ハーレム四人目②
決戦の土曜日がやってきた。
昴は十二時になる少し前に、国生家を出た。待ち合わせ場所はすぐ隣である潮家だ。国生家の三人は、家族水入らずで仲良く外出中だ。昴は預かっている合鍵で国生家の施錠をしてから、潮水知の住まいの前に立つ。
本日の天気も、やはり晴れ。
雲がわずかに浮かぶものの、底抜けにいい天気だった。そろそろ梅雨が間近に迫っているというのに、全く空気に湿り気は感じない心地良い気候だ。本来なら、絶好のお出かけ日和である。本来ならば。
昴の中にある不安は拭えない。どこに行くのかは不明だが、外に出るということは水知にとってどれくらいの負担になるのか、想像がつかなかった。それに翔子の気持ちを考えると、やはり憂鬱になってしまう。
もやもやとした気分を抱えたまま、それでも立ち尽くしてばかりもいられないのでインタフォンを押した。
ドアの向こうからダダダッと駆けてくる音が聞こえ、ドアはすぐに開けられた。
「こんにちは昴! 待ってたんだよ!」
目を輝かせてこれ以上ないくらい幸せそうな笑顔の水知が、顔を出した。おそらくインタフォンの音に耳をすませて待ち望んでいた様子だ。それぐらいに反応が早かった。
「あ、ああ」
昴は視線を逸らし気味にして、眼鏡をかけなおし、それでも水知の姿を視界の端に捉える。
制服姿だった。想像の範囲内だが、彼女はきっとこの服しか持っていないのではないだろうか、と考える。いつも通り、元気いっぱいの可愛らしい水知の姿が見られた。不安が少しだけ救われる思いに変わる。そして水知がリュックを背負っていることに気付き、嫌な予感に襲われた。
「こ、こんにちは佐藤君!」
水知の横からひょこっと顔を出したのは翔子だった。
翔子も制服姿だった。壊滅的にセンスがない私服のことを鑑みれば、彼女の制服姿が常であることも納得する。コショー様モードではなく、いつもの地味な副委員長モードになっている。案外に、嬉しそうに目を輝かせ、頬を紅潮させている。
そして。
「全員そろったわね」
ふん、と鼻を鳴らして言ってきたのは、美園の声だった。
昴は視線を水知、翔子の頭を越えた向こうへと移す。
「おやつはきちんと用意してきたんでしょうね」
美園がたんまりと豊満な胸を組んだ腕の上にのせて、仁王立ちしてこちらを見据えている。
「あれ……」
昴は思わず呟きを漏らしていた。
美園は縁の分厚い四角い眼鏡をかけ、本日もやはり目立つとは言いにくい少年のような地味な姿だったからだ。ウエーブした長い髪の毛をサイドで軽くまとめている。目立っているのは大きすぎる胸だけだった。
街に出てみんなに見てもらう、と言ったからには、かなり気合を入れたオシャレをしてくるのだろうという昴の予想は見事に外れた恰好だった。
グラビア雑誌などで服を着ている彼女を目にすることもあった。いつも女の子らしいワンピース姿で、天使の笑顔を振り撒いている写真ばかりだ。それを考えると、現実の美園は仏頂面で地味な服装ばかりなことに違和感がないでもない。美少女に変わりはないのだけれど。
外見に騙されるな、性格は最悪だ、と自分に言い聞かせる。
「何よ? 早く行くわよ」
じろり、と睨まれて昴は慌ててドアの前から身体をどけた。年頃の可憐な少女たちが三人、ぞろぞろと出てくる。
先導して歩き出した美園についていくかたちで、翔子、水知も歩き出す。
少し距離を置いて、昴も歩き出した。女の子三人と一緒に歩くなんて経験がなかった昴には、一体どういう位置に立ったらいいのか分からない。これぞまさにハーレム状態じゃないか、なんて今更に気付いてしまって唐突に緊張感が増した。
アパートを出て歩き出した女の子たちに遅れて、完全に不審者のようになっておどおどと猫背気味についていくことしかできない。
美園は憮然とした表情で、ひたすらに早足で先を急いでいる。翔子は一生懸命な小走りだ。水知は踊りだしそうにステップを踏みながら、美園や翔子に何やら話しかけていた。
水知の背中でわっさわっさとリュックが揺れている。昴は眼鏡の奥の目を眇め、そのリュックを見つめた。
何が入っているのか、考えるとゾッとした。振り払い、なんとか足を前に進める。
と、水知が振り返ってきた。ててて、と軽い足取りで昴の横に並んでくる。
「えっへっへ!」
水知の満開の笑顔を見て、昴も思わず顔が綻びそうになってしまった。
「……体調の方は、大丈夫なのか?」
「全然問題ないよ! 今だったら世界一周旅行だってできそうな気がする!」
「油断するでないぞ」
ボソ、とリュックから可愛らしい声が聞こえてきた。
昴はげんなりと力が抜けていく。その声が天使のように美しいものだったからでは決してない。耳を嬲る美声に、耐性はついてきた。
「やっぱりお前か」
昴が呟くと、リュックからひょこっと頭を出したのはカッパのぬいぐるみだった。
「水知が外に出るといって聞かないんじゃ。仕方なかろう。我は水知のことが心配で仕方がないんじゃ」
周囲に気付かれないようにか、ボソボソと小声の早口でイズミが告げてきた。
「お前がついてくる方が、懸念事項が増えるだけだ。帰れよカッパ」
「ハッ何を偉そうに! 想われてるからって調子に乗りおって! お主なんて孤独になれ! なってしまえ!」
捨てゼリフを吐いて、昴が何か言い返す前にイズミは素早くリュックの中に隠れてしまった。
水知が困ったように笑っている。
「孤独になったら困るのは、イズミちゃんなのにねぇ」
のほほんと言ってのけている。リュックがびくり、と蠢いた。動揺しているらしい。
「それにわたしも。昴がみんなにモテモテじゃないと、困っちゃうんだよ」
「……お前はいいのかよ、それで」
「ん? 何が?」
「なんでもない。行くぞ。大分離されてる」
気付けば歩道を歩く美園と翔子の背中が遠くなってしまっている。昴は早足になり、その背中を追った。
いちいち複雑な感情を抱えてしまい、でもそれをはっきりと口にすることができずにいた。そんな自分に苛立つ。
横を楽しそうに歩いている水知を見ても、ムッツリと難しい顔しかできない。
こんな風に、二人で外を歩くことを夢見てたはずなのに。
ちっとも笑えない。
感情だけが膨れ上がって、爆発してしまいそうになっていた。それを押さえつけるのに必死で、水知の笑顔を見る度、無茶苦茶にしてやりたいとすら思う。
「……最低だな、俺は」
そんなこと分かりきったことなのに、今更、呟きが漏れた。
***
一行はアパートから一番近い、最寄駅前までやってきていた。それは先日、翔子と一緒に歩いた場所でもある。
街で唯一の繁華街には、それなりに商店も建ち並んでいるし、規模は小さいがデパートもある。
美園が行き先に選んだのは、その小さなデパートだった。
「シケた街よね。こんな店しかないんだから」
当の本人は爪を噛みながら、忌々しげに吐き出している。ブツブツと悪態をついている美園の目的が未だ掴めずに、昴と翔子、水知はひたすらついていくしかない。
人通りがそれなりに増えてきた頃から、視線が集中していることには気付いていた。それはやはり、水知の水色の髪の毛が目立つことが大きいのだろう。それに加えて、人間離れした完璧な造形の美少女だ。実際人間ではないが。
美園は目立つ容姿を最大限におさえているし、翔子は最初から目立つタイプではない。すれ違う人々たちが必ず凝視してしまっているのは、やはり水知なのだ。水知自身はその視線に気付いている様子もなく、呑気に鼻歌スキップ状態だ。
デパートの二階にある、婦人服売り場でようやく美園が足を止めた。若い女の子たちが好むであろう、可愛らしい服が並んでいる。
そこで立ち止まった美園が振り返ってきた。
その視線が捉えているのは、翔子である。
びしり、と翔子に向かって指差しまでしてくる。
「さて、宮代先輩。覚悟は出来ているんでしょうね?」
「な、ななな、なんの覚悟でしょぅ、か……」
翔子は完全に気圧されてしまっている。見守る昴はハラハラせざるを得ない。いつでもこの対決の間に立って、翔子を連れて美園の魔の手から逃げ出す覚悟はあった。
「私のプライドを傷つけた責任を取ってもらう、って言ったでしょう?」
「あ、ぅ、そ、そんな……」
青ざめて、逃げ腰になっている翔子を見て、昴は今がその時だとばかりに足を一歩前に進めた。が。
シャツの端っこを、水知に掴まれていた。前に進みかけた足は、一歩だけで止まってしまう。
「何すんだよ水知」
背後に立つ水知を振り返ると、水知は平和な笑顔を浮かべている。
呑気すぎる少女は、全く今の緊迫した空気を察していないのか、昴は舌打ちする。
「アイツ、副委員長にヒドイことを言おうとしてるだろ。止めなきゃ――」
「美園ちゃんはヒドイ子なんかじゃないよ」
水知は、きっぱりと言った。その言葉だけは、凛、と響いて聞こえた。
「昴の大好きな美園ちゃんは、とってもいい子なんだよ。だから、昴も、美園ちゃんが好きになったんでしょう?」
「バカ言うな。俺が好きになったのは、アイツの外見だけだ。騙されてたんだよ、アイツは純粋な心で天使の笑顔を向けてくれる優しい女の子だって思ってた、から……」
昴の言葉は途中で止まってしまう。
視界に入ってきたのは、美園が翔子の手首を強引に掴みながら、店に入っていく姿だった。
真剣な眼差しで、仏頂面で、自分の外見なんて全く気にかけていない様子で、選んでいるのは――
「ワンピースも悪くないけど、宮代先輩はけっこう大人びた顔してるから、こんなのもいいと思うのよ。あ、だからって、夜会パーティ系セレブドレスは却下だけどね。高校生なんだから、年相応の可愛さは入れとかなきゃ。やっぱりスカートかなぁ。足長いからパンツも捨てがたいけど」
美園がアワアワしている翔子に、一生懸命に服をあわせている。次から次に服を持ってきては、ブツブツとやはり悪態っぽく吐き出している。
それでも美園のしている行為に、悪意は微塵も見られない。
真剣に、一生懸命に、不器用に、翔子を可愛くしてやろうとしているのだ。
「とってもいい子だよね、美園ちゃん」
水知が言ってきた。昴は横に並んだ水知へと目を移す。
してやったり、とにんまり笑みを見せる水知を見て、急激に頬が熱くなっていく。赤面してしまったことが恥ずかしくて、慌てて顔を逸らす。
完全に、勘違いをしていた。
美園は翔子を笑いものにする為に、お出かけに誘ったとばかり思っていたのに。
その間にも、何着も服を持ってきては美園が熱く語っている。
自分よりも、ずっと水知の方が人を見る目があるじゃないか、と気付いてしまい、そんな水知に愛しさが込み上げて、行き場のない感情にどうしていいかわからなくなって、ただ顔を俯かせた。
「ほら! 水知もこっち来てよ! どっちが可愛いと思う!?」
怒っているような声で、美園が水知を呼びつけてくる。水知が「はぁい行きまーす!」と元気よく返事して駆けていった。
「ついでに水知も私服買いなさいよ。選んであげるから」
「えーでもわたし、この服が好きなんだよ」
「好きでもなんでも、休日まで制服きてるバカ女子高生二人と一緒に歩くこっちの身になりなさいよ。なんか私だけ浮いてるみたいじゃないの!」
「ご、ごめんなさい。でも制服以外にはなかなか着る勇気がなくってですね……」
「美園ちゃんも制服着てくればよかったのに」
「黙れバカども。……水知にはコレなんか似合うと思うのよ」
……昴は一人、ぽつんと立ち尽くしていた。
完全に取り残されてしまっている。三人の女の子たちは楽しそうに服選びに夢中だ。
しかし嫌な気はしなかった。水知ではないけれど、みんな仲良く、なんて光景を目の当たりにして幸せを感じてしまったりもした。
ニヤニヤしてしまいそうになるのを必死で堪えていて。
――だから、気付かなかった。
近付いてくる人物が、目の前にくるまで、可愛い女の子三人に夢中になっていて。
「昴、こんなとこで会うなんて奇遇ね」
声をかけられ、昴の表情が瞬間で強張った。
声の聞こえた方からバッと思い切り身を引き、その人物を見遣る。
「久しぶり。……なんて、実の息子に言う言葉じゃない気もするけどね」
年齢を感じさせない美しい顔立ちの女性が、鋭い眼で昴を見ていた。
それは、昴の母親だった。母親であり、母親とは思いたくない人物だった。
昴は顔を歪め、唇を噛む。
「……なんの用だ」
いつもより更に低く、鋭く、昴ははねのけるように言う。
しかしいつでもそんな昴を見ていた母親に一切動じた様子はない。
「なんの用って、本当に偶然見かけたから声をかけただけよ。知らぬ間柄じゃないんだし」
「だったらさっさと行けよ。挨拶はすんだだろ」
言うと、母親が肩をすくめた。
「会えてちょうどよかったっていうのもあるのよ。話があったから。由梨絵に伝えてもらおうと思ってたんだけどね。私たち、そろそろ離婚が成立しそうなの。由梨絵からは何も聞いてない? あなたもいつまでも由梨絵の家にいるわけにはいかないでしょう? そろそろ決断してもらわないと」
「……」
拳が震えた。
今までの幸せだった気分が全てぶち壊された。
メチャクチャに暴れまわってやりたい感情に駆られ、それでも昴は泣きそうな顔で母親を見てしまっていた。
「私と一緒に住むにしても、父親と一緒に住むにしても。転校はしてもらうことになりそう。ま、どうせ今の学校に未練なんてないでしょう? 不登校なんだし」
「……」
「本当に、昴は私に何も言わないわね。まぁ私のこと母親だなんて思ってないだろうから、仕方ないんだけどね。決めたら由梨絵に伝えておいてくれればいいから。一週間が限度ってトコだから、よろしくね」
母親がつらつらと無感情に言葉を吐き出し、背中を向けた。
「さよなら」
なんのためらいもない足取りで、母親が去っていく。
昴は視線を下に遣ることしかできない。
何も、結局、何一つ言葉にも、行動にもできなくて。
視界の端には楽しそうな女の子たちの姿も見える。でも、先ほどのように幸せな気分でそれを見守る気分にはなれなかった。
「――ッ」
激情に駆られ、持っていた紙袋をデパートの床に叩きつけた。
中からたんせい込めて作ったアップルパイが、飛び出してしまう。床に残骸が飛び散る。思い切りたたきつけたことによって、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。
それは、今の自分みたいに見えた。
「昴?」
水知が声をかけてきた。
昴は、水知の声から逃げるように、その場から走り去っていった。