ハーレム?人目②
昴はハッとして顔を上げ、乱暴に自分の涙を拭った。
「ユズは、すばる大好きなの。大好きなの」
懸命に自分に向けて、言ってくる声が布団の向こうから届く。か細く幼い声は、それでもしっかりと気持ちを伝えてくる。
何度も、何度もだった。
「大好きなの。大好き、大好きなの、すばるのこと、大好きなの……」
もう取り返しのつかないくらいどうしようもなくボロボロになってしまって傷ついて泣いていることに、柚季は気付いているのだろうか。十年以上も抱えてきた心の傷を、少しだけでも癒したくて、それでも上手なやり方なんて分からないくらいに小さい女の子が、不器用に、何度も、何度も、何度だって。
柚季自身も泣いているみたいに聞こえてきた。
昴はそろそろと布団を持ち上げ、こっそり柚季の顔をのぞき見てみる。
柚季は大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、顔を真っ赤にし、真剣な表情で芋虫状態の布団を見つめていた。昴がのぞき見ていることには、まだ気付いていないらしい。
「ユズね、ほんとはね、ずっと、ずっとさびしかった」
しゃくりあげながら、涙がこぼれるのを必死に堪えている様子で柚季が言葉を紡ぐ。
「ママもパパも、ユズといっしょに大きなおうちにすみたくて、それでね、おしごとがんばってるの。だから、ユズもパパとママのおじゃましちゃいけないの。いっぱいガマンするの。でも、でも、ほんとはずっとさびしくて……言えなくて。でもね、すばるといっしょにいるとね、さびしくないの。すばるがいっしょにいてくれて、うれしかったの」
拙い口調で一生懸命になって自分の気持ちを伝えてくる少女の姿は、昴には眩しいくらいに映った。
「だれも好きじゃないなんて、ちがうの。だってユズは、ほんとに、すばるが大好きなの。うそなんかじゃないの」
少しだけ、沈んでいた身体が浮いたような感覚だった。
昴はのそのそと布団から這い出る。柚季がびっくりしたように瞳をまんまるにさせて、昴を見つめてきた。
「なんか……ごめんな」
それだけ言うのが精一杯だった。掠れた小さな声をなんとか絞り出して、柚季を直視できなくて視線を逸らしたままポソポソと告げた。
柚季の気持ちまで嘘にしてしまった自分を、情けなく思う。こんな小さな女の子が、駆け引きなんてできるわけなんかない。だから、彼女の言うことだけは、信じてやらなきゃいけないじゃないか。
自分と同様にずっと寂しい思いを抱えてきた、柚季という少女を守ってあげないと、そばにいてあげないと。
それだけの存在意義だけで、昴にはとてつもなく救いだった。
おそるおそる小さな頭にぽん、と手を置いてみる。
柚季は一層顔を歪めて、昴の懐に飛び込んできた。
「これからもずっと、いっしょなの! どこにも行っちゃだめなの!」
昴は言葉にならなくて、ただ頷く。
胸に飛び込んできてくれた少女の頭をぎこちなく撫でてやりながら、いつの間にか美園のどなり声が聞こえなくなっていることに気付いた。
顔を上げて、周囲の様子を探る。小さな住居空間は、柚季のしゃくりあげる声だけが時折聞こえるだけで、昼下がりのアパートは静寂に満ちていた。
諦めて帰ったのだろうか。昴は少しの間、柚季の気分が落ち着くのを待ってから、外してしまっていた眼鏡を手に取った。
久々に眼鏡をかけてみて、世界の輪郭がくっきりとしてきた。
三日間も現実逃避していた。世界がはっきり見えてきた今でも、落ち込んだ気分は変わらない。傷ついた心は傷ついたままだ。それでも見返りを何一つ求めず付き添ってくれていた柚季の為に、少しでも元気になったところを見せなくてはと、無理矢理に心を奮い立たせた。
立ち上がると、柚季が心配そうに見上げてきた。下がりっぱなしの眉を見ると、自然に苦笑が漏れる。こんな幼い子にまで心配をかけてしまうなんて、自分はどれだけ弱くて脆い人間なのだろうか。
「ちょっと様子見てくる」
柚季に告げ、なんとなく足音を立てないようにコソコソと、玄関ドアの前まで行ってみて。
鼻をすすっている音に気付いた。
ドアの向こうですんすんと鼻をすすっているのは、美園だろうとすぐにわかる。
「なんで……なんでお前まだいるんだよ」
昴はドアを開けないままで、小さく呟いた。振り返って時刻を確かめてみると、訪問から軽く一時間は経過していた。
美園に昴の小さな声が聞こえたのか、鼻をすんすん鳴らしていた音がピタリと止む。
しばらく沈黙が続いた。
「……なによ、なによなによ今更。三日も無視してたくせに。あたしがハーレムに入るのがそんなに嫌なの? キスまでしたのに、逃げ出して。取り残されたあたし、メチャクチャかっこ悪いじゃない。ファーストキスだったのに、あの子フラレたのね、って同情的な目まで向けられたのよ」
やはり初めてだったか。あの時の乱暴なキスのことを思い出して、凄まじい恥ずかしさが込み上げてきて、昴は俯く。
「お前さ、ハーレムの意味がなんなのか分かってるのか? 俺のこと好きじゃないお前がさ、入るって明言したところで……意味なんかないだろ。カッパにしたって無意味にハーレム入る宣言してたけどな。ハーレムってそういうことじゃないんだよ、たぶん」
「そんなの、わからないじゃない。あのバカッパはあたしが正体見抜いたら開き直ってさ、あたしをそそのかして、全部説明して助ける為に昴のハーレムに入ってくれって頼んできたわ。バカッパが昴のそばにいれば元気になるって言うんだから、だから少しでもそばにいなきゃいけないのに……とことんあたしをバカにしてるわ。ずっと無視して……」
声に力がなくなっていく。ドアを挟んでする内容の会話ではないかと思い立ち、昴は一歩ドアへと近付く。
「開けないで!」
昴が近付いてきた気配を聡く察知したのか、美園が厳しい言葉を放ってくる。
昴は足を止め、息をついた。三日間開けろと懇願していたくせに、今度は開けるなってどういうことだ。彼女の言動の滅茶苦茶さについていけず、肩を落とすしかない。
柚季が気付けば隣に立っていた。
不安げな眼差しでドアを見つめ、昴の手をぎゅっと握ってくる。
「おねえちゃん、すばるのこと、きずつけないでほしいの!」
唐突に柚季が強く声を張り上げたので、横に立つ昴はぎょっとする。
柚季は眉をしかめ、厳しい眼でそれでも不安げに瞳を揺らして、玄関ドアを見つめ続けている。
「すばるがへんになっちゃったのは、おねえちゃんのせいなの! すばるがすきってうそついたおねえちゃんのせいなの! だから、だからおねえちゃんはすばるのハーレムにはいっちゃだめなの!」
「お、おい柚季……」
ドアの向こうから、呻きのような力のない声が聞こえてきた。
「とことん最低な気分だわ……ここまで拒絶されるなんてね。それでも……助けたいの。あたし、なんにもできなくて……助けたかったの……なのに、なんでよ、あたし、なんにもできないの……? 全部空回り。仕事キャンセルしまくって、こんなことばっかしてて、アイドル業すら危ういのよ。それなのに、なに一つ届かない。ハーレムに入るなって言うなら、あたしに何ができるっていうのよ」
美園が開けるなと言った意味が、この時ようやく理解ができた。
彼女は泣いているのだ。声が震えないように必死で繕って、泣いていると気取られないようにしながら、それでもきっと溢れてくる涙が止まらないのを見られたくないのだろう。プライドの塊である彼女らしい。
「あんたもあの子も、あたしのことなんか必要ないのよね。仲良くそろって引きこもっちゃって、あたし一人で騒いで、バカみたい」
その言葉を聞いて、昴は瞬時に顔を強張らせた。
「あいつが引きこもってる?」
「そうよ。あんたと一緒よ。三日前からいくら呼んでも出てきてくれない。鍵かけちゃって開けてくれないの。バカッパすら返事がない」
美園の言葉を聞き届け、咄嗟に昴はドアノブに手をかけていた。一気にばあん、と開け放つ。制服姿の美園が唖然とした顔で立っていた。
いきなりの昴の行動に、立ち尽くしていた美園が我に返り、真っ赤になって慌てて袖口で涙を拭っていた。
「な、ななな何よ! 泣いてなんかないわよ! 誰が開けていいって言ったのよ!」
美園の喚きをスルーして、昴は外へと飛び出す。久々に吸った外の空気は、特になんの感慨も抱かなかった。それどころではなかった。
靴もはかないまま、昴は隣の住居前へと駆ける。
インタフォンを押す。二度と会いたくない、存在すら忘れてしまいたいと思っていたはずなのに、無意識での行動だった。呼び鈴に反応はなく、焦燥感からドアを何度も拳で叩いた。
額に汗が浮かび、呼吸が乱れる。
どんどん、どんどん、と何度も拳を打ち付けるうちにひ弱な拳が真っ赤になっていった。
隣の住居に、人の気配は全く感じられない。
最初からそこには誰にも住んでなかったかのように、ドアの向こう側はひっそりと静まり返っている。
その時、ある可能性が浮かんできて、昴は拳を止めた。
――昴の願望によって現れた存在であるならば、昴が否定してしまったら、その存在ですら消えてしまうのでは?
そもそも、あの渇いていく少女は、偽りの水の神様は、本当に存在なんてしていたのだろうか。
昴はゾクリと背筋を凍らせ、おそろしい考えをなんとか頭から打ち消す。
彼女はいた。幻なんかじゃない。何度も会って、会話を交わした。その記憶ははっきりと自分の中にある。昴を振り回して、昴の心を掴んで、昴の心を傷つけて、昴もたくさん彼女を傷つけてしまって。
それでも浮かんでくるのは、花が咲くような満面の笑顔ばかりで。
昴は急いで部屋へと舞い戻った。
美園と柚季も、慌てた様子でついてくる。でも、その二人に目を向けている余裕すらなくて、呼吸すら忘れて押入れを一気に開け放つ。
愕然とした。
押入れは、普通の押入れだった。使われていない布団がきちんと仕舞われており、昴の荷物やなんかがごちゃごちゃと置いてある。特になんの特徴もない安アパートの一室に備え付けられたただの押入れ。
眼鏡の奥の瞳を可能な限り凝らしてみても、あるはずのものが見つからなかった。
「うそ、だろ……」
穴が開いているはずなのに。
押し入れを開けるたびに視界に入ってくる穴を見ては、溜め息をついていたのに。姉にばれたら殺される、と青ざめていたのもアリアリと思い出せる。
それなのに、ぬいぐるみが一つ抜けられるぐらいに開けられたはずの穴は、なくなっていた。
振り向くと美園が怪訝そうな表情で昴を見ている。柚季が、不安そうに昴を見上げている。
「おい、美園。お前が大好きで助けたかった女の子の名前はなんだ?」
「ハァ!? べ、べべべ別に全然大好きとかじゃないけど! ただかわいそうだから助けたかっただけで……って、あれ……」
頬を染めて必死に喚いていた美園の声が、徐々に小さくなっていく。
「どうしよう、どうしよう昴!? あたし、あの子の名前がわからない! 思い出せない!!」
すがり付いてきた美園は、瞳を潤ませていた。
昴も瞳が揺れる。身体も震えてしまっていた。
俺の望みで現れた存在だから、彼女は消えてしまった――?
「そんな、そんなのって……間に合わなかったの……? もう、いないの……?」
美園がずるずるとその場にヘナヘナとへたりこみ、項垂れている。くしゃりと顔を歪ませ、今度こそ子供みたいにわあわあ泣き出してしまった。
美園の気持ちが手に取るようにわかってしまって、昴は唇を噛んでつられてしまいそうになるそれを堪える。
ぎゅっと強く拳を握り締めた。不安な心を打ち消すように、震える身体を止める為に。
柚季が自分を見ている。
柚季の小さな愛は、自分の中に確実に届いている。だから。
まだ、消えてなんかいないはずだ。小さな愛が、暗く閉ざされた洞窟の中に少しだけでも光をもたらしてくれている限り。
昴は覚悟を決め、腹に力を込めた。
三日間ウジウジと悩み続けた自分の迷いが、吹き飛んでいく。
もう逃げるはやめだ。
どんなに傷けられたって、何度だって傷つけられたって、もう関係ない。
あの女の子の笑顔が見られなくなる方が、全てを上回るほどに辛い。
引きこもりで、不登校で、コミュニケーションが取れないくらい毒舌で、顔が怖くて、弱くて、情けなくて、脆くて。
そんな自分が、戦う理由を一つだけ見出す。
彼女を失いたくない。
だから、運命の神様にですら背いてやる気持ちで、洞窟の中に閉じこもってしまった彼女を助ける為だけに、昴は意を決して瞳に光を宿す。
「絶対に、消させるもんかよ」
そう言った。