プロローグ
佐藤昴はいつものように、爽快に夜風を切っていた。
春先の柔らかくなった空気に全身が包まれて、心地良い。顔はいつも変わらずに憮然としているが。
スピード違反にならない程度に原付をかっとばし、無駄にだだっ広いコンビニエンスストアの駐車場へと突入。
田舎のさびれたコンビニには、夕食時だというのに哀しくなるくらい車の一台も見当たらない。
だから、駐車場に落ちているゴミにすぐに気付くことができた。
大きな紙くずのように見えるゴミを横目に原付を走らせながら、昴は舌打ちをする。
「ここはゴミ捨て場じゃねえ」
ぼそぼそと口先で呟いて、駐車場の片隅、定位置に原付を停めた。ヘルメットを外して座席に置いてから、ゴミを振り返る。硬質な眼鏡がきらめく。
この世の終わりが来ても変わらないような、しっかりと刻まれた眉間の皺。誰かが面と向かい合えば恐れをなして逃げ出してしまいそうな険しい表情のまま、駐車場の中心に向かって歩いて行く。
コンビニ以外、周囲には見渡す限り何もない。一応名ばかりの国道が走っているので、コンビニの一件でも建設したのだろうか。車道にはそれなりに車は走っているけれど、高速で通り過ぎていく車ばかりだ。周囲には青々とした田畑が地平線の向こうまであるんじゃないだろうか、なんて感じさせてくれる横長の風景。
こんな田舎町で集客なんて望めやしない。来るのは駄菓子を買いに来る子供たちと、深夜に集う素行のよろしくない奴らばかりだった。
正直な気持ち、コンビニのバイトを選んだのは可愛い女の子とランデブーを夢見てのことだった。鉄仮面のようにいつも厳しい表情でも、歯に衣着せない物言いにも天使のような笑顔で返してくれる女の子と出会うチャンスがあるんじゃないか、なんて。
佐藤昴は、顔には全く出ないが、この上なく女の子が大好きであった。
普通の高校生らしく女の子と青春ができれば、なんてささやかな夢を持っていた。
……しかし夢ははかなく、夢で終わる。
来る客も同僚もおっさんおばちゃん、ガキどもばかりの悲しい職場。しかも客が来ること自体が奇跡。潰れるのは時間の問題に思えた。昴にとっては夢破れた場所であっても、現役高校生で無愛想すぎる自分を使ってくれている分には感謝している。自分が働いている間ぐらいは存続していてくれ、と適当な祈りを信じてもいない神様にでも捧げておく。
駐車場の清掃もバイトの仕事のうちだ。時間外だが、どうせ後で片付けに行かなければいかない。ここのコンビニの店長は、暇なくせにバイトに対して口うるさく仕事を言いつけてくるのだ。それなら、先に拾っておこうという考えだった。
昴は眉間に深く皺を刻ませたまま、大きい紙切れのようなゴミへと近付いて行く。頼りになるのは背後にあるコンビニの照明と、滲んだ月明かりだけ。駐車場は暗く、静寂に満ちている。
生ぬるい風が頬を撫で、少し長めの柔らかな髪も揺らす。強い風が吹けばゴミは簡単に吹き飛ばされてしまいそうだったので、早足で近付いていった。
「なんじゃこら。ミイラ?」
昴はその異物を見下ろした。凝視しながら、自然に呟いていた。
自分で言っておきながらミイラという薄ら寒い響きに背筋を凍らせる。
見れば見るほど、人間のような造形に見えた。しかし見事なまでに、スカスカに干からびている。とても生きているようには見えない、異物。
気味が悪い。さっさと捨ててしまおう。
触りたくない気持ちが先走り、ゴミへと恐る恐るといった風に指を伸ばしていく。
「水がほしい」
喋った。ミイラが喋った。
空耳だろうか。昴は震える指先を引っ込めて眼鏡の縁を触って、ゴミを改めて見直す。頬がわずかに引き攣っていたが、傍目には表情は変わっていない。昴がすぐ様その場から逃げ出せなかったのは、あまりの出来事に固まっていたからだ。
「今すぐ二リットルのミネラルウォーターをそこのコンビニで買ってきてくれないかな?」
「……生きてる、のか?」
「もちろん生きてるよ!」
ミイラの口元らしき場所がカスカスとうごめく。
「いや、死んでるな。干からびてるもんお前」
昴は青ざめながら、ようやく足を後ろにずり下げることができた。
冷静を保っているような鉄化面のままだが、頭の中はパニックだった。
「ちょっと待って待ってぇ! 行かないで! このままじゃ死んじゃう! 本当に死んじゃうんだから! 死んだら気分悪いでしょう!? 今日の夜寝る時にあのミイラ俺が助けなかったから死んだんだなって枕を濡らすことになるよ!?」
ミイラは焦っていたが、表情は全く変わらなかった。というか、顔がどうなっているのかなんて分かりやしない。身動き一つできない様子だった。
しかし何故ミイラが喋っているんだろうか。しかも流暢に。昴は頭を振って、現実を振り払う。
「夢だと思いたいから泣かないな。白昼夢見るなんて疲れてるんだなって思って、きっと今日の夜は熟睡する」
「……呪うから」
穏やかじゃない言葉を、ミイラがわざとらしく低い声をつくって、おどろおどろしく囁いてきた。
「夢まくらに立ってやる。金縛りにあわせてやる。ほうら、目を開いたらこのミイラが至近距離でのぞきこむ状況を想像してみてごらん」
ゾッとした。
「ふざけるな。夢まくらに立ったらもう一回殺すからな。そのふざけた口が二度と開けなくなるように、えげつない拷問行為の後にな」
昴はこの上なく冷たい目線で見下ろして、吐き捨てた。
素早く踵を返し、容赦ない足取りでスタスタとコンビニに向かう。
「嘘ですごめんなさいぃぃぃ……待ってぇぇぇぇ……」
ミイラの声が遠くなっていく。
腕時計を確認すると八時五十五分。今日は九時からシフトが入れてあるので、そろそろタイムカードを切らねばならない。
自動ドアが音をたてて開く。先にバイトに入っている大学生のさえない男が、顔を上げた。
昴の顔を見ても軽く会釈をしてくるだけ。昴も声をかけずに会釈で返して入っていく。接客業にあるまじき精魂のなさだが、大学生も昴も魂が抜けているような人種だった。口うるさい店長がいなければ、客に「いらっしゃいませ」の挨拶をかけることすらしない。
制服に着替えてさっさとタイムカードを切らねば。
……しかし。
バックヤードに向かう前に、足が止まる。
気付けばドリンクコーナーに立って、ミネラルウォーターを手に取っていた。
レジに走っていき、二リットルのミネラルウォーターをどん、と置く。大学生が少しだけ目を丸くしながら事務的にレジをうつ。
重いペットボトルを片手に持ち、店を出た。
先ほどのミイラの元へと舞い戻り、声をかけることなくおもむろにペットボトルのキャップを外してドボドボと中身をミイラに注いでいく。
「満足か? あ?」
中身の水を全て注ぎきった後、眼鏡の奥から刺すように鋭い眼を向けながら、昴は吐き捨てる。
ミイラは無反応だった。
……死んだのか? それとも、やっぱりさっきのは夢だったのか?
ミイラを見下ろしながら、昴は立ち尽くすしかない。生ぬるい空気と夜闇に落ちた場が気分を悪くさせて、眼つきの悪さが更に増した。
「阿呆らしい」
息をつき、その場から去ろうと顔を横に向けた。
「助かったぁ、本当は優しいんだね、キミ」
先ほどのミイラの声が聞こえて、昴は目線をそちらに戻す。
「!?」
電撃が走った。
今度こそ、後ずさった。
ミイラがいた場所には、ブレザー制服姿の女の子が、膝を地面にぺたりとつけて座り込んでいた。
上から下までびしょ濡れの、華奢な女の子だった。この世には汚い感情なんて存在しないんだよ、なんて感じさせる底抜けにきれいな笑顔で昴を見上げている。
長い水色の髪の毛には水が滴り、座り込んでいる地面にまで伸びている。
コンビニからの照明の反射で、キラキラ光る水滴に包まれている、絶世の美少女がそこにいた。小動物のような、吸い込まれそうに深く大きな瞳。かたちのよい唇。触ったら指先がどこまでも沈んでいきそうな、柔らかそうな頬。整った顔立ちを最大限に愛らしく見せている、あどけない表情。何もかもが、昴好みの小動物系美少女だった。年頃も同じくらいに見える。
外見だけなら、完璧な一目惚れだった。
動揺しながらも目線を女の子から外すことができない。ずっと見つめてしまう。
愛らしすぎて見ているだけで鼓動が高鳴っていた。
「本当に死ぬ寸前だったんだ。というわけでキミは命の恩人だね! どうもありがとう!」
女の子が立ち上がって、昴に一歩近付いてきた。
昴は一歩さがった。
「やっぱり、さっきのミイラがお前なのか……?」
確認すると、女の子はあっさりと頷いた。そしてまた、全ての壁を取っ払うような満面の笑みを見せてくる。
「ミイラっていうか、まぁ水の神様みたいなもの! 君は神様を助けた素晴らしい人だよ!」
「神様だろうとミイラだろうとつまりは人外ってことか」
女の子が頷く。
昴は表情を変えないまま、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
恋破れた瞬間だった。
胸中は、表情や態度に出ないだけで相当なショックであった。
昴の胸中なんて知る由もないのか、女の子は頬を朱色に染めて、輝く瞳を向けてきた。
「ありがとう! 本当にありがとう! お嫁さんにしてください!」
「……最後に変な言葉がくっついてたぞ」
「お嫁さんにしてください!」
「言い直さなくても理解はできてる」
可愛い女の子が笑顔で求婚してきているという現実に、昴は思わず頬が緩みそうになる。
この恐い顔と口の悪さの所為で女の子に避けられ逃げられ十七年間。告白なんて、初めての経験だった。しかし必死に堪えた。口元をおさえ、冷静になれと自分に強くいい聞かせる。
「嫌だ。断る。人外は専門外なんだ。じゃあな」
「あっ」
簡単に言って、背を向けた。
時計を見るともうバイトの時間がはじまっている。ミイラ事件は解決した。さっさとバイトに入らないと店長にぐちぐちと言われてしまう。
今の出来事は、全て忘れてしまおう。存在ごと忘れてしまった方がいい。
しかし、可愛かったなぁ。
昴はコンビニに戻る前に、名残惜しさから一度女の子を振り返ってしまった。
女の子は瞳をうるうると潤ませて、昴を見ていた。
物欲しそうな顔で、じぃっと、見ていた。
ぐっと胸に突き刺さる。なんでも言うことを聞いてやりたくなる魅惑の小動物的表情だ。
「……そんなに、俺の嫁になりたいのかよ?」
「うん、うん……っ」
頷き方まで徹底して愛らしい。
なんだろう。刷り込みのようなものだろうか。不思議少女は完全に昴に懐いてしまっている。溜め息が出た。気分は悪くないというか、胸が熱くなる。しかしもったいないことに、昴はどうしても女の子の気持ちに応えることはできなかった。
内心を顔に出さないように無表情を保ち、女の子へと近付いて行く。
そして、口を開いた。
「俺の嫁になりたかったら、俺の為にハーレム作れ。お前が本当に神様だったら可能だろ」
「は、はーれむ?」
「俺の夢は女の子に囲まれたハーレム生活だ。その中の一人でいいんだったら、お前のこと嫁にしてやってもいい」
昴は傲岸不遜に宣言し、女の子を見下ろした。
――ここまで言えば、さすがに諦めるだろ。
しばらく女の子は視線を下にしていた。
少しの沈黙の後、無邪気な瞳が、見上げてくる。
「わかったよ。ハーレム作る。嫁の一人で妥協してあげるよ。この鬼畜少年め!」
泣く寸前まで瞳を潤ませて、言ってきた。