ハーレム一人目③
――ユズのおうちには、『鬼』がいるの。
『鬼』は、ある日とつぜん、ゆずの遊ぶおへやをとって、いっつもみずぎのおねえさんの絵本をよんでるの。
ママが『鬼』はママの弟だから、ちょっとのあいだガマンしてねって言ったの。
『鬼』のお名前をよんでも、『鬼』はいっつも怒ってるの。
名前をよんだらおへんじしましょうね、って先生にならわなかったのかな。
ママもパパも『鬼』を『ほうち』してるから、いつかみんな食べられちゃうかもしれないの。
ママもパパもすごくいそがしいの。おしごとがたいへんなんだって。
でもユズは、さびしくなんかないよ。もう五つだもん。大きいもん。ママとパパがえらいねってほめてくれるもん。
でも『鬼』と二人きりになると、こわいの。
『鬼』のはなしをしたら、じゃあユズは『鬼』をたいじする桃太郎だねって、ミィちゃんが言った。あ、モモじゃなくてユズだから、ユズ太郎だねってわらった。
「じゃあ行こうか」
「……どこに行くの?」
「もちろん鬼退治だよ。えっへっへ!」
***
カーテンが開ききった窓の向こうに、真っ直ぐ地面へと落ちていく雨が見える。
雨特有の匂いが、室内に満ちている。さあさあと、遠く水の音が聞こえる。
昴の居候しているアパートの住居をそっくり逆向きにした間取り。二階の角部屋に位置する狭い住居の居間に、昴は立ち尽くしていた。太陽が出ていないし、照明は落ちている。この部屋は妙な息苦しさを感じた。
この住居に入ってすぐ、衝撃的な光景が目に飛び込んできて、口を開くことも、動くことすらしばらくままならなかった。
眼鏡に水滴がついてしまっている。袖口で乱暴に水滴を拭い、改めてその光景を現実のものだと受け入れる。
――五歳の姪が、縛られて転がっていた。
後ろ手に細い手首が縛られ、ご丁寧にさるぐつわと目隠しつき。そんなプレイは好みじゃない。
柚季がムガムガと息苦しそうに呻きを漏らす。必死にじたばたしている様子だが、殆ど身動き一つ取れていない。
「何してんだよお前!」
昴は水色少女に向けて、引き攣った声をあげた。
窓際に座り込んでひたすら雨粒を見つめている少女へと、精一杯の視線を突き刺す。
水色少女は足元でジタバタともがいている柚季を一度流し目で見遣り、妖しげな眼差しをそのまま昴へと向け――
「あ! おかえりなさいませご主人様!」
ぱぁぁ、と花が一気に開花したようだった。破顔している少女の顔は先ほどの妖しい眼が幻だったように、幼くなった。昴の睨みにも、全く動じていない。
見覚えのありすぎる長いストレートの水色髪。深く純粋な色を宿した瞳。
昴は脱力した。緊張感に満ちた空間が、水色少女の笑顔でガラガラと崩れ去った音を聞く。
「俺はお前のご主人様になった覚えはない」
「わたしもキミをご主人様だとは思ってない!」
「ああそうかよ。幼女誘拐拉致監禁犯とは関わりたくないからホッとした」
「昴はわたしの旦那様になってくれる人だもん!」
昴の言葉が全く耳に入っていない様子の水色少女が、生き生きと言い放ってくる。
「……旦那、だ、と? 更に関係が縮まってる!?」
「挨拶はやっぱりそれが萌えの鉄則かなって! 昴も萌えてわたしのこと嫁にしたくなったでしょう? でしょうでしょう?」
「どこでそんな知識を身につけたんだ人外」
「毎日引きこもってPCばっかり触ってるわたしを舐めちゃあいけませんぜ」
人外のくせにか。昴は突っ込む気力すら失せる。
水色髪の美少女――数日前、コンビニのアルバイトに行った時に遭遇した、人外の化け物だ。干からびていたミイラ状態の時からは想像もつかないくらい、ふっくらとみずみずしく新鮮ピチピチ活き活き。その姿を見るだけで、胸がキュンとときめいてしまう。
昴は見惚れてしまっていたことで自己嫌悪に陥りながら、水色少女を睨む。
女の子に昴の睨みはきかない。それは、初めて会った時から立証済みだった。
どこまでもニッコニコの笑顔なのだ。彼女は。
「なんで俺の名前を知ってる? それに俺の姪に何してんだよお前」
力なく問いかけた。
「ハーレム作れって言ったから、ハーレムを作る為に頑張ったんだ!」
ささやかな胸を張って、水色少女が言う。
柚季はもがいていてむぅむぅ鳴いている。
「それで俺の姪を縛ることに、なんの意味が?」
「ユズちゃんは昴様ハーレム計画生け贄第一号なんだ! 捕獲した! 頑張った! はい惚れたー!」
「えーと……ちょっと、考えさせてくれ」
昴は頭を抱え、現実から目を逸らした。
確かに、昴は彼女に向けて『俺様ハーレム作ったら嫁の一人にしてやる』と鬼畜宣言をした。まさかそれを真に受けるバカが現実にいるなんて、想像もしていなかった。彼女にハーレムを作ると返されて、昴は直後に逃げ出した。さすがに人外はバイト先まではついてこなかった。バイトが終わって外に出たら、もう彼女はいなかったのだ。やはり逃げたか、と安心していたのに。
数日後に、まさかの幼女拉致監禁。という展開が待ち受けているとは。
真に受けて正攻法のハーレム作りに精を出すのではなく、いきなり犯罪に手を染めているところでもう彼女は雲の上より遠い存在だ。と、考えてそういえばこの水色妖怪が自分は神様だと言っていたことを思い出した。
「お前確か神様なんだよな?」
「そうだよ。偉いんだよ」
「だったらなんか不思議パワー使って、いきなり女の子ワンサカ素敵展開にしろよ。昴様がみんな大好きキャッキャウフフがハーレムというものだろうが! 姪っ子一人と妖怪一人でハーレムが築けたなんて思うな?」
「正直に言うと、わたしに不思議パワーはない!」
「偉そうに言うな!」
「でも昴のお嫁さんになりたいから、ハーレム作るって決めた!」
「……」
昴は片手で口元を覆い隠す。思わずニヤけてしまいそうになったのを隠す為だ。
女の子に直球ストレートを投げられた経験のない昴にとって、嬉しすぎて笑みが浮かぶのを止められない。しかも相手は昴好みの美少女なのだ。
「……とにかく、姪を解放してやれ。話はそれからだ」
「嫌だね」
「即答すぎるだろ。お前一体どういう――」
水色少女は、昴が自室に入った時同様の、妖しげな瞳を柚季に向けた。その豹変ぶりに、昴は声を失う。
猫のような瞳が、薄暗闇で光っているように見えた。ますます薄ら寒さを感じる。
やはり目の前にいる少女は、人外なのだ。その事実を思い知らされる。
「だって、昴はハーレムを作ってほしいんでしょう? だから、この子は解放しない。ずっと監禁するの」
瞳に映るのは――狂気。
昴の背筋にゾゾ、と悪寒が走った。
軽い考えで目の前の水色少女に接していたことを後悔する。彼女は普通じゃない。まるで捕まえた幼子を食べてしまうのではないかという、恐ろしい空気が発せられている。
雨がどんどんひどくなってきている。
ベランダに叩きつけられて、水滴が跳ねている。雨と薄暗闇の閉鎖空間に、縛られて転がされた幼女。状況はやはり、切羽詰っている。
昴は今度こそ、真剣な眼差しを水色妖怪に向けた。
目の前にいるのは美少女なんかじゃない。元ミイラで自分の姪に害をなそうとしている妖怪だ。
「ふざけるな。あんまり俺を怒らせるなよ。さっさと姪を解放しろって言ってるんだよ!」
「なんで怒るの? 喜んでくれると思ったのに」
昴は大股に水色妖怪へと近付いていく。ブレザー制服を着ている彼女の胸倉を掴んで、強引に引き上げた。
間近で怒りの眼差しをぶつける。
「喜ぶ? なんで身内が縛られてるのを見て喜ぶんだよ!?」
「だって昴はどう接していいのかわからないんでしょう? だから、縛って転がして言うこと聞かせればいいんだよ。抵抗してきたら、お仕置きすればいいんだよ」
水色妖怪の瞳は揺るがない。挑戦的な眼差しで、昴を見上げてくる。
昴はカッと腹の底が熱くなっていくのを感じた。
「お前が柚季をどうにかするつもりなら、俺はお前を本気で殺すぞ」
「なんで? 別にどうなってもいいじゃんこんな子供」
「柚季は俺の大事な姪っ子だ! どうでもいいなんて思ったことなんてない!」
腹がカッカと熱くて、感情のままに叫んでいた。
全く抵抗する気がなさそうなだらりと弛緩したままの水色妖怪を、襟首を掴んだまま投げ捨てる。
華奢な身体は、あっさりと床の上に倒れこんでいった。
荒い息を吐き出して、倒れている柚季の方へ走っていく。
もう水色妖怪に目もくれず、柚季の前で腰をおろした。
いつの間にか柚季はもがくのをやめて、大人しくなっている。目隠しされた状態で、昴の気配を感じたのか顔を向けてきた。
「大丈夫か柚季」
昴は声をかけて、すぐに猿ぐつわと目隠し布を外してやる。
はらり、と布が外れると、大きな瞳がびっくりしたように昴を見つめている。ぽかん、と口が開いていた。
柚季の瞳には、涙の跡は全くなかった。一筋も泣いていない。
てっきり怖がって泣いているものだと思った昴は、拍子抜けする。
首を捻りながら、後ろ手に縛られている縄を外してやる。全然キツく縛られていなかった。簡単にスルリ、と抜けた。
「あれ……?」
なんだこのお芝居感は。
昴は柚季を見て、それからゆっくりと水色妖怪を振り返った。
床にぶつけて頬を擦りむいたのか、片頬赤く腫れあがって痛々しい。
水色少女はぺたりと座り込んでいて、全く邪気のない笑顔だった。
「ほら、ユズちゃん。鬼退治できちゃった」
水色少女からのどうやら柚季に向けての言葉に、昴は柚季を振り返る。
鬼? なんのことだ?
「ユズちゃんの怖かった鬼は、ユズちゃんのことすごく大切に思ってるから! 守ってくれたよきちんと!」
「なっ……」
言葉を失って、二人の少女を交互に見遣る。
どうやら騙されたのだ、と事実がゆっくり浸透していって、同時に頬が熱くなっていく。
自分は一体何を真剣に叫んだ?
あんな言葉が、自分の口から出てくるなんて想像もしたことがなかった。それでも、頭の中が真っ白になって、出てきた言葉は心からの声だ。
柚季が立ち上がり、ととと、と水色少女に駆け寄っていく。
水色少女の背中に隠れて、いつものようにひょこっと昴をのぞき見てくる。澄んだ瞳が見上げてきて、昴は目を逸らす。どんな顔をしたらいいのか、わからない。
「……騙したな」
弱弱しい言葉しか出てこない。
のぞかれてしまった本心に、恥ずかしさがマックス状態だった。
「えっへっへ! 騙してやった!」
やっぱり胸を張っている美少女の顔を傷つけてしまったことに、少し罪悪感を覚えた。
彼女は柚季の為に悪者を演じ、昴に突き飛ばされたのだ。
人外美少女は全く怒った様子もなく、嬉しそうに口の端を上げている。畜生、悔しいくらいに可愛い。
「俺は謝らないからな」
「わたしも謝らないよ。これでおあいこなかよしこよし! みんなでなかよしハーレム生活!」
「……聞いていいか?」
「趣味? 特技? 理想のタイプ? 結婚相手? 答えはもちろん全部昴デス!」
昴は水色少女を前にすると、どんどん力が抜けていく。これも魔力なのかもしれない。おそるべし。
まず最初にするべき根本的な質問を忘れていた。
昴は彼女に向けて、口を開いた。
「なんでお前がここにいる?」
「それはもちろん、キミとわたしが運命の糸で繋がってるからだよ!」
全然答えになっていない。昴はその場にぐしゃりとくずおれる。
「ね、昴は全然怖くないでしょう?」
水色少女が、笑顔で言った。
応えるように、柚季のお腹がぐぅ、と鳴った。