「見栄えが悪いから婚約者を譲れ」と言われたので、倒れるまで十年間守ってきた結界を捨てて家を出たら、家族が無人島送りになっていました
「お姉様、顔色が悪いわ」
妹のリリアナは、私を見てそう言った。
その朝、私は結界に魔力を注いだあと、廊下で倒れた。
目が覚めたときには、昼を過ぎていた。
指先はまだ冷たい。
「ちゃんとお化粧したほうがいいわよ。そんな顔じゃ、伯爵夫人として見栄えが悪いもの」
心配してくれているのだと思って、私は頷いた。
だが、まさかその夜、あんなことを言われるとは思ってもいなかった。
◇
「アリシア。エドワード殿との婚約を解消しなさい」
夕食の席で、父が言った。
「代わりに、リリアナを伯爵家へ嫁がせる」
私はフォークを置いた。
「……どうしてですか」
「お前には、この家に婿を迎える。相手はもう探してある」
母が、いい知らせを伝えるように微笑む。
「商家の次男よ。あなたがこの家に残れば、結婚してからも結界を張れるでしょう?」
向かいの席で、リリアナが小首を傾げた。
「ごめんなさい、お姉様。でも、伯爵夫人になるなら、やっぱり見栄えも大事だと思うの」
「リリアナ、言葉を選びなさい」
母は妹をたしなめてから、私を見た。
「でも、最近のあなたは本当に顔色が悪いわ。エドワード様だって、十八歳のリリアナのほうが喜ぶかもしれないでしょう?」
私は自分の手を見た。
骨が浮いて、血の気がない。
今朝、倒れたばかりの手だ。
「エドワード様には伝えたのですか?」
「彼だって、若い娘のほうがいいだろう」
父は平然と言った。
「リリアナが代わりに嫁ぐなら、私はこの家に残って……結婚したあとも、結界を張れということですか」
「当然だ」
「いつまでですか」
「いつまで、とは?」
父は、本当に分からないという顔をした。
「結界を張れるのは、お前だけだろう」
そのとき、私はようやく知った。
父の『もう一年』には、終わりがなかったのだ。
◇
十五歳のとき、私に結界魔法の才があると分かった。
我が家の子爵領は、魔物の棲む森と接している。
『代わりの魔導師が見つかるまで、少しだけ頼む』
父にそう言われ、私は領地を囲む結界を張った。
同じ年、隣の領地の伯爵家嫡男、エドワード様と婚約した。
結婚は、私が十八歳になってからの約束だった。
三年だけなら、家族も領民も守れる。
そう思っていた。
結界の強さを保つため、毎晩魔力を注いでいた。
だから、領地を長く離れることもできない。
十八歳になったとき、父は言った。
『まだ後任が見つからない。もう一年だけ頼む』
私はエドワード様に手紙を書いた。
『もう一年、待っていただけますか』
返事はすぐに来た。
『分かった。待っている』
十九歳のときも。
二十歳のときも。
父は『もう一年』と言い、エドワード様は『待っている』と書いてくれた。
婚約したときに顔を合わせてから、彼と直接会えたのは、三年前の夜会だけだった。
父がやっと許してくれた、たった一晩の夜会。
それもエドワード様とゆっくり話す間もなく、夜のうちに屋敷へ戻らなければならなかった。
父は『結界が乱れるから』と、彼が屋敷を訪ねることも断り続けた。
今思えば、やつれていく私を、彼に見せたくなかったのだろう。
あとは、手紙だけが増えていった。
二十二歳の冬、魔力を注いだあと、初めて立っていられなくなった。
翌朝には動けたので、誰にも言わなかった。
二十四歳の夏には、結界の前で倒れた。
父に伝えると、こう返ってきた。
『明日までに回復するか?』
私は『はい』と答えた。
領民を守りたかったから。
そして今朝、また倒れた。
家族は、倒れた私を心配しなかった。
それどころか。
倒れた私の顔色を見て、婚約者を妹に譲れと言った。
◇
「私の十年は、どうなるのですか」
私は父に尋ねた。
「大げさなことを言うな。家のためにしたことだろう」
その一言で、分かった。
父にとって、私の十年は、やって当たり前のことだった。
倒れながら領民を守ったことも。
エドワード様を十年待たせたことも。
私が、十年待ち続けたことも。
何一つ、数えていなかった。
「分かりました」
父が満足げに頷く。
「そうか、分かってくれたか」
「はい。この家を出ます」
ガタン、と大きな音がした。
気がつけば、父が椅子を跳ねのけて立ち上がっていた。
「結界はどうするんだ!?」
「すぐには消えません。結界はひと月ほどかけて薄れていきますから、その間に魔導師を雇ってください」
「ひと月では足りん!」
「十年間、探していたのではないのですか?」
父は口を開けたまま、答えなかった。
「まさか……探して、いなかったのですか」
「お前がいるのに、わざわざ高い金を払って雇う必要があるか」
私は、もう何も聞かなかった。
「ひと月あれば、領民を避難させることもできます。それだけは、必ずしてください」
父の返事はなかった。
「さようなら、お父様」
自室に戻り、結界へ伸ばしていた魔力を断った。
十年間、眠るときも起きるときも、身体のどこかを引っ張り続けていた糸が、ぷつりと切れた。
窓の外には、まだ結界が見えている。
ひと月は保つ。
その先まで、私一人で背負うことは、もうできなかった。
◇
「断る!」
エドワード様は即答した。
伯爵家に着いて、私は全部話した。
倒れたこと。
婚約者を妹に替えろと言われたこと。
家を出てきたこと。
「でも、リリアナは若くて、社交界でも評判がよくて……」
「リリアナ嬢が若いかどうかなんて、私には関係ない。アリシア、私は君を何年待ったと思っている?」
「……十年です」
「そう。君が来るのを、十年待った」
エドワード様は、当たり前のことのように言った。
「どうして今さら、ほかの人を選ぶと思っているんだ?」
「でも、私は今、こんな酷い姿で」
「酷い姿?」
彼は、私の冷たい手を包んだ。
「酷いのは、君が倒れるまで働かされていたことだ。君の姿じゃない」
包んだ手の冷たさに、眉をひそめた。
「冷たい。最後にちゃんと食べたのは、いつ?」
「昨日、パンを……半分ほど」
「マリー、温かいスープを頼む!」
運ばれてきたスープを一口飲むと、身体の奥がゆっくり温まった。
「全部飲めなくていい。今は、自分の分を食べて」
「自分の分……」
「君は、すぐ人に譲ってしまうから」
意味が分からずにいると、エドワード様は三年前の夜会の話をした。
あの夜、皿を割った罰で夕食を抜かれた給仕の少年がいた。
私はその子に、自分の料理を渡したのだという。
言われて、ようやく思い出した。
「私は、帰れば食べられましたから」
「そう言うと思った」
彼は困ったように笑った。
「でも、今日は君が食べる番だ」
私はもう一口、スープを飲んだ。
彼は、私さえ忘れていたようなことを覚えていてくれた。
そんな私を、十年も待っていてくれた。
……泣きそうになった。
「エドワード様。一つだけ、お願いがあります」
「何でも」
「実家の領民の避難を、王宮へ知らせていただけませんか。父が動くとは、思えないので」
「分かった。すぐに王宮へ知らせよう」
エドワード様は頷き、その日のうちに王宮へ使いを出してくれた。
◇
伯爵家に来てから、夜通し眠れるようになった。
それでも最初の数日は、明け方に飛び起きた。
「結界に、魔力を……」
「ここには、君の結界はないよ」
エドワード様が、窓へ伸ばした私の手を下ろしてくれる。
「うちの領地は、魔導師と騎士が交代で守っている。結婚してからも、君が結界を張る必要はないよ」
そう言われても、すぐには安心できなかった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
朝まで眠り、三度の食事を取る。
そんな暮らしにようやく慣れたころ、鏡を見て驚いた。
頬に血色が戻っている。
目の下の隈も薄くなっていた。
「少しは、見栄えがよくなったでしょうか」
私の髪をとかしていた侍女が、手を止めた。
後ろにいたエドワード様が、鏡越しに微笑む。
「うん。顔色もよくなったし、とてもきれいだ」
「……本当ですか?」
「本当だよ。君が元気になってくれて、嬉しい」
鏡の中で、彼と目が合った。
「それに、君が人を思いやるところは、婚約した頃から変わらない。私は、そんな君がずっと好きだったんだ」
なぜだろう。
彼の言葉を聞いた瞬間、胸に熱いものが込み上がってきた。
◇
ひと月が過ぎる前に、魔導院の術師が私を訪ねて来た。
実家の結界が消えると聞いて、代わりに必要な魔導師の数を調べているという。
「子爵領全域を、お一人で十年ですか?」
私は頷いた。
「交代は?」
「ありません」
「休みは?」
「……倒れた翌朝に、少しだけ」
術師はしばらく黙り込み、それから私の手を見た。
「顔色が悪くなる。痩せる。髪が傷む。どれも、魔力を使いすぎたときの症状です」
「では、年齢のせいでは……」
「違います」
私は椅子の上で動けなくなった。
家族が『見栄えが悪い』と言った私の姿は、領地を守るうちに、こうなったのだ。
エドワード様が、私の手を握った。
「アリシア。君は何も悪くない」
その言葉に、涙があふれて止まらなくなった。
数日後、調査の結果が届いた。
同じ広さの結界を保つには、常駐の魔導師と交代要員が何人も要る。
騎士の巡回も欠かせない。
けれど子爵家は、十年間、その費用を払っていなかった。
私が一人で働いていた分、防衛費が浮いていたのだ。
その間に、母の夜会の衣装は増えた。
リリアナのドレスも、宝石も、年々増えていった。
私の頬がこけていくあいだに、妹は美しく着飾っていた。
報告書を前にして、私は初めて怒りを覚えた。
私の十年は、消えたのではない。
家族が、使っていたのだ。
◇
父から手紙が届いた。
『すぐに戻れ。義務を果たせ!』
返事は書かなかった。
代わりに、伯爵家が王宮へ報告を届け、魔導院も調査結果を送った。
やがて結界が薄れ、森の魔物が領地の境に姿を見せ始めた。
けれど、住民はすでに避難していた。
エドワード様の知らせを受けて、王宮が先に動いてくれたのだ。
魔物による犠牲者は、一人も出なかった。
そのあいだ父がしたことは、一つだけだった。
私を連れ戻すための、王宮への訴えだ。
『娘を連れ戻していただきたい。娘さえ戻れば、すぐに結界を張れます』
王は、父を呼び出した。
◇
私もエドワード様とともに、王宮へ呼ばれた。
「アリシアは、我が領の結界に欠かせぬ娘です!」
玉座の前で、父は声を張り上げた。
「十年間、その娘一人に守らせていたのか」
「はい。娘にはその才がございますので」
「その間、後任は探したか」
父の声が止まった。
「娘が倒れたことは、知っていたか」
「……以前にも一度。しかし、翌日には動けておりました」
王のそばに控えていた術師が、前へ出た。
「陛下。ご令嬢が痩せたのも、顔色が悪いのも、長年の魔力の使いすぎが原因です」
王は父を見据えた。
「……そなたは、倒れるまで領地を守っていた娘に、婚約者を譲れと言ったのだな」
「アリシアは……伯爵夫人にしては、見栄えが悪く」
そこまで言って、父は口を閉じた。
ようやく、気づいたのだろう。
私が守ったから、家にお金が残った。
私が守ったから、リリアナは着飾れた。
私が守ったから、私は『見栄えが悪く』なった。
王が、低い声で続けた。
「領地を守るのは、領主の義務だ。それを十年間、娘一人に押しつけた。後任すら探さずにな」
「で、ですが、娘さえ戻れば――」
王の表情が変わった。
「愚か者がぁ!!」
大広間が震えた。
父の肩が跳ねる。
「まだ娘に頼るか!」
父は何も答えられなかった。
「十年間、領地を守り、民を守ったのは娘だ。領主のそなたは何をした!」
「わ、私は……」
「答えよ!」
父の口が開いた。
だが、声は出なかった。
「娘が倒れても代わりを探さず、その娘が痩せ細った姿を『見栄えが悪い』と蔑み、婚約者まで妹に譲らせようとした」
王が玉座から立ち上がった。
「そして娘が去った今、そなたが考えたことは何だ? 代わりを探すことですらない。娘を連れ戻すことだ!」
王の声が、大広間を震わせた。
「娘ひとりに養われておきながら、何が領主か!」
父の顔から、血の気が引いた。
「そのような無能に、領地など任せられん!」
「本日をもって、そなたの領地は王家預かりとする」
こうして、実家の領地は王家が預かることになった。
王宮が魔導師と騎士を雇い、避難した人々を村へ戻すという。
さらに、私は前もって、王に願い出ていた。
家族から身分まで奪ってほしいわけではない、と。
「……ゆえに、道を二つ示す」
王が言った。
「爵位を返して平民となるか。子爵のまま、北のランデブルグへ移るか。幸い、ランデブルグは森が広く、水も豊かな土地だ」
父と母が、顔を見合わせた。
「爵位を……残していただけるのですか」
「うむ。ただし、あの土地は――」
「お父様、そちらにしましょう!」
リリアナが、父の袖を引いた。
「平民になるより、ずっといいわ!」
父は、王に深々と頭を下げた。
「ランデブルグへの転封、謹んでお受けいたします!」
「本当に……よいのか」
「はい! ありがたいお話にございます!」
王はしばらく父を見つめた。
それから何も言わず、書類に印を押した。
◇
ここからは、ランデブルグへ同行した役人から、後日聞いた話だ。
数日後、父たちを乗せた馬車が港に着いた。
目の前には、海が広がっていた。
「ここがランデブルグか?」
父が、案内の役人に尋ねた。
「いいえ。ここから船に乗り換えます」
「船? ランデブルグへ行くのではないのか」
「はい。ランデブルグは沖にある、王家直轄の無人島でございます。このたび、皆様の領地となりました」
三人が黙った。
「……無人島?」
「はい」
「聞いていないぞ!」
「陛下は、ご説明なさろうとしていましたが」
父は、口を開けたまま黙った。
「で、でも」
リリアナが、父の袖を引いた。
「王家の土地だったのでしょう? だったら、屋敷くらいあるはずよ」
母も頷いた。
「そうね。王家の別荘があるのかもしれないわ」
「……そうだな」
父は、上着の襟を直した。
「島一つが我が領地になるのだ。悪い話ではない」
三人は船に乗った。
◇
数時間後、船はランデブルグ島に着いた。
小さな船着き場の向こうには、森が広がっていた。
どこまで見ても、森だった。
「屋敷はどこだ?」
父が、役人に尋ねた。
「ございません」
「では、村は?」
「ございません」
「……本当に、誰も住んでいないのか?」
「はい。領民は零人です」
父の顔から、表情が消えたという。
「人口が……零?」
「まだ誰も開拓していない土地ですので」
「自然が豊かだと聞いた!」
「ご覧のとおり、森は豊かでございます」
「水もあると!」
「川が三本ございます。飲むときは煮沸してください」
「じゃあ、食事はどうするのよ!」
リリアナが叫んだ。
「当座の食糧はお持ちしております。そのほか、森には木の実、川には魚がございます。狩りの道具もお届けできます」
「誰が狩るの!?」
役人は、三人の顔を順に見た。
「今のところ、領民がおりませんので……」
リリアナは、言葉を失った。
「宿は?」
母が尋ねた。
「ございません」
「食事を作る使用人は?」
「おりません」
「買い物は?」
「店がございません」
三人とも黙った。
日が暮れて、役人が用意した天幕に入った。
森の奥で、何かが吠えた。
三人は、天幕から一歩も出られなくなった。
「け、結界を張る魔導師を雇え!」
父が叫ぶと、役人が見積書を差し出した。
「王宮に依頼はできます。なお、島全体を守る場合の費用は、こちらです」
父は金額を見て、固まった。
「……これを、毎年?」
「魔導師を交代させますので。騎士の巡回は、また別にかかります」
「アリシアは、一人でやっていたぞ」
役人は、何も答えなかった。
リリアナが父の手から見積書を奪った。
「こんなの、払えるわけないじゃない!」
けれど、しばらく数字を見つめたあと、何かを思いついたように顔を上げた。
「……あ。お金ならある!」
「何を言っている?」
「宝石よ!」
リリアナは自分の指にはまった指輪を見せた。
それから、船から降ろされた荷物を振り返る。
「私の宝石も、お母様の宝石もあるわ。ドレスだって、王都で買った高いものばかりでしょう?」
母も、ほっとしたように胸元の首飾りへ触れた。
「そうね。使っていないものもたくさんあるわ」
「売ればいいのよ。屋敷を建てて、人を雇って、魔導師も呼んで。そのくらいのお金にはなるでしょう?」
「そうだな」
父も頷いた。
「王都で買ったものだ。役人に頼めば、王都の商人へ売れる。相応の値はつくだろう」
三人の顔に、ようやく安堵が戻った。
役人は何も言わなかった。
ただ、手元の見積書を静かに畳んだそうだ。
◇
そして、ひと月後。
家族が伯爵家を訪ねてきた。
応接室へ入ってきた姿を見て、私は一瞬、父だと分からなかった。
日に焼けた顔。
荒れた手。
上等だったはずの服の袖口には、落ちきらない泥の染みが残っている。
母も同じだった。
以前は毎日のように身につけていた首飾りも指輪もない。
手は赤く荒れ、爪の間には土が残っていた。
そして、リリアナ。
「あなた……リリアナ?」
思わず名前を呼んだ。
あれほど好きだった宝石を、一つも身につけていない。
華やかなドレスもなかった。
目の下には濃い隈があり、頬からは血の気が失われている。
「リリアナ、顔色が悪いわ」
妹は、私から顔を背けた。
その手にも、小さな擦り傷がいくつもある。
右の頬には、細い傷が走っていた。
「その傷は……?」
「薪を拾っていたら、枝が当たったの」
リリアナは気まずそうに頬を手で隠した。
私は何も言えなかった。
あの朝。
青白い私の顔を見て、この子は言った。
『ちゃんとお化粧したほうがいいわよ。そんな顔じゃ、伯爵夫人として見栄えが悪いもの』
けれど、今のリリアナを見ても、私は少しも『見栄えが悪い』とは思わなかった。
ただ、苦労したのだと思った。
「アリシア!」
父が、私の前で土下座した。
「頼む、ランデブルグに来てくれ!」
「……なぜですか」
「お前の結界があれば、人を呼べる。屋敷も建てられる」
「魔導師は?」
父の顔が歪んだ。
「雇うには、金がかかりすぎる」
「宝石やドレスを売ったと聞きましたが」
リリアナが唇を噛んだ。
母の手が、何もなくなった首元へ伸びる。
「ああ、売った」
父が答えた。
「……全部だ」
「それでも、足りなかったのですか」
「……足りなかった」
私は、目を閉じた。
あれほどたくさんあった宝石も。
リリアナが毎年新しく作っていたドレスも。
母が夜会のたびに揃えていた衣装も。
それらをすべて売っても、足りなかった。
私が十年間、一人で続けていたことには、それ以上のお金がかかっていたのだ。
「私がいなければ、できませんか」
「魔導師を何人も雇う余裕はない。だが、お前なら一人でできる」
「……そうですか」
私は、息を吐いた。
頭を下げても、父が欲しいのは、私の力だけだった。
「私の十年は、どうなるのですか」
父が顔を上げた。
あの夜と、同じ問いだった。
「……苦労をかけたとは、思っている」
「家を出るまで、一度も言ってくれませんでしたね」
「悪かった。だから今度は、きちんと――」
「今度は、ありません」
私は初めて、父の言葉を遮った。
「陛下には、皆さんの身分を残していただくようお願いしました。それが、私にできる最後のことです」
「結界だけでいいんだ。屋敷が建つまででもいい。少しだけ――」
「『少しだけ』と言われて、十年が過ぎました」
父は、黙った。
「十年間、私は家族のために生きました。倒れるまで」
私は父をまっすぐに見た。
「十一年目は、もう渡しません」
父が言葉を探しているあいだに、リリアナが前に出た。
「エドワード様!」
彼女は、私の隣に立つエドワード様を見上げた。
「今からでも、私を選んでください!」
「リリアナ嬢?」
「私のほうが、お姉様より七つも若いわ!」
私は妹を見た。
血の気のない頬。
目の下の隈。
枝でついた、小さな傷。
それでもリリアナは、まだ見た目にすがった。
「リリアナ嬢」
エドワード様は、私の手を取った。
「私は十年、アリシアを待った」
「十年も待ってあげたんだから、もう十分でしょう?」
リリアナは、すがるようにエドワード様を見つめた。
「そんな年増より、私のほうが若いし、魅力的だと思いませんか?」
「違うよ」
静かな声だった。
「十年待ってでも、アリシアがよかったんだ」
リリアナが、目を見開く。
「でも、お姉様のどこがいいの……」
「三年前の夜会で、彼女は自分も空腹なのに、夕食を抜かれた子に料理を渡した」
エドワード様は、私を見た。
「あの夜、やっぱり君と結婚したいと思ったんだ」
あの夜のことを、彼はずっと覚えていてくれた。
「アリシア。私は、君のそういう優しさが好きなんだ。でも、君までお腹を空かせることはない。これからは、困ってる人の分も私が用意するよ」
そして、まっすぐに言った。
「君が何かできるから、待ったんじゃない。君と生きたかったから、待ったんだ」
リリアナは、私たちのつないだ手を見つめていた。
何か言いかけた唇が、そのまま閉じた。
私は、握られた手を握り返した。
家族のために働かなければ、誰にも必要とされない。
ずっと、そう思っていた。
そんなことは、なかった。
「……お父様。港までの馬車をお呼びします」
私は、父に一礼した。
「ランデブルグまで、遠いですから」
父は、項垂れたまま何も言わなかった。
◇
半年後。
エドワード様と結婚した私は、伯爵家で穏やかな日々を送っていた。
窓から、巡回する騎士たちが見えた。
魔導師たちは、交代で防衛設備を点検している。
誰か一人が倒れるまで働かなくても、領地はちゃんと守れる。
「もしかして、また結界のことを考えていた?」
エドワード様に声をかけられて、私は振り向いた。
「……少しだけ」
「今日は、夕食のことを考えてほしいな」
「一緒に食べてくださいますか?」
「もちろん。ただし、自分の分はちゃんと食べること」
「お腹を空かせた人がいたら?」
「その人の分は、私が用意するよ」
私は、笑った。
「では、パンを二つ。二つとも、私が食べます」
「そうして」
失った十年は、戻らない。
それでも、エドワード様と迎える十一年目は、私のものだ。
お読みいただき、ありがとうございました!
少しでも「面白かった」「スカッとした」と感じていただけましたら、
ブックマークやページ下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、とても嬉しいです!
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▼ もう一作読みたい方へ
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ひたすらあったかい話が好きな方向け。
『「君といると、息が詰まる」と婚約破棄されたので実家に帰ったら、「なぜ、もっと早く帰ってこなかった!?」と泣かれました』
https://ncode.syosetu.com/n6317mt/
婚約破棄され、三年ぶりに実家へ帰ったクラリス。
父には怒られる。
母は悲しむ。
兄には呆れられる。
そう覚悟して帰った彼女を待っていたのは――
「なぜ、もっと早く帰ってこなかった!?」
と、泣いて迎えてくれる家族でした。
好物の林檎のパイも。
大切にしていた愛馬も。
そして自分の部屋も、三年前のまま。
帰る場所を失ったと思っていた女の子が、
自分の居場所はずっとなくなっていなかったと知るお話です。
あったかい読後感のお話がお好きでしたら、こちらもどうぞ。




