ハーレム三人目①
昴の目の前には今、現実離れしている程のオーラを放つ美少女がいる。彼女自身が光輝いているようだ。
アパートの駐車場には外灯が申し訳程度に、周囲を鈍く照らしている。視界が悪い中でも、鳥居美園の姿は鮮明に見えた。
緩くウエーブさせている髪を盛り上がった胸の上まで垂らし、変装のつもりなのか帽子を目深に被っている。その帽子の下からのぞき込むようにして、黒目のくっきりとした大きな瞳が昴を観察している。
服装はチェックのシャツにショートパンツと、カジュアルだ。しかし素晴らしい体型は隠しきれていない。ほぼ水着姿の美園しか見たことがなかったので、想像していなかった可愛らしい私服姿。昴は眼鏡がずり下がっていることにも気付かず、しばし見惚れていた。
「君、このアパートの住人よね? 夜になるとよく、このアパートから出てくるし……」
ようやく平静を取り戻したのか、美園が近付きながら話しかけてくる。
昴はいまだ、これが現実とは思えなかった。自分の大好きだったアイドルが目の前にいる。写真でしか知らなかった彼女が、実際に動き、声を出している。
「……よく?」
それでも何度も美園の言葉を頭の中で反芻させ、美園の言葉に引っかかりを感じた。
「よくって……なんでそんなこと知ってるんだ?」
美園が自分の失言に気付いたのか、慌てた様子で口を覆う。
「よくなんて言ってないわよ!? 空耳じゃないの!?」
「あ、その、アンタって鳥居美園、だよな……?」
昴は挙動不審になりながら、なんとか言葉を絞り出す。心臓が高鳴りすぎて、夢見心地で足が地面についている感覚すらない。
美園がこくり、と頷いた。
美園が自分と同じ学校だという情報は、翔子から聞いて知っていた。しかし同じ学校と言えど、まさか自分の住居前で美園に会うという事態は予測していなかった。
ふ、と水知の言葉が脳裏を過ぎった。
『鳥居美園ちゃんをハーレムに入れる!』
水知がなんらかの不思議な力でも使って、美園をここに呼び寄せたのだろうか。昴は考えて、すぐに首を振った。水知は不思議な力を持っていないと言っていた。だとしたらこれは完全なる、偶然の奇跡なのだろうか。
「ありがとう神様……!」
舞い上がったまま、昴は小さく呟く。不審げな眼を美園から向けられているが、その眼差しすら眩しい。
神様と呟いて頭の中に浮き上がってきたカッパを消去した。
「ね、君。このアパートに潮水知って住んでるの、知ってる?」
「は?」
「潮水知。同じ学校なの。って言っても、入学式の日に一回来ただけの子なんだけど。ここに住んでるって調べ……じゃなくて、人に聞いて」
昴は固まったまま、美園の言葉を聞く。
まさか美園から水知の名前を聞くとは思わなかった。やはり美園がここに現れたのは、水知に関係しているということだろうか。
「水知は俺の隣に住んでるけど」
言うと、美園が一歩、いや、二歩、三歩、ずんずんと大股で歩み寄ってきた。
触れられそうなほど至近距離まで迫ってきた美園が、見上げてくる。
「本当に!? もしかして、君、潮水知と親しかったりする!? 家に上がったりしたことある!?」
魅力全開の美園が近すぎて、昴は思考がショートした。爆発した。心配停止状態だった。
棒立ちになったまま、がくがくと何度も頷くことしかできない。
「お願いがあるの。あたしを潮水知の家に連れていってくれない!?」
やはりがくがく頷くしかない昴。
「ありがとう!」
昴の両手を取って、弾けるように、美園が笑顔になった。
昴も弾けた。自分が人間として機能していることが申し訳なくなるくらい、完璧なエンジェルスマイルを間近で見てしまった。すぐに美園は昴の手を解放してきたが、手の平が燃え上がるように熱かった。
「ところで君、携帯電話落としたままだけど、いいの?」
蕩けた思考のまま、美園の言葉に従って地面に落ちた携帯電話を見遣る。機械のようにぎこちなく拾い上げた。
携帯電話はまだ通話中のままだった。昴は何も考えられないまま、携帯電話を耳にあてる。
『佐藤君聞こえてますか!? 何があったんですか!?』
こちらの状況を把握していない翔子の、切羽詰った声が耳に届いた。
「何も問題ない」
昴は応える。
『そ、そうですか。よかったです。何も問題ないならいいんですけど……』
「愛してるぜ副委員長」
昴は囁く。
『――はぃ?』
「また後で電話するから。じゃあな」
言って、すぐに電話を切った。漏れ出しそうな笑みを必死で堪え、既に歩き出していた美園の背中を追う。こんなに至福のひとときを過ごすのは、久しくない。
世界中の人たちに、愛を振りまきたい気分だった。
***
コンビニのバイトも完全に忘却の彼方へと追いやられ、昴と美園は潮家に向かっていた。
暗がりの中で恐ろしい貼り紙が潮家のドアに貼られているのが見えて、昴は早足で駆け寄っていく。
躊躇なくその紙を剥がし、その場でビリビリと破り捨てた。
「何してるの?」
「気にするな。処理を忘れていたんだ」
時刻は九時過ぎ。静まり返った小さなアパートに、美園という存在はどこまでも異質な空気を放っている。CGで合成した映像のようだ。
さすがにまだ寝ている時間帯ではないだろう、と昴は遠慮なくインタフォンを押した。
期待の眼差しでスバルを見つめる美少女にいいところを見せる為だ。いつもより積極的な昴は、インタフォンの反応がなかったので、ドアを数回叩いてみる。
「留守か?」
待ってみても誰も出てこない。
そこまでして、ようやく冷静な思考回路が戻ってきた。
ハッと空を仰ぐ。無数の星が散りばめられた、澄み渡った夜空がひろがっていた。
――水知が、動けるはずがないのだ。雨が降っていない。
そして同居しているイズミは、出るわけにはいかない容姿だ。
「今日はいないみたいだ。また今度の機会に……」
昴が美園を振り返り、気まずそうに言いかけた時だった。
ガチャリ、とドアが開いた。
まさかの音に驚いて、昴はすぐ様そちらに顔を向ける。
顔をのぞかせた水知と目が合ってしまった。
水知は相変わらず全身が濡れそぼった状態で、ぶかぶかとしたパジャマ姿になっていた。
「ごめんねシャワー浴びてたから出るの遅くなっちゃったよ。どうしたの昴?」
先ほどの別れ際の気まずさが蘇り、昴は咄嗟に視線を逸らす。
水知の方は、いつも通りの柔らかい微笑みを昴に向けてきていたのが視界の端に映る。途端に後悔した。美園という存在に浮かれて、自分から踏み込んでしまった。
「あたしが頼んだの。どうも、潮水知さん」
美園が昴の前にずいっと出てきた。挑むような瞳で水知を見ている。
「……えーと」
水知は首を傾げている。
「誰でしたっけ?」
笑顔のままで言ってきた水知に、美園ががくりと項垂れた。
「鳥居美園! あなたと同じ学校で、同じクラスの! 知らないとは言わせないわよ!? これでも有名人なんですからね!」
胸を張って宣言する美園。水知はしばらく新生物を見つけた学者のようにまじまじと興味深げに見入り続け……
「ああああぁぁあ!! 鳥居美園ちゃん!!」
大声を上げた。アパート中に、大声が響き渡る。
「ちょ、ちょっと! 声が大きい! とにかく中に入れなさいよ!」
「うんうん! どうぞどうぞ!」
想像以上に元気な様子の水知が、昴と美園の二人を中へと招きいれてくれた。
雨が降ってなくても全然大丈夫なんじゃないか、と昴は内心で安堵の息をつき、部屋へと上がっていく。すぐに和室へと目を遣ったが、カッパのぬいぐるみの姿は当然ない。相変わらずの、生活感のないがらんとした居住空間だった。
美園が住居内を物珍しそうに観察している間に、昴は水知にさりげなく近付いていく。
「カッパは押入れか?」
背後から小さく問いかけた。
水知が昴の方を振り仰いできたので、昴はそちらに目を向けないようにして、眼鏡のフレームを指先でいじる。
「イズミちゃんは押入れでチャット中だよ」
「カッパのくせにチャットしてんのか」
「カッパのくせにチャットしてるんだよ」
昴は呆れて肩をすくめるしかない。先ほどのイズミの話しっぷりでは深刻な事態だと言っていたのに、呑気なものだ。
水知の様子も元気溌剌としているし、大袈裟に考えるほどのことでもないんだろう、と昴は考える。
乾いていく少女は、変わらずに水色髪を揺らしているし、つやつやとした肌も、ふっくらした頬も健全だ。
「ね、ね! 美園ちゃん!」
水知が元気よく美園へと駆け寄っていく。
美園が水知を見つめている。美園の方がわずかに背が高い。その場だけ見れば、二人の美少女がいる空間は昴にとって素晴らしい目の保養だった。普段は常時鋭い眼なのだが、垂れ下がっていきそうだった。
「昴のハーレムに入ろうよ!」
昴の緩かった眼差しが、ぐわっと殺意を帯びた。
「昴のハーレム?」
美園が眼をきょとんとさせている。驚いた表情はあどけなく、大人びた容姿が幼くなる。
「そうそうハーレム! 昴のハーレム!」
最悪なことに、全く悪意ない様子で水知が昴を指差して言ってくる。
「君……昴って言うの。ハーレムなんて作ってるの?」
美園が昴の方へと視線を移して、聞いて来た。その眼は厳しいものとなっている。当然だろう。ハーレムを作ってる男なんて、女の子から見たら最低野郎にしか映らないものだ。
心臓がヒヤリとして、美園の厳しい眼差しの前に何も言えなくなった。
「そうだよ! わたしは昴のハーレムを作る為に日々頑張っているのです!」
美園と並ぶと、水知のささやかな胸が更にささやかに見える。その胸を張って、自慢げに語る水知。
昴は更なる殺意に、ふるふると拳を奮わせた。しかし美園を前にするといつもの毒舌もなりをひそめてしまう。結局棒立ちのままで、眼鏡の奥から呪いの眼差しで水知を刺すしかない。
「昴は美園ちゃんのことが大好きなんだよー。だからハーレムに入って、みんなで仲良くしよう?」
水知は全く昴の殺人ビームに気付いていない。
空気を読まずに、へらへらと笑みを浮かべ、戯れ言を繰り出している。
「嫌に決まってる」
あっさりと美園に一蹴されていた。
「ハーレム? 冗談じゃないわよ。そんなものにみんなのアイドルのあたしが入るとでも? 大勢の中の一人になるなんて死んだ方がマシ」
写真の中の美園は、いつでも清純そのものの天使の笑顔だったが、今目の前にいる美園は蔑むように昴を見据えていた。高慢な雰囲気を放ち、プライドの塊のような宣言。どうやら美園という少女は、キツイ性格の持ち主らしいと知る。
しかし美園の本性を知って、尚、昴は美園の可愛さにノックアウト状態だった。
高慢ちきな彼女も可愛い、と腐った思考で考えていた。
「水知、あなたは、昴のことが好きなわけ?」
呆れ顔の美園が、ずばりと遠慮なく水知へと問いかけている。
水知の笑みが、すっと顔から消えた。
「……ううん」
俯き、弱弱しく首を振っている。先ほどまでの元気が、完全になくなってしまった。
「どう見ても、好きなようにしか見えないけど?」
「……好きじゃないもん」
水知が眉を下げて、呟いた。
昴はその言葉に、胸がちくり、と痛んだ。自分で望んだことなのに、実際そんな風に言われると、もやもやとしてしまう。
「好きじゃないよ。昴のことなんか、ミジンコほども、ちっとも、好きじゃ、ないんだよ……?」
言った直後――水知の瞳から、涙がこぼれ落ち、頬を伝っていった。
せきをきったように、ぼろぼろと、大粒の涙が落ちていく。自分が泣いていることに気付いている様子もなく、一生懸命に首を振り続けている。
「好きじゃない。好きじゃないもん……」
昴は言葉を失う。締め付けられるような苦しさに再び襲われて、その場から逃げ出したくなる。
「……あたし、帰るわ」
先に動いたのは美園だった。
早足で玄関へと歩いて行き、一度も振り返らずにドアの向こうへと消えてしまった。素早い退出に、昴は唖然と見守ることしかできなかった。
水知は泣き続けている。しゃくりあげて、肩が何度も上下している。
堪えようとしているのか、唇を噛んでいるけれど、涙は全く止まらない。
タイミングを逃した昴は、困ったように立ち尽くす。
「鳥居美園は、ここに何しに来たんだろうな」
ぽつりと呟いてみるものの、泣きやむ様子のない水知の方が気になって、そんなことはどうでもよくなってくる。
「泣きすぎると、全部水分抜けちゃうんじゃないのか……?」
「昴のことなんか、好きじゃないんだよ」
「分かったよ……」
痛いほどに伝わってくる気持ちに、昴は応えてやることはできない。
それでもなんとか勇気を振り絞り、指先を伸ばす。
水知の頭を、そっと撫でてやった。