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怠惰スキルの追放令嬢、健康ランドを作ります。

作者: くみの
掲載日:2026/10/11

 教会の石の床は、足の裏からじわじわと体温を奪っていく。そんなことを考えていたのは、たぶん現実逃避だった。


「スキル判定の結果を告げます」


 司祭様が水晶板を見つめたまま、顔をこわばらせている。……あれ。なんか、嫌な予感しかしないんだけど。


「ミレイユ・アルトナー嬢のスキルは……【怠惰】」


 礼拝堂が、しんと静まった。次の瞬間、ざわっと空気が割れた。


「七つの大罪……」


「あの暗殺者どもが使っていた……」


「よりによって伯爵家のご令嬢が」


 ひそひそ声が、全部聞こえている。たぶん、聞こえるように言っている。


 ……怠惰。


 怠惰って、あの怠惰?


 私は水晶板の隣で、ぽかんと立ち尽くした。強いとか弱いとか以前に、誰もが顔をしかめるやつを引いてしまったらしい。


 三日後。応接間。向かいに座った婚約者のエドガー様は、紅茶に口もつけず、紙を一枚、机に置いた。


「ミレイユ嬢。非常に残念だが、この婚約は白紙に戻させていただきたい」


「……はい?」


「【怠惰】は、かつて兵士や護衛の気力を奪うために使われたスキルだ。我が家としては、その、危険を抱え込むわけにはいかなくてね」


 声は丁寧。顔は、もう終わった話をしている顔だった。


「ご理解いただけて助かります」


 まだ何も言ってないんだけど。


 いや、わかる。政略結婚だ。愛とかない。私も彼も、家同士の紙切れに名前を書いただけだ。


 でもさ。


 三年、婚約してたよね? 月に一度はお茶もしたよね? 私が焼いたクッキー、全部食べたよね?


 もうちょっとこう、惜しむとか、ないの?


「では、そういうことで」


 エドガー様は、見事な速さで席を立った。


 ……軽い。


 私の三年は、紅茶が冷める間もなく片付けられた。


 その夜、父の書斎に呼ばれた。


「ミレイユ。お前に、領地を一つ譲る」


 机に広げられた地図の端っこ。王国の北の北、山の影に、ぽつんと点がある。


「……これ、飛び地ですよね」


「ああ、ベルガ領だ。寒冷で岩が多く、作物は育たん。だが、誰にも干渉されん。支度金も十分に用意した。ロッテをはじめ、側仕えも三人つける」


 母が、そっと私の手を握った。


「あなたが一人でも困らないように、というお父様のお考えなのよ」


 わかっている。頭では、わかっているのだ。でも、頭の隅にいるもう一人の私が言う。


 ――要するに、遠くへやるってことでしょ?


「……承知いたしました」


 笑顔で頭を下げた。我ながら完璧な貴族の笑顔だった。部屋を出てから、廊下の壁を軽く蹴った。


 放逐だ。これは放逐だ。優しい言い方をしてあるだけの、放逐だ。


* * *


 馬車で七日。窓の外は、どんどん色を失っていった。緑がなくなり、茶色になり、灰色になり、最後は岩と雪。


「お嬢様、寒くはございませんか」


「寒い。すごく寒い」


 側仕えのロッテが、毛布をもう一枚かけてくれる。赤毛にそばかすの十八歳。私が七歳の頃からそばにいる子で、今回「ついていきます」と真っ先に手を挙げてくれたのも彼女だった。ありがたい。ありがたいけど、馬車の外が地獄みたいなので、感謝より寒さが勝つ。


 ベルガ領に着いたのは、昼過ぎだった。


「…………」


 馬車を降りて、言葉を失った。岩。岩。岩。ところどころに雪。痩せた草が少し。石積みの家が十数軒。煙突から細い煙が上がっているのが、唯一の生活感だ。


 そして、その背後。


 どん、と巨大な山がそびえていた。頂上から、白い煙がゆるゆると立ち上っている。火山だ。


 遠巻きに、村の人たちがこちらを見ている。


「あれが新しい領主様か」


「あの、大罪の……」


 噂は、私より先に着いていたらしい。


 私は火山を睨んだ。冷たい風が吹きつける。頬が痛い。指先の感覚がない。


 なんで。なんで私が、こんなところで。


「……なにが」


「お嬢様?」


「なにが、怠惰よ!」


 声が岩肌に跳ね返って、遠くまで響いた。村人がびくっとする。ロッテも肩を跳ねさせた。


 止まらなかった。


「怠惰なら! 私が怠惰に過ごしたいわよ! ごろごろして! おいしいもの食べて! 昼間っからお風呂に入って! そのどこが悪いのよ!」


 白い息が荒い。肩で息をしながら、


 ……お風呂。


 自分で叫んだ単語が、頭の中で引っかかった。お風呂。ごろごろ。おいしいもの。昼間から。


 ……あ。


 その瞬間、頭の奥で、何かの蓋が外れた。湯気。畳の休憩所。ぬるくなったコーヒー牛乳。ゆで卵。湯上がりに着る、ゆるゆるの館内着。リクライニングチェアで見た、昼のワイドショー。


 私、日本人だった。前世の休日は、だいたい健康ランドで溶けていた。


「……健康ランド」


「は?」


「そうよ、健康ランドよ!」


 私は、ロッテの両肩をがしっとつかんだ。


「温泉があって、ごはんがあって、寝っ転がれる場所があるの! 一日中いられるの! あれを、作ればいいんだわ!」


「お、お嬢様、お気を確かに」


「確かよ。人生で今がいちばん確かよ」


 そこへ、腰の曲がったおじいさんが、おずおずと近づいてきた。


「あの、領主様。お迎えが遅れまして……村長のマティアスと申します」


「マティアスさん。このへんに、温泉、湧いてません?」


「へ? あ、ああ。山の中腹の窪みに湯だまりがありますが……臭いし、熱いし、近づくと目に染みるので、誰も使っとりません」


「案内してください」


「い、今からですか」


「今すぐ」


 窪地は、湯気で白くかすんでいた。岩の隙間から、乳白色のお湯がこぽこぽと湧いている。硫黄の匂いが鼻をつく。


 指先を入れてみる。熱い。けど、耐えられない熱さじゃない。


「……とろっとしてる」


「へ?」


「これ、すごくいいお湯よ!」


 マティアスさんは、私の顔と湯だまりを交互に見て、ものすごく不安そうな顔をした。大罪スキルの令嬢は、頭までおかしいと思われたかもしれない。いいけど。


 その日から、私は動いた。


 岩を積んで湯だまりを囲う。湯口の位置を調整して、熱いお湯と冷たい沢の水を混ぜ、ちょうどいい湯加減にする。支度金で買った木材で、簡単な脱衣小屋も建てた。人手は、ロッテと、日当を出して雇った村の若い衆が二人。


「お嬢様、お顔が楽しそうです」


「楽しいわよ。だって、自分が入りたいお風呂を作ってるんだもの」


 四日後。出来上がったのは、六人も入ればいっぱいの、小さな岩風呂だった。


「完成!」


「お嬢様、先にどうぞ」


「あなたも入るのよ。ロッテ、一緒に」


 雪のちらつく中、湯に肩まで沈む。


「……っ、はあ――――……」


 声が出た。令嬢としてどうかというレベルの声だった。じわじわと、指先から感覚が戻ってくる。冷え切った体の芯が、ほどけていく。湯気の向こうには、悠々とそびえる火山。


「……お嬢様」


「なに」


「私、もう戻れません」


「でしょう」


 ロッテの顔が、ふにゃふにゃにとろけていた。よし、同志が一人増えた。


* * *


 お風呂ができると、次に欲しくなるのはごはんだ。人間は欲が深い。


 湯上がりに、何かあったかいものが食べたい。でも、薪が貴重なこの土地で、わざわざ火を起こして調理するのは面倒だし、もったいない。


 そんなことを考えながら湯だまりの周りを歩いていたら、岩の割れ目から、しゅうしゅうと白い蒸気が噴き出している場所を見つけた。少し離れたところには、別の湯だまりもあった。


 離れたところから手をかざす。それでも熱い。


「……これ、使えるじゃない」


 前世の記憶が、ぴこんと閃いた。温泉卵。地獄蒸し。


 私は村の鍛冶屋さんに、鉄の網かごを作ってもらった。卵を入れ、紐を結んで、湯だまりにそっと沈める。


 ロッテが買ってきたじゃがいもとにんじん、それから少しの干し肉も別の網かごに入れて、蒸気口のそばへ置いた。


「あとは待つだけ」


「火は焚かないんですか」


「焚かない。熱はもう出てるから」


 待つ間、私は厚手の敷物を広げて寝そべった。温かい岩の近くは風が当たらなくて、天国だった。


「そろそろかしら」


 紐をたぐり寄せ、網かごを引き上げる。まだ熱い卵を、そっと割る。とろり、と半熟の黄身が流れた。塩をひとつまみ。口に入れた瞬間、目をつむった。


「……おいしい……」


「お、お嬢様、私にも」


「はい、あーん」


 ロッテの目が、卵一個で潤んだ。


 そのとき、視線を感じた。岩陰から、マティアスさんと、村の主婦のマルタさんと、子どもたちが、じーっとこっちを見ている。


 いつから。


「…………食べます?」


 全員が、ものすごい速さでうなずいた。


 蒸気口の網かごを下ろすと、ほくほくと湯気が上がった。じゃがいもが割れて、中が黄色く光っている。


 マティアスさんは、蒸したじゃがいもを一口かじって、動かなくなった。


「……薪を、一本も使っとらんのですか」


「ええ、蒸気だけ」


「今年の冬は薪が足りんで、ばあさんが毎晩震えとるんです。買う金もなくて……」


「あ、そうなの……」


 私は少し考えた。蒸気は、私が使っていない時間でも、勝手に噴き出している。もったいない。


「じゃあ、使ってください」


「へ?」


「私が使ってない時間なら、いつでも。卵でも、芋でも。網かごも貸します。ただ、やけどには気をつけて。危ないところには柵を作りますね」


「…………」


 マティアスさんが固まった。マルタさんが、口に手を当てた。


 え、なに。そんなに変なこと言った?


 だって、余ってるんだもの。熱が。もったいないじゃない。


「領主様……それは、本当に、よろしいので」


「いいわよ、余ってるし。あ、柵は私が安心して寝たいからなので、お気になさらず」


 翌日から、蒸気穴の前には、村人の行列ができた。


 そして、ここで予想外のことが起こった。湯上がりの人たちが、みんなとろんとしてくるのだ。


「……なんか、動く気がせんのう」


「ああ、ええ気持ちじゃ……」


 ござの上で、マティアスさんが大の字になっていた。


 私は、ぎくりとした。


 ……まさか。私のスキル?


 【怠惰】。他人のやる気を下げる、アレ。試しに、意識して切ってみた。使い方は感覚でわかる。スイッチを落とすような感じ。しばらく様子を見る。


 ……マティアスさん、普通に寝ている。マルタさんも子どもたちも、満腹と湯疲れで、うとうとしている。


 次に、軽く入れてみた。


「……あ」


 ふわっと、みんなの肩の力が少しだけ抜けた。寝息が、ほんのわずかに深くなった。でも、それだけだった。


「…………効果、しょぼいわね」


 世間様が恐れていたスキルの正体は、「ちょっとだけ気が抜ける」だった。お湯、ごはん、あったかい岩の上。眠くなる理由は、だいたい全部そっちで揃っている。


 ふうん。私は、くすっと笑った。


「ハズレスキルって言うけど……ここなら、ちょうどいいかもね」


* * *


 それから十日ほどで、岩風呂の評判は、村の中をぐるりと一周した。


「領主様、今日も入れてもらえますかのう」


「領主様、うちの子も、いいですか」


「私が入ってない時間ならどうぞ。男の人と女の人は、時間を分けてくださいね」


 岩風呂は一つしかないので、昼前は女の人、昼過ぎは男の人、私が入るのは朝と夜、と決めて貸している。……そう決めたはずだった。ところが、順番を待つ人の列が、日に日に長くなった。いつも誰かの順番待ちでふさがっている。


 これは困る。非常に困る。自分の時間に入れるとはいえ、順番待ちを割り込んでまでは入りづらい。


「ロッテ。湯船を広げるわ。ついでに、女湯も作るわよ」


「また広げるんですか。……女湯まで?」


「そう。湯船を広げて、男の人と女の人の湯船を分ければ、時間を分けなくても、みんな一度に入れるでしょう? 私も、ゆっくり入りたいし」


「……それは、助かりますね」


「それと、ごはんを食べる場所も作る」


 蒸し料理は、今のところ岩陰にござを敷いて食べている。風が吹くと卵に砂がつくし、雪の日は脱衣小屋に人がぎゅうぎゅう詰めだ。


 湯上がりくらい、ちゃんと座って、テーブルで、あったかいものをゆっくり食べたい。


 それだけだった。


 村にただ一人の大工は、ガイルさんという、無口な中年の男だった。


「……食事処、ですか」


「屋根と壁があって、テーブルがあって、蒸気穴のすぐそばで食べられる建物。網かごを置く台は、床より少し高く。穴の真上には、囲いを作ってほしいの」


「蒸気を、小屋に引き込む……?」


「引き込むんじゃなくて、穴の上に屋根をかけるだけ。熱は上に抜けるから、天井の近くに窓をつけて、蒸気がこもらないようにするの。そうすれば、寒い外にいるよりは、ずっと快適でしょう?」


 ガイルさんは腕を組んで、蒸気穴をしばらく睨んでいた。……だめかな。変なことを言っているのは、自分でもわかる。


「やってみましょう」


 それは、意外にも本気の返事だった。


 工事の日は、卵が飛ぶように減った。工賃とは別に、お昼をごちそうすると約束したのだ。「手伝ってくれたら、お昼は私のおごりよ。蒸し野菜と卵と、ほかほかのじゃがいも」と。それだけで、村の男衆が、あっという間に集まった。


「領主様、梁はこっちでいいですかい」


「いいわよ、お任せ」


「領主様、この板は」


「それも任せるわ。私はお昼の担当だから」


 私が何をしていたかというと、網かごの番だった。それから、ガイルさんが用意しようとしたテーブルと椅子に、待ったをかけていた。


「椅子はいらないわ。床に座って食べたいの」


「……床に、ですか?」


「そう。お風呂上がりは足を伸ばして、ゆっくりしたいでしょう?」


 ガイルさんは、頭を抱えた。それでも、低いテーブルを作ってくれた。座るための藁を詰めたクッションも用意した。


 これで、湯上がりにごろごろしながら、ごはんが食べられる。


 三日後。蒸気穴の上に、小さな食事処ができた。天井近くの窓から、白い湯気が、ふわっと外へ逃げていく。中は、じんわりあったかい。壁際には長いテーブル。窓際には、私専用の特等席。綿をたっぷり詰めたクッションを持ち込んだ。


「完成!」


 最初のお客さんは、村の人たちだった。


 食事処の料理は、お金を払って食べる。


 ただ、自分で食材を持ち込んで、空いている蒸気穴で蒸して食べてもいいことにした。せっかくの熱を、使わないのはもったいないもの。


 料理人は、マルタさんになった。彼女は村一番の料理上手で、網かごの使い方を一度見ただけで覚えてしまった。しかも、勝手にあれこれ工夫し始める。


「領主様、これ、冬の保存食の山菜なんですけど、蒸したじゃがいもとよく合うんですよ」


 食べてみた。


「……おいしい!」


「でしょう」


「これ、お品書きに入れましょう」


「おしながき?」


「ええと、この食事処で食べられるものの一覧のこと。板に書いて、壁に掛けるの」


 自分でも、何をやっているのかわからないうちに、お品書きの板を作らせていた。


 卵。蒸しじゃがいも。蒸し野菜の山菜添え。干し肉の蒸し煮。ほんの数品。でも、壁に掛かると、急に「お店」っぽくなった。


「領主様、字が読めない者も多いんで、絵も描いてもらえませんか」


「あ、そうか。じゃあ、ロッテ、卵の絵、描ける?」


「お、お任せください!」


 ロッテが描いた卵には、なぜか目と口がついていた。……まあ、いいか。村の子どもたちには、大人気だった。


 その夜、食事処は満員だった。天井の梁へ、湯気とお喋りが立ち上る。誰かが歌い出して、誰かが笑って、窓の外の雪の寒さなんて、全部どこかへ行ってしまった。


 私は特等席で、蒸した芋をほおばりながら、満足してうなずいた。


 うん。これこれ。これが欲しかったのだ。


* * *


 食事処ができてしばらくすると、私はまた、新しい不満を見つけた。


 冬の寝心地だ。


 湯上がりに、藁のござの上でごろんとする。気持ちいい。でも、床が冷たい。せっかくぽかぽかになった体が、じわじわと冷えていく。


「……もったいない」


「また、もったいない、ですか」


「だって、せっかく温まったのよ? 冷ましたくないの。床自体があったかければいいのに」


 そう言って、はたと気づいた。前世の、あの床。ほかほかして、背中までじんわり温まる、あの床。


 あれ、温泉のお湯を床の下に通せば、できるんじゃない?


「ロッテ!」


「は、はい」


「床の下に、お湯を通すわよ」


「床の……下に」


 ロッテが目を丸くした。


 まず相談したのは、鍛冶屋のオットーさんだった。湯口から休憩所まで、お湯を引く道がいる。鉄の管は高くつくから、石を組んで溝を作ることにした。


 一回目は、失敗した。


 溝にお湯をそのまま流して、その上に板を敷いたら、板がじゅうっと音を立てて反り返った。熱すぎたのだ。


「あち! あちちち!」


「お嬢様、足の裏が真っ赤です」


「……うん。ごめん。これは私が悪い」


 原因はわかっている。湯口から、熱いお湯を直接流しすぎたのだ。


 そこで、お湯をいったん小さな池に溜めて冷ますことにした。池の水は、手で触って「熱い」と感じない程度。そこから溝へ流す。


 二回目は、漏れた。


 石の継ぎ目からお湯がにじんで、床下がぐちゃぐちゃになり、藁のござがびしょびしょになった。


「領主様……これは」


「……漏れたわね」


「漏れましたな」


 ガイルさんが、無言で石の隙間に粘土を詰めてくれた。助かる。この人は、いつも無言で仕事を引き受けてくれる。


 三回目。


 石の溝の上に、厚い石板を敷く。その上に木の床板。さらにその上に、ござ。池で冷ましたお湯を、ゆっくり、ゆっくり、床下へ流す。


 一日、様子を見た。二日、様子を見た。三日目の朝、床に手のひらを置いた。


「…………」


 あったかい。熱すぎず、ぬるすぎず、日なたの岩みたいな、じんわりしたあたたかさ。


 夜、村の人たちを休憩所に集めた。


「ござの上に座ってみて」


 最初に座ったのは、子どもたちだった。


「……あったかい」


「あったかい! 地面があったかい!」


 子どもたちが、ござの上でごろごろ転がり始めた。大人たちも、おそるおそる座って、そして固まった。


「……こりゃあ」


 マティアスさんが、足を投げ出して天井を仰いだ。


「…………冬が、冬じゃない」


 私は、ござの隅っこで、すでにごろごろしていた。


「でしょう。寝転がると、さらにいいわよ」


「領主様。足の裏からじんわり……ばあさんの冷え性に、いいかもしれんのう」


「そうでしょうそうでしょう」


 その晩、休憩所は、村人たちの寝息でいっぱいになった。家に帰らず、そのまま寝てしまった人が、七、八人。私も、その一人だった。


 翌朝、目を覚ますと、隣でマルタさんが寝ていて、その向こうに子どもが三人、団子みたいに丸まっていた。


「……って、あれ」


 私の寝る場所、なくない?


 その日のうちに、私はガイルさんに頼んだ。


「休憩所、倍に広げて。それから、私用の隅っこを、衝立で囲って」


 ガイルさんは、無言でうなずいた。


「あと、枕。ふかふかの枕が欲しいの」


 無言で、うなずいた。


 それ以来、休憩所は、冬の夜に一番あったかい場所になった。薪をたくさん使わなくても、夜中に寒くて目が覚めることが減ったらしい。昼になると、村のおばあさんたちが集まって、床にあぐらをかいてお喋りをするようになった。子どもたちは、床の上で石を並べて遊ぶようになった。


 ついでに、食事処の床にも、同じ仕組みを入れてもらった。湯上がりにあたたかい床でごろごろするのもいいけれど、ごはんを食べるときだって、足元が冷えないほうがいい。


 マティアスさんは、湯上がりに、足を伸ばして居眠りをしながら、ぼそっと言った。


「領主様、ここに来てから、朝起きても、体がこわばっとらんのですわい」


「それはよかったですね。私も、ぐっすり寝られるようになったので」


 私が欲しくて作ったものが、そのまま、みんなの冬の居場所になっていた。まあ、いいか。みんな気持ちよさそうだし。


* * *


 雪解けの頃、見慣れない荷馬車が、村に入ってきた。


「噂の温泉ってのは、ここかい?」


 行商人のおじさんだった。隣村で聞いたらしい。「ベルガ領の湯がすごい」「蒸し料理がうまい」「床があったかくて、寝ちまう」と、人の口から口へ、順番に。


 それからは、早かった。猟師、荷運びの親方、街道を通る旅人。毎日、見たことのない顔が増えていく。


 私が入りたいときに入れないのは困るので、露天風呂を広げた。食事処も、窓際の席を確保できるように、テーブルを増やした。


 ただ、一つだけ、どうしても気になることがあった。


「……お客さんの服よ」


 湯上がりの休憩所を見渡して、私はため息をついた。濡れた服を着直す人。汗ばんだ体にぴったりした上着を着込む人。ベルトで締め上げたまま寝転がる人。


 そして、私もだ。貴族令嬢のドレスは、背中にボタンが二十個ある。コルセットもある。湯上がりにそれを着るなんて、拷問だ。そのくせ、ごろごろしたいなら、着替えるしかない。


 ここ数か月、私は毎日、ドレスを着て、脱いで、着て、脱いでいた。


「ロッテ。ゆったりして、ふわっとして、頭からすぽんと被れる服が欲しいの」


「ゆったり……寝間着ですか?」


「違う。外にも出られて、でも楽で、お風呂上がりにそのまま食べて寝られる服」


 ロッテが首をかしげる。私は、前世の記憶を引っ張り出した。常夏の島。観光客がみんな着ていた、あの――


「ムームーよ」


「むーむー?」


「ふんわりした、ワンピースみたいなの。花柄で、色とりどりの」


 布屋の女将さんを呼んで、絵を描いて説明した。肩から裾までストンと落ちる、袖付きのワンピース。腰は締めない。軽い木綿。そして花。大きな花。赤、黄色、青、思い切りカラフルに。


「領主様、これ、派手すぎでは……」


「派手でいいの。気分が上がるでしょう」


「男の人用は?」


 あ。


「……アロハシャツ」


「あろは?」


「前開きで、ゆったりした半袖の。柄は、同じく花とか、鳥とか、派手なやつ」


 女将さんは真顔だった。


「領主様、それは、人前で着られるものなのですか」


「着られるのよ。ここでは」


 三日後、試作品が届いた。着てみた。……最高だった。


「ふ、ふわあぁ……」


 風がスカートの内側を抜けていく。締めつけがない。肩が軽い。何より、動ける。座れる。寝転がれる。


「ロッテも、ほら」


「は、はい……こ、これは、確かに……」


 ロッテが、鏡の前で固まっている。ひまわり柄のムームーを着た、赤毛の彼女。


「……かわいい」


「でしょ」


 自分でも驚くほど似合っていた。


 その日の夕方、休憩所に貼り紙を出した。


『湯上がりには、お好きな館内着をどうぞ(無料貸出)』


 最初に着たのは、マルタさんだった。


「あらぁ、これ楽ねえ! 帯もいらないし、洗うのも簡単だわ!」


 次に、猟師のおじさんが、腕組みして貼り紙を睨んだ。


「……俺は、そんな派手なもんは」


「そうですか。じゃあ、普通の服で」


「…………ちょっとだけ、着てみるか」


 それで、猟師のおじさんは、赤い鳥柄のアロハを着て、鏡の前でしばらく動かなかった。


「…………悪くねえ」


 最後に、マティアスさんが、緑の鳥柄のアロハを着て、口をぱくぱくさせた。


「……わ、わしが、これを」


「似合ってますよ」


「……おお、悪くないのう」


 三日もたたないうちに、休憩所のござの上は、色とりどりの花と鳥でいっぱいになった。遠くから見ると、お花畑みたいだ。


「……いい眺め」


 行商人のおじさんは、アロハを三着買って帰った。「向こうで売ってみる」とのことだった。


 私は、満足してうなずいた。自分が楽な服を着たかっただけなのに、みんな楽しそうだ。まあ、いいか。


 ふあ、とあくびが出た。私は、いつものようにござの上で大の字になった。


* * *


 春が来て、雪が解けると、山の斜面に、小さな緑が顔を出した。私は相変わらず、休憩所と食事処と湯船を、ぐるぐる往復していた。


 その日の朝ごはんは、堅くなった黒パンだった。旅人が置いていった余りで、石みたいに固い。


「……これは、さすがに歯が立たないわね」


 ふと思いついて、網かごに入れてみた。蒸気の出る穴の隣に置いて、蓋をして、待つ。


 十分後。湯気の向こうから出てきた黒パンは、ふわっと柔らかく、しっとりしていた。


「……おお」


 ちぎって、口に入れる。もちもち。ほんのり甘い。堅かったパンが、別物になった。


「ロッテ、これ、いけるわよ」


「本当ですね! お嬢様、すごいです!」


「すごくないわよ。蒸しただけ」


 私は、朝ごはんを食べながら、窓際の特等席でごろごろしていた。その様子を、マルタさんがじっと見ていたことに、私は気づいていなかった。


 それから、半月ほどたった。食事処の厨房が、妙に騒がしい。子どもたちの笑い声。マティアスさんのおばあさんの声。マルタさんの「もう少し、水を足して」という声。どうやら、みんなで何か作っているらしい。


「……なんだろう」


 気にはなったけど、のぞきに行くのも面倒だったので、私は休憩所でごろごろしていた。


 ある朝のこと。


「領主様、領主様! 起きとりますか!」


「……起きてない」


「起きとってください。これを、いちばんに食べてほしくて」


 マティアスさんだった。息を切らせている。目を開けると、マティアスさんが、両手で大きな網かごを抱えて立っていた。中には、湯気の立つ、白くて丸いものが、ぎっしり。


「これは……?」


「蒸しパンです」


「蒸しパン?」


「小麦と山羊の乳と、干しぶどうを混ぜて、蒸気で蒸したんですわい。領主様が、堅くなったパンを蒸して食べておられたでしょう。あれを見て、マルタさんが、生地から蒸したらどうかと思いついて」


 マティアスさんは、ちょっと照れたように頭をかいた。


「うちのばあさんも、子どもらも、あれこれ試して。何回も失敗して、やっと、これができたんですわい」


「みんなで作ったの?」


「はい。それで、ばあさんが言うんです。これは、領主様に、いちばんに食べてもらわんと、始まらんと」


 私は、起き上がって、中をのぞいた。ふっくらした白い丸。ところどころに、干しぶどうの紫が透けている。


「領主様。この村は、冬は毎年、ひもじかったんです」


 マティアスさんが、網かごを抱えたまま、ぽつりと言った。


「ほんの少しの麦粥と、たまに干し肉で、春まで我慢して。腹いっぱい食べて、ぐっすり寝られる冬なんぞ、何十年もなかった。……それが今年は違う。それだけで、わしらは、もう」


「そうなの」


 私は、とりあえず、蒸しパンを一つ取った。ふわっ。あったかい。手のひらの中で、ぽよんと弾む。


 一口。


「……っ!」


 もちもち。ほんのり甘い。干しぶどうの酸味が、あとから追いかけてくる。そして、湯気の匂い。


「……おいしい!」


「おお……」


「これ、おいしい! マティアスさん、これ、すごくおいしい! ふわふわで、あったかくて、干しぶどうがいい!」


 気づけば、二個目に手が伸びていた。


「ねえ、これ、もっと作れない?」


「へ?」


「朝ごはんにしたいの! 毎朝! あと、湯上がりにも! あ、色んな味も欲しいわね。芋とか、かぼちゃとか、チーズ入りとか!」


「ほ、ほう、もっと、ですか」


 マティアスさんの目が、ぱちぱちと瞬いた。それから、くしゃっと笑った。


「……はい。ばあさんに、伝えます」


 それだけ言って、マティアスさんは、満足そうに帰っていった。


 私は、三個目を食べながら考えた。蒸しパン、お品書きに入れよう。


 それから三日もたたないうちに、蒸しパンは、食事処の一番人気になった。かぼちゃ入り。芋入り。山羊のチーズ入り。子どもたちが考えた、蜂蜜を垂らしたやつ。毎日、種類が増えていく。旅の人たちは、帰りに蒸しパンを包んでもらうようになった。


 名物ができたらしい。……私は、何もしてないんだけど。まあ、おいしいから、いいか。


* * *


 春も深まった、ある日の昼下がり。休憩所の入口が、急に騒がしくなった。


「お客さんかしら」


 大の字のまま顔を上げると、ガシャガシャと鎧の音を立てて、泥だらけの集団が入ってきた。


 十数人の騎士。鎧を着たまま、肩を落として歩いている者もいれば、脚をかばうように歩いている者もいる。先頭には、日に焼けた若い騎士。その後ろに、一人だけ背の高い男が、むっつりと立っていた。


 三十歳前後。銀灰色の短髪。眉間に、見事な皺。鎧は誰よりも傷だらけなのに、背筋だけは定規みたいにまっすぐだ。


「領主殿はおられるか」


 低い声。


「……私ですけど」


 ござの上から手を挙げた。しん、と静まった。騎士たちの視線が、私をゆっくり上から下まで往復する。


 私は今、ひまわり柄のムームーを着て、枕を抱いて、頬にござの跡がついている。


 ……あ。


「失礼した」


 男が、姿勢を正した。


「王国第三騎士団長、ヴァルター・グランツと申す。国境任務の帰りだ。休養のため、こちらを利用したい」


「あ、はい。いらっしゃいませ」


 私は枕を置いて起き上がった。


「ええと、まず、鎧と靴は脱いでください。奥は、湯上がりのお客さんが寝転がるので」


「鎧を……? しかし、我々は任務中で――」


「団長」


 若い騎士が、そっと割って入った。副団長のハンスというらしい。二十代半ばの、人懐っこい笑顔の青年だ。


「教会の治療は終わっています。報告も済んでいます。今日は、団長の休養です」


「私は問題ない。負傷した者を優先して――」


「負傷者は、全員昨日のうちに休ませました。残ってるのは団長だけです。三日、寝てないでしょう」


「……」


「右肩、上がらないでしょう」


 ヴァルター団長は、無言になった。


 ハンスが、小声で私に言う。


「教会の回復スキルで、傷は全部治ったんです。でも団長、ずっと緊張が抜けなくて……筋肉が固まって、夜も眠れないんですよ」


 あー。わかる。傷は治っても、疲れは残る。体の傷が塞がったからって、凝り固まった筋肉までほぐれるわけじゃない。前世の私が毎週末通っていた理由と、まったく同じだ。


「では、お風呂に行きましょう」


 私は、貸出用の棚から一着取り出した。


「着替えは、こちらです」


 深い藍色の地に、大きな白い花が散った、アロハシャツ。それに、ゆったりした綿のズボン。


 団長の目が、それを見た。三秒、動かなかった。


「……これは」


「館内着です」


「……私が、これを?」


「皆さん、そうですよ」


 私は休憩所を指した。ござの上には、花柄とアロハで寝転がる客たち。猟師も、荷運びも、村の子どもも、見知らぬ旅の商人も。


 団長は、その光景をしばらく見つめていた。


「……商人と、猟師と、子どもが、同じ服で」


「ええ」


「身分も、年齢も、わからない」


「そうですね。洗い替えも楽ですし」


「…………」


 団長が、口元に手を当てた。


「なるほど。ここでは、立場を脱ぐのか」


「は?」


「肩書きも、鎧も、位も置いて、ただ一人の人間として休む。そのための装いなのだな」


「いえ、あの、楽だからです」


「謙遜は不要だ、領主殿」


「いや、本当に――」


 ハンスが、必死に笑いをこらえている。


 ……いや、ええと。ただ、ドレスの背中のボタンが二十個あるのが嫌だっただけなんだけど。


 団長は、それでも真面目に着替えて、真面目に温泉へ向かっていった。


 着替えた姿は、意外なほど似合っていた。アロハシャツの一番上のボタンまできっちり留めて、背筋をまっすぐに伸ばして、鍛えた腕を組んで歩く。


 ものすごく、真面目なアロハだった。


 一時間後。食事処で再会した団長は、顔が赤かった。眉間の皺が、ほんの少しだけ薄い。


「……肩が、上がる」


「え?」


「三週間ぶりに、腕が上がった」


 団長は、右腕をゆっくり持ち上げて、他人の腕を見るみたいに感心している。


「よかったですね。はい、温泉卵です」


「……卵?」


「蒸気で作ってるんです。ほら、こっち」


 団長を案内して、蒸気穴を見せる。ちょうど、マルタさんたちが網かごを並べているところだった。


 団長は、じっと見ていた。


「この熱は、領民も使っているのか」


「ええ。私が使ってない時間なら、自由にって。余ってるので」


「薪を節約し、民の暮らしを助けるために、領主自ら設備を開放しているのか」


「いえ、あの、熱がもったいなくて」


「冬を越すための燃料は、命に関わる。それを――」


「もったいなくて……」


 団長は、ものすごく真剣な顔でうなずいた。……絶対に、伝わっていない。


「蒸しパンもどうぞ。うちの名物です」


「蒸しパン……?」


 団長が、湯気の立つ白い塊を、おそるおそる口に運んだ。


 一口。眉間の皺が、ふっと消えた。


「……うまい」


「でしょう」


「甘い。柔らかい。……これは、誰が?」


「村の人たちです。私は何もしてません」


「そうか」


 団長は、もう一口食べた。それから、またもう一口。気づけば、皿の半分がなくなっていた。


 最後に、団長を休憩所へ案内した。床下に温泉を通した、ぽかぽかのござ。窓から差し込む午後の光。花柄のムームーやアロハシャツを着た村人たちが、思い思いにくつろいでいる。


「ここで、ご自由にお休みください」


「……こんなところで、寝ていいのか」


「はい。休憩所なので」


「休憩所……」


 団長は、しばらく黙っていた。


「領主殿は、普段、どこで休んでいる」


「あ、私は、あの窓際の隅っこです。一番日当たりがよくて」


「……領主自ら、最も良い場所で休む。休む者の手本を示しているのか」


「いえ、ただの昼寝です」


「…………」


 団長が、何か言いたげに口を開いて、閉じた。


 それから、ござの上へ慎重に、体を横たえた。背筋を伸ばしたまま、仰向けに。両手を腹の上で組んで。


 棺桶みたいだな、と思った。


 でも、三分後。


「…………」


 寝息が聞こえた。団長の、安らかな寝息が。


 ハンスと私は、顔を見合わせた。ハンスの目が、少しだけ潤んでいた。


「団長が、鎧なしで、自分から寝たの、初めて見ました」


「そうなんですか」


「……ありがとうございます」


「え、いや、私、何もしてな――」


 ……あれ?


 団長の周りに、うっすらと、私のスキルの気配が漂っていた。


 無意識に、漏れていたらしい。


 慌てて引っ込めて、団長の寝顔を見る。


 ……いや、でも、これはスキルのせいじゃない。あったかい床。湯上がりのだるさ。おいしい卵と蒸しパンでふくらんだお腹。三日分の疲れ。それが全部、ちょうどよく重なっただけだ。


 スキルは、ほんの少し背中を押しただけ。


 団長は、結局四時間、一度も起きなかった。


 目を覚ました団長は、窓の外がすっかり暗いのを見て、跳ね起きた。


「……暗い?」


「夜です。四時間ほど、寝てましたよ」


「四時間!? 私が!?」


「はい」


 団長は、しばらく呆然としていた。自分の手を見て、肩を回して、首を回して。


「……体が、軽い」


「よかった」


「領主殿」


 団長が、私の前にまっすぐ向き直った。アロハのままで。


「次の休暇も、ここで取らせてもらってもよいだろうか」


「もちろん。お客さんですから」


「……そうか」


 団長は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


「では、また来る」


 それだけ言って、団長は、部下たちと一緒に、のしのしと帰っていった。もちろん、アロハのまま。……あ、返却してない。まあ、いいか。次に来るとき、また着ればいい。


 変わった人だけど、いいお客さんだ。


* * *


 それから、ひと月。私の健康ランドは、気づけば、街道沿いでちょっとした評判になっていた。


 昼過ぎの休憩所は、今日もにぎやかだ。


 マティアスさんは、床の隅で、猟師のおじさんと石を並べて、何か勝負をしている。どうやら、領民たちが勝手にルールを作った遊びらしい。ときどき「待った!」「待たん!」と声が上がる。


 食事処では、マルタさんが、新しい蒸しパンの種を試している。今日は山菜入りらしい。旅の人たちが、列を作って待っている。


 ガイルさんは、露天風呂の脇に、屋根を作っている。「雨でも入れるように」と。誰も頼んでいないのに。


 鍛冶屋のオットーさんは、湯の温度を測る道具を作り始めた。……なんでだろう。楽しそうだから、いいか。


 ロッテは、湯上がりの女性客の髪を、器用に編んでいる。ムームーの花柄に似合う編み方を、研究中らしい。


 子どもたちは、床の上を、ごろごろ転がり競争している。


 奥の隅では、でっぷりとした貴族の紳士が、ムームーを着て、いびきをかいている。街道を通りがかって、噂を聞いて立ち寄ったらしい。さっきまで、ものすごく偉そうだったのに。


 ハンスたち騎士も、非番になるたびにやってくる。全員、アロハだ。


 私は、窓際の特等席で、蒸しパンを頬張りながら、ぼんやりその様子を眺めていた。


 岩だらけ。寒い。誰も来ない。そう思っていた土地で、私は今、昼から温泉に入って、おいしいものを食べて、ごろごろしている。そして、みんなも、それぞれ勝手に、楽しそうにしている。


 ……悪くない。全然、悪くない。


 私は、ごろんと仰向けになった。天井の梁。窓の向こうには、火山の煙が、のんびり昇っている。


 さて。次は、何を作ろうかな。


 人間は、欲が深いのだ。満たされると、すぐに次が欲しくなる。お風呂があって、ごはんがあって、あったかい床があって、ふわふわの服もある。


 あと、足りないものは――


「……卓球」


 湯上がりといえば、卓球だ。パコン、パコンと、ラリーの音が響くあの空間。台は、ガイルさんに頼めばなんとかなるだろう。ラケットは、木を削って。球は、軽くて弾むものが、何かあるかな。


 それから。


「……イチゴ牛乳」


 冷たくて、ほんのりピンク色の、あれ。


 山羊の乳は、ある。イチゴは、春になったから、野いちごが山の斜面に出ているはず。砂糖を少し足して、煮詰めて、乳に混ぜたら――


 想像しただけで、口の中がよだれでいっぱいになった。


「次は、卓球台と、湯上がりのイチゴ牛乳ね!」


 思わず声に出した。隣で寝ていたマティアスさんが、むにゃむにゃと目を開けた。


「……領主様、また何か、思いつかれましたか」


「ええ! 楽しいやつ!」


「そうですか……楽しみですのう」


 それだけ言って、マティアスさんは、また目を閉じた。


 私は、にんまり笑った。卓球台の図面は、湯上がりに考えよう。野いちごの場所は、あとで子どもたちに聞いてみよう。蒸しパンのいちご入りも、いいかもしれない。ああ、でも、その前に、もうひと眠りしようかな。


 次は、何を作ろうかな。考えるだけで、わくわくする。


 ……だけど、うん。まずはお昼寝だ。


 私はクッションに顔をうずめた。


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