「すばる、このおかしとってもおいしいの!」
柚季が一度昴を振り仰いで、言ってきた。口の周りに食べかすがたくさん付いてしまっている。
「そんなもんで大喜びするなんて、単純な奴だな。ハッ」
わざとらしく険しい顔を作って鼻で笑ったものの、柚季が昴に対して気を許してくれている事実に、昴は内心で歓喜に打ち震えていたりする。幼女趣味はないと思っていたのに、柚季の仕草、言葉、笑顔、全てに対して顔が綻んでしまいそうになる。
ここ最近は、感情を隠すのに必死な日々だ。
『ピカピカキーック!』
ブラウン管の中の美少女戦士が、鈴の鳴るような声で必殺技を決めた。昴の腰元にビリビリと電流が駆け抜けた。
柚季はテレビ画面の方へと目を戻す。昴の様子に全く気付いた様子もなく、ハラハラと戦いを見守っている。
昴は息をつき、少し身体の火照りを冷やす為に立ち上がる。ベランダ側の窓を開け放ち、涼しい風を頬へとあてる。ここ最近天気の悪い日が続いているので、空を見上げると今日もどんよりと黒雲が空一面を覆っていた。
程なくして、アニメが終わった。柚季がほぅ、と大きく息を吐き出している。上気した頬を小さな両手で覆い、興奮冷めやらぬ様子だ。
「おもしろかったの。ユズおっきくなったら、ピカピカになるのぜったい」
子供らしい夢を聞き、昴は口の端を吊り上げる。
「柚季、アニメの世界がそんなに易しいと思ったら大間違いだ」
ぬるい瞳で柚季を見下ろし、眼鏡を光らせた。
「そうなの? やさしくないの? ユズ、ピカピカになれないの?」
柚季が眉を下げ、眼鏡の奥の瞳をのぞきこむようにして見上げてきた。泣きそうな表情をされて、昴はぐっと詰まる。
なれるさきっと。と、普通の大人なら、子供に対して優しく言ってやるのかもしれない。しかし昴は普通の大人ではなくて、コミュニケーションが苦手な高校二年生だった。
「一つ教えてやろう。あのキャラの最大の魅力は、萌え声だ」
「もえごえ?」
柚季が小首を傾げ、触覚髪を揺らす。
「そうだ。もしあのキャラのような美少女戦士になりたいのなら、萌え声を身につけて声優を目指せ。そうしたら柚季もアニメ出演だって夢じゃない」
「せいゆうになったら、ピカピカになれるの?」
「ああ、ピカピカにだってなれるかもしれない」
柚季は昴が語る一語一語を聞き漏らさないようにと、真っ直ぐな眼差しを昴へと向け、唇を引き結んでいる。
「天使のささやきのような、小鳥のさえずりのような、あの萌え声が堪らないということに俺は気付いてしまった。男を惑わす魅惑の声の持ち主、声優ってのは恐ろしいな」
言っていることは非常に馬鹿らしいのだが、柚季はうんうん、と神妙に頷いている。
「あんな可愛い声で囁かれたら、男はイチコロだ」
「イチコロなの」
「よーく覚えておけよ、柚季」
「うん。おぼえておくの。イチコロなの」
イチコロ、という響きが気に入ったのか、しばらく柚季はその言葉を繰り返していた。
昴はその柚季を見守りながら、
グラビアアイドルもいいけど、萌えアニメも悪くない、と思考を腐らせていた。
***
――夢を見ている、ということにはすぐに気付いた。
昴はじっとりと全身を汗ばませ、幼少の自分を見下ろしていた。
暗闇でうずくまって泣いている少年。
これは自分自身だ。この光景に、見覚えがあった。
過去のトラウマが、悪夢となって再現されている。
大きなテーマパーク内のお化け屋敷の中。何歳の頃だっただろうか、昴はここで迷子になってしまったのだ。
最初は姉に手を引かれていた。しかし姉もそんなに大きくなくて、あまりの怖さに逃げ出した昴を見失ってしまったらしい。姉はずっと必死で昴のことを探していたのだとか。
昴にとっては全てが後から聞いた話なので、その時の恐怖は計り知れないほど根深く自分の中に残ってしまっている。
『一人にしないで』
うずくまる少年の心の声が、聞こえてくる。
隠れるように小さくなっている少年の姿は闇に埋もれ、ほぼ見えなくなってしまっている。そのことが発見を遅らせた。昴がこのお化け屋敷内にいた時間は一時間以上だった。その時は、一時間どころか、永遠よりも長い時間に思えたことを思い出す。
『みんな、ぼくを置いてかないで』
昴は顔を歪ませる。こんな夢は見たくない。
『おねえちゃんまで、ぼくを捨てて行っちゃったんだ。みんな、ぼくからはなれていくんだ』
自分の本心など、のぞき見たくなかった。
昴が少年から逸らした視線の先に、おどろおどろしい雰囲気の神社の本殿がある。幼少の頃には気付きもしなかった。神社を模してつくったであろう本殿の向こう側から、今にも何か恐ろしいものが飛び出してきそうだ。
『お願いだから。ぼくのこと、みんな好きになって――』
少年は祈る。懇願する。
神様に向けて。
***
いつの間にか雨が降り出していたらしい。
パラパラと窓ガラスを叩く水滴の音が耳に届き、昴は薄く瞼を上げる。
時期的には暑くないはずなのに、全身から汗が噴き出していた。不快だった。頭も重く、湿気に満ちた部屋で全身が気だるい。悪夢なんか見た所為だ、と昴は吐息し、過去の映像を頭から拭い去る。
雨が降っているとはいえ、カーテンの向こうからわずかな明るみが差し込んできていた。もう朝なのだと理解する。
かぶっていた布団を持ち上げ、重たい身をなんとか起こす。
昴の横には、水知がすよすよと寝息をたてていた。
「……は?」
昴はギシリと固まって、水知を見下ろす。眼鏡をかけていないので、視界はぼんやりと滲んでいる。
レース刺繍がされた、白いスリップ一枚を身につけただけの少女が横向きになって、昴にしがみつくような恰好で眠っていた。
露になっている白い太腿から足の指先、やせ細った肩、腕、薄闇にきれいに浮かぶ、鎖骨。
滑らかに女の子らしいラインを見せた肢体を前に、昴は完全に思考がストップした。
唐突に、見下ろす昴の視線を感じ取ったのか、水知が薄目を開いてきた。
幸せそうに蕩けるような笑みを昴に向けてくる。
「おはよう昴」
「……」
「窓から忍び込んだんだけど、昴が気持ち良さそうに寝てたから一緒に寝ちゃったよ。わたしってばドジっ子だなぁもう」
水知が身体を起こしながら、てへ、と舌を軽く出している。
そして身動き一つとらず、石像のようになってしまった昴の肩に、両腕をのせてきた。
「ね、昴。繋がろう?」
水知がニッコリと微笑み、言った。
ゆっくりと顔を寄せてくる水知に対して昴は――
「……っ、」
ようやく現実だと気付き、喉が切れるかというほどの、大絶叫を上げた。
至近距離で絶叫の洗礼を浴びた水知が、耳を塞いでいる。
アパートの部屋中に響いた大声のすぐ後、昴が使わせてもらっている和室が開け放たれる。
「なにがあったの昴!? ……って、誰よあんた!」
まだ出勤前だったらしい、姉の由梨絵が、顔を出した。
その横で、園服姿の柚季が、ひょこっとのぞきこんできた。
「あ、ミィちゃん。おはようなの」
柚季が嬉しそうに頬を緩めて、手を振ってくる。
蒼白になっている由梨絵が、慌てた様子で柚季の両目を塞いだ。
「見ちゃいけません!」
布団に入って抱き合っているほどに身を寄せ合っている二人、おまけに昴はパジャマ、水知は下着姿なのだ。由梨絵が慌てるのも無理はなかった。
由梨絵は柚季を和室から外に追いやって、襖を後ろ手に閉める。
その顔は際限なく怒気を孕み、全身はふるふると震えていた。
「昴、居候先の家で女の子連れ込むなんていい度胸してるわね……」
昴は姉と柚季の登場により、ようやく少し冷静さを取り戻していた。布団の脇に置いてあった眼鏡を拾ってかける。
布団から出て、下着姿で座り込んでいる水知から距離を取った。心臓がありえない程の早鐘を打っていた。怒りに震えている姉ですら、昴にとっての救世主に見えた。
「柚季の教育上、アンタたちをここに置いておくわけにはいかないわ」
俯きがちに低い声を放ってくる姉に、昴は喉をごくり、と鳴らす。
どうやら、本気で姉を怒らせてしまったらしい。
「……つまり?」
昴は分かりきった問いかけを姉にする。
「つまりね……アンタたち……」
由梨絵が獣のように目を光らせ、近付いてくる。
ガシ、ガシとおもむろに昴と水知、二人の腕をわし掴んできた。
「ちょっと待っ、」
昴の言い分を聞くつもりはないらしい。ずんずんと引きずられる。居間を通り過ぎる際、柚季がニコニコと手を振ってきた。
「さっさと出て行けぇぇえっ!!」
由梨絵が怒鳴り、ゴミのように二人ともがポイ捨てされた。
すぐにばたん、と容赦なくドアは閉められてしまう。
「追い出されちゃったね」
しとしとと雨が降りしきる中、裸足の水知は呑気にも言ってくる。
「お前のせいだろうが……!」
首でも絞めてやろうか、と水知の細首に注目してしまい、艶やかな水知の姿を改めて観察してしまった。昴は慌てて目を逸らす。
「と、とにかくユリ姉の怒りが冷めるまでは、お前の家にいさせてもらうからな! お前はさっさと服を着ろ!」
「昴、わたしの家に来るの?」
性懲りもなく、水知の瞳が輝く。
そういえば、柚季からのハーレム入る宣言を聞いてから数日間、水知の姿を見かけていなかったことに思い当たる。柚季との楽しく幸せなハートフルライフに昴は満足しきって、存在を忘れかけていた。というか、あまり考えたくなかったのが正直なところだった。
「パジャマのままこんなとこにいられるか! さっさと行け妖怪!」
昴が厳しい言葉を投げつけても、幸せそうな水知の表情は崩れない。
鼻歌を歌いながら自分の家へと入っていく水知の後を追う。
家に入ると、水知は濡れた足のままペタペタと上がっていく。
改めて観察してみると、潮水知の家には、家具がほとんど置かれていない。
不気味さが醸し出している空間に、昴はここに来たことを後悔する。
水知は居間の中心部で立ち止まり、振り返ってきた。
「二人きりだね」
ゾッとした。
この場合、美少女が下着姿で言ったセリフに身を悶えさえるのが、普通の反応なのかもしれないが、昴は戦慄し、身を震わせた。
「さっきの続き、しよ?」
水知が言いながら、一歩一歩と近付いてきている。その時。
ガタリ、と押入れから物音がした。
この家の和室に続く襖は開け放たれていた。その和室の押入れから大きな音が聞こえてきたのだ、と気付く。
何かいる……! 昴は更なる恐怖で、歯の根が噛み合わなくなる。
「二人きりじゃない! 押入れに何かいる!」
「気のせいだよきっと」
簡単に返してくる水知。昴はドアに背中をつけ、がくがくと首を横に振る。
「絶対なんかいる! なんか音がしたんだ!」
「誰もいないってアハハ」
そらぞらしく紡ぐ水知に、昴はプツリと、限界点を迎えた。
片手を前へと差し出し、それ以上近付くなとの意思表示を見せる。
水知が素直に足を止めた。動機息切れが激しい昴は、まず落ち着かねばと深呼吸をする。
それから、水知をまっすぐ見つめた。
「あのな、潮水知。俺がお前と結ばれるのは、絶対に不可能だ」
なんとか言葉を絞り出す。
水知がわけが分からない、と言った風に首を傾げている。その可愛らしい仕草に、鼓動が跳ねる。それでも、昴はこの美少女を受け入れることは、絶対に出来ないのだ。
……このことだけは言いたくなかったが、仕方あるまい。
昴は意を決して口を開く。
「俺はな……究極の怖がりなんだよ。昔オバケ屋敷でユリ姉に置き去りにされて以来、幽霊、妖怪、なんかその類、つまりは人間以外の何かが、無茶苦茶に怖い。トラウマなんだ。だから、俺はお前が怖い。どう足掻いたって、絶対にお前を受け入れることはできない」
「……」
きょとん、と水知が目を丸くして昴を見つめてきた。
昴はその眼差しにいたたまれない気持ちになって、目線を逸らす。
背中を張り付かせたドアの向こうから、雨の音が響いている。早鐘を打ち続ける鼓動は、おさまらない。
「……そっかぁ。ふられちゃったぁ。じゃあわたしは、昴のハーレムに入るの諦めるね」
水知はそれでも、笑顔になって言ってきた。
「いやハーレム自体作らんでいい」
水知がしゅんと眉を下げているのが視界の端に映る。昴は歯を噛み締めた。なんで、こんなに罪悪感が溢れてくるのだろうか。
この少女の真っ直ぐな気持ちは、正直に嬉しいのだ。だけれども、どうしても水知に対して恐怖心を抱いてしまう自分が歯痒い。どうにもならない。
目を逸らしたままの昴に気を使ったのか、水知が離れていく。
「ハーレムは諦めないよ」
ぽつり、と水知が呟いたので、昴は顔を上げた。
「絶対に、昴のこと幸せにしてあげるから!」
――なんでコイツは、こんなにも俺の為に?
昴は今更になって、胸にどうしようもなく響いた言葉と共に、そんなことを考えた。