↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「見栄えが悪いから婚約者を譲れ」と言われたので、倒れるまで十年間守ってきた結界を捨てて家を出たら、家族が無人島送りになっていました

掲載日:2026/10/02

「お姉様、顔色が悪いわ」


 妹のリリアナは、私を見てそう言った。


 その朝、私は結界に魔力を注いだあと、廊下で倒れた。


 目が覚めたときには、昼を過ぎていた。


 指先はまだ冷たい。


「ちゃんとお化粧したほうがいいわよ。そんな顔じゃ、伯爵夫人として見栄えが悪いもの」


 心配してくれているのだと思って、私は頷いた。

 だが、まさかその夜、あんなことを言われるとは思ってもいなかった。


     ◇


「アリシア。エドワード殿との婚約を解消しなさい」


 夕食の席で、父が言った。

「代わりに、リリアナを伯爵家へ嫁がせる」


 私はフォークを置いた。

「……どうしてですか」


「お前には、この家に婿を迎える。相手はもう探してある」


 母が、いい知らせを伝えるように微笑む。

「商家の次男よ。あなたがこの家に残れば、結婚してからも結界を張れるでしょう?」


 向かいの席で、リリアナが小首を傾げた。

「ごめんなさい、お姉様。でも、伯爵夫人になるなら、やっぱり見栄えも大事だと思うの」


「リリアナ、言葉を選びなさい」

 母は妹をたしなめてから、私を見た。


「でも、最近のあなたは本当に顔色が悪いわ。エドワード様だって、十八歳のリリアナのほうが喜ぶかもしれないでしょう?」


 私は自分の手を見た。

 骨が浮いて、血の気がない。

 今朝、倒れたばかりの手だ。


「エドワード様には伝えたのですか?」


「彼だって、若い娘のほうがいいだろう」

 父は平然と言った。


「リリアナが代わりに嫁ぐなら、私はこの家に残って……結婚したあとも、結界を張れということですか」


「当然だ」


「いつまでですか」

「いつまで、とは?」


 父は、本当に分からないという顔をした。

「結界を張れるのは、お前だけだろう」


 そのとき、私はようやく知った。

 父の『もう一年』には、終わりがなかったのだ。


     ◇

 十五歳のとき、私に結界魔法の才があると分かった。


 我が家の子爵領は、魔物の棲む森と接している。


『代わりの魔導師が見つかるまで、少しだけ頼む』

 父にそう言われ、私は領地を囲む結界を張った。


 同じ年、隣の領地の伯爵家嫡男、エドワード様と婚約した。


 結婚は、私が十八歳になってからの約束だった。


 三年だけなら、家族も領民も守れる。

 そう思っていた。


 結界の強さを保つため、毎晩魔力を注いでいた。

 だから、領地を長く離れることもできない。


 十八歳になったとき、父は言った。

『まだ後任が見つからない。もう一年だけ頼む』


 私はエドワード様に手紙を書いた。

『もう一年、待っていただけますか』


 返事はすぐに来た。

『分かった。待っている』


 十九歳のときも。

 二十歳のときも。


 父は『もう一年』と言い、エドワード様は『待っている』と書いてくれた。


 婚約したときに顔を合わせてから、彼と直接会えたのは、三年前の夜会だけだった。


 父がやっと許してくれた、たった一晩の夜会。


 それもエドワード様とゆっくり話す間もなく、夜のうちに屋敷へ戻らなければならなかった。


 父は『結界が乱れるから』と、彼が屋敷を訪ねることも断り続けた。

 今思えば、やつれていく私を、彼に見せたくなかったのだろう。


 あとは、手紙だけが増えていった。


 二十二歳の冬、魔力を注いだあと、初めて立っていられなくなった。


 翌朝には動けたので、誰にも言わなかった。


 二十四歳の夏には、結界の前で倒れた。


 父に伝えると、こう返ってきた。

『明日までに回復するか?』


 私は『はい』と答えた。

 領民を守りたかったから。


 そして今朝、また倒れた。

 家族は、倒れた私を心配しなかった。


 それどころか。


 倒れた私の顔色を見て、婚約者を妹に譲れと言った。


     ◇


「私の十年は、どうなるのですか」

 私は父に尋ねた。


「大げさなことを言うな。家のためにしたことだろう」


 その一言で、分かった。


 父にとって、私の十年は、やって当たり前のことだった。


 倒れながら領民を守ったことも。

 エドワード様を十年待たせたことも。

 私が、十年待ち続けたことも。

 何一つ、数えていなかった。


「分かりました」


 父が満足げに頷く。

「そうか、分かってくれたか」


「はい。この家を出ます」


 ガタン、と大きな音がした。

 気がつけば、父が椅子を跳ねのけて立ち上がっていた。


「結界はどうするんだ!?」


「すぐには消えません。結界はひと月ほどかけて薄れていきますから、その間に魔導師を雇ってください」


「ひと月では足りん!」


「十年間、探していたのではないのですか?」

 父は口を開けたまま、答えなかった。


「まさか……探して、いなかったのですか」

「お前がいるのに、わざわざ高い金を払って雇う必要があるか」


 私は、もう何も聞かなかった。


「ひと月あれば、領民を避難させることもできます。それだけは、必ずしてください」


 父の返事はなかった。


「さようなら、お父様」


 自室に戻り、結界へ伸ばしていた魔力を断った。


 十年間、眠るときも起きるときも、身体のどこかを引っ張り続けていた糸が、ぷつりと切れた。


 窓の外には、まだ結界が見えている。


 ひと月は保つ。


 その先まで、私一人で背負うことは、もうできなかった。


     ◇


「断る!」

 エドワード様は即答した。


 伯爵家に着いて、私は全部話した。


 倒れたこと。

 婚約者を妹に替えろと言われたこと。

 家を出てきたこと。


「でも、リリアナは若くて、社交界でも評判がよくて……」


「リリアナ嬢が若いかどうかなんて、私には関係ない。アリシア、私は君を何年待ったと思っている?」


「……十年です」

「そう。君が来るのを、十年待った」


 エドワード様は、当たり前のことのように言った。


「どうして今さら、ほかの人を選ぶと思っているんだ?」

「でも、私は今、こんな酷い姿で」

「酷い姿?」


 彼は、私の冷たい手を包んだ。


「酷いのは、君が倒れるまで働かされていたことだ。君の姿じゃない」


 包んだ手の冷たさに、眉をひそめた。

「冷たい。最後にちゃんと食べたのは、いつ?」


「昨日、パンを……半分ほど」

「マリー、温かいスープを頼む!」


 運ばれてきたスープを一口飲むと、身体の奥がゆっくり温まった。


「全部飲めなくていい。今は、自分の分を食べて」

「自分の分……」

「君は、すぐ人に譲ってしまうから」


 意味が分からずにいると、エドワード様は三年前の夜会の話をした。


 あの夜、皿を割った罰で夕食を抜かれた給仕の少年がいた。

 私はその子に、自分の料理を渡したのだという。


 言われて、ようやく思い出した。


「私は、帰れば食べられましたから」

「そう言うと思った」


 彼は困ったように笑った。


「でも、今日は君が食べる番だ」


 私はもう一口、スープを飲んだ。


 彼は、私さえ忘れていたようなことを覚えていてくれた。


 そんな私を、十年も待っていてくれた。

 ……泣きそうになった。


「エドワード様。一つだけ、お願いがあります」

「何でも」

「実家の領民の避難を、王宮へ知らせていただけませんか。父が動くとは、思えないので」

「分かった。すぐに王宮へ知らせよう」


 エドワード様は頷き、その日のうちに王宮へ使いを出してくれた。


     ◇


 伯爵家に来てから、夜通し眠れるようになった。

 それでも最初の数日は、明け方に飛び起きた。


「結界に、魔力を……」

「ここには、君の結界はないよ」


 エドワード様が、窓へ伸ばした私の手を下ろしてくれる。


「うちの領地は、魔導師と騎士が交代で守っている。結婚してからも、君が結界を張る必要はないよ」


 そう言われても、すぐには安心できなかった。


 一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。


 朝まで眠り、三度の食事を取る。

 そんな暮らしにようやく慣れたころ、鏡を見て驚いた。


 頬に血色が戻っている。

 目の下の隈も薄くなっていた。


「少しは、見栄えがよくなったでしょうか」


 私の髪をとかしていた侍女が、手を止めた。

 後ろにいたエドワード様が、鏡越しに微笑む。


「うん。顔色もよくなったし、とてもきれいだ」

「……本当ですか?」

「本当だよ。君が元気になってくれて、嬉しい」


 鏡の中で、彼と目が合った。


「それに、君が人を思いやるところは、婚約した頃から変わらない。私は、そんな君がずっと好きだったんだ」


 なぜだろう。


 彼の言葉を聞いた瞬間、胸に熱いものが込み上がってきた。


     ◇


 ひと月が過ぎる前に、魔導院の術師が私を訪ねて来た。


 実家の結界が消えると聞いて、代わりに必要な魔導師の数を調べているという。


「子爵領全域を、お一人で十年ですか?」


 私は頷いた。


「交代は?」

「ありません」

「休みは?」

「……倒れた翌朝に、少しだけ」


 術師はしばらく黙り込み、それから私の手を見た。


「顔色が悪くなる。痩せる。髪が傷む。どれも、魔力を使いすぎたときの症状です」

「では、年齢のせいでは……」

「違います」


 私は椅子の上で動けなくなった。


 家族が『見栄えが悪い』と言った私の姿は、領地を守るうちに、こうなったのだ。


 エドワード様が、私の手を握った。


「アリシア。君は何も悪くない」


 その言葉に、涙があふれて止まらなくなった。


 数日後、調査の結果が届いた。


 同じ広さの結界を保つには、常駐の魔導師と交代要員が何人も要る。

 騎士の巡回も欠かせない。


 けれど子爵家は、十年間、その費用を払っていなかった。

 私が一人で働いていた分、防衛費が浮いていたのだ。


 その間に、母の夜会の衣装は増えた。

 リリアナのドレスも、宝石も、年々増えていった。


 私の頬がこけていくあいだに、妹は美しく着飾っていた。


 報告書を前にして、私は初めて怒りを覚えた。

 私の十年は、消えたのではない。


 家族が、使っていたのだ。


     ◇


 父から手紙が届いた。

『すぐに戻れ。義務を果たせ!』


 返事は書かなかった。


 代わりに、伯爵家が王宮へ報告を届け、魔導院も調査結果を送った。


 やがて結界が薄れ、森の魔物が領地の境に姿を見せ始めた。


 けれど、住民はすでに避難していた。

 エドワード様の知らせを受けて、王宮が先に動いてくれたのだ。


 魔物による犠牲者は、一人も出なかった。


 そのあいだ父がしたことは、一つだけだった。

 私を連れ戻すための、王宮への訴えだ。


『娘を連れ戻していただきたい。娘さえ戻れば、すぐに結界を張れます』


 王は、父を呼び出した。


     ◇


 私もエドワード様とともに、王宮へ呼ばれた。


「アリシアは、我が領の結界に欠かせぬ娘です!」

 玉座の前で、父は声を張り上げた。


「十年間、その娘一人に守らせていたのか」

「はい。娘にはその才がございますので」

「その間、後任は探したか」


 父の声が止まった。


「娘が倒れたことは、知っていたか」

「……以前にも一度。しかし、翌日には動けておりました」


 王のそばに控えていた術師が、前へ出た。


「陛下。ご令嬢が痩せたのも、顔色が悪いのも、長年の魔力の使いすぎが原因です」


 王は父を見据えた。


「……そなたは、倒れるまで領地を守っていた娘に、婚約者を譲れと言ったのだな」

「アリシアは……伯爵夫人にしては、見栄えが悪く」


 そこまで言って、父は口を閉じた。

 ようやく、気づいたのだろう。


 私が守ったから、家にお金が残った。

 私が守ったから、リリアナは着飾れた。

 私が守ったから、私は『見栄えが悪く』なった。


 王が、低い声で続けた。


「領地を守るのは、領主の義務だ。それを十年間、娘一人に押しつけた。後任すら探さずにな」

「で、ですが、娘さえ戻れば――」


 王の表情が変わった。


「愚か者がぁ!!」


 大広間が震えた。

 父の肩が跳ねる。


「まだ娘に頼るか!」


 父は何も答えられなかった。


「十年間、領地を守り、民を守ったのは娘だ。領主のそなたは何をした!」


「わ、私は……」


「答えよ!」


 父の口が開いた。

 だが、声は出なかった。


「娘が倒れても代わりを探さず、その娘が痩せ細った姿を『見栄えが悪い』と蔑み、婚約者まで妹に譲らせようとした」


 王が玉座から立ち上がった。


「そして娘が去った今、そなたが考えたことは何だ? 代わりを探すことですらない。娘を連れ戻すことだ!」


 王の声が、大広間を震わせた。


「娘ひとりに養われておきながら、何が領主か!」


 父の顔から、血の気が引いた。


「そのような無能に、領地など任せられん!」




「本日をもって、そなたの領地は王家預かりとする」 




 こうして、実家の領地は王家が預かることになった。


 王宮が魔導師と騎士を雇い、避難した人々を村へ戻すという。


 さらに、私は前もって、王に願い出ていた。

 家族から身分まで奪ってほしいわけではない、と。


「……ゆえに、道を二つ示す」


 王が言った。


「爵位を返して平民となるか。子爵のまま、北のランデブルグへ移るか。幸い、ランデブルグは森が広く、水も豊かな土地だ」


 父と母が、顔を見合わせた。


「爵位を……残していただけるのですか」

「うむ。ただし、あの土地は――」

「お父様、そちらにしましょう!」


 リリアナが、父の袖を引いた。


「平民になるより、ずっといいわ!」


 父は、王に深々と頭を下げた。


「ランデブルグへの転封、謹んでお受けいたします!」


「本当に……よいのか」


「はい! ありがたいお話にございます!」


 王はしばらく父を見つめた。

 それから何も言わず、書類に印を押した。


     ◇


 ここからは、ランデブルグへ同行した役人から、後日聞いた話だ。


 数日後、父たちを乗せた馬車が港に着いた。

 目の前には、海が広がっていた。


「ここがランデブルグか?」


 父が、案内の役人に尋ねた。


「いいえ。ここから船に乗り換えます」

「船? ランデブルグへ行くのではないのか」

「はい。ランデブルグは沖にある、王家直轄の無人島でございます。このたび、皆様の領地となりました」


 三人が黙った。


「……無人島?」


「はい」

「聞いていないぞ!」

「陛下は、ご説明なさろうとしていましたが」


 父は、口を開けたまま黙った。


「で、でも」

 リリアナが、父の袖を引いた。

「王家の土地だったのでしょう? だったら、屋敷くらいあるはずよ」


 母も頷いた。

「そうね。王家の別荘があるのかもしれないわ」


「……そうだな」

 父は、上着の襟を直した。


「島一つが我が領地になるのだ。悪い話ではない」

 三人は船に乗った。


     ◇


 数時間後、船はランデブルグ島に着いた。

 小さな船着き場の向こうには、森が広がっていた。


 どこまで見ても、森だった。


「屋敷はどこだ?」

 父が、役人に尋ねた。


「ございません」


「では、村は?」

「ございません」


「……本当に、誰も住んでいないのか?」

「はい。領民は零人です」


 父の顔から、表情が消えたという。


「人口が……零?」

「まだ誰も開拓していない土地ですので」


「自然が豊かだと聞いた!」

「ご覧のとおり、森は豊かでございます」


「水もあると!」

「川が三本ございます。飲むときは煮沸してください」


「じゃあ、食事はどうするのよ!」

 リリアナが叫んだ。

「当座の食糧はお持ちしております。そのほか、森には木の実、川には魚がございます。狩りの道具もお届けできます」


「誰が狩るの!?」

 役人は、三人の顔を順に見た。

「今のところ、領民がおりませんので……」


 リリアナは、言葉を失った。


「宿は?」

 母が尋ねた。

「ございません」


「食事を作る使用人は?」

「おりません」


「買い物は?」

「店がございません」


 三人とも黙った。


 日が暮れて、役人が用意した天幕に入った。


 森の奥で、何かが吠えた。

 三人は、天幕から一歩も出られなくなった。


「け、結界を張る魔導師を雇え!」

 父が叫ぶと、役人が見積書を差し出した。


「王宮に依頼はできます。なお、島全体を守る場合の費用は、こちらです」

 父は金額を見て、固まった。


「……これを、毎年?」

「魔導師を交代させますので。騎士の巡回は、また別にかかります」


「アリシアは、一人でやっていたぞ」

 役人は、何も答えなかった。


 リリアナが父の手から見積書を奪った。

「こんなの、払えるわけないじゃない!」


 けれど、しばらく数字を見つめたあと、何かを思いついたように顔を上げた。


「……あ。お金ならある!」

「何を言っている?」

「宝石よ!」


 リリアナは自分の指にはまった指輪を見せた。

 それから、船から降ろされた荷物を振り返る。


「私の宝石も、お母様の宝石もあるわ。ドレスだって、王都で買った高いものばかりでしょう?」


 母も、ほっとしたように胸元の首飾りへ触れた。

「そうね。使っていないものもたくさんあるわ」

「売ればいいのよ。屋敷を建てて、人を雇って、魔導師も呼んで。そのくらいのお金にはなるでしょう?」


「そうだな」

 父も頷いた。


「王都で買ったものだ。役人に頼めば、王都の商人へ売れる。相応の値はつくだろう」


 三人の顔に、ようやく安堵が戻った。

 役人は何も言わなかった。


 ただ、手元の見積書を静かに畳んだそうだ。


     ◇


 そして、ひと月後。


 家族が伯爵家を訪ねてきた。


 応接室へ入ってきた姿を見て、私は一瞬、父だと分からなかった。


 日に焼けた顔。

 荒れた手。

 上等だったはずの服の袖口には、落ちきらない泥の染みが残っている。


 母も同じだった。

 以前は毎日のように身につけていた首飾りも指輪もない。

 手は赤く荒れ、爪の間には土が残っていた。


 そして、リリアナ。


「あなた……リリアナ?」

 思わず名前を呼んだ。


 あれほど好きだった宝石を、一つも身につけていない。

 華やかなドレスもなかった。

 目の下には濃い隈があり、頬からは血の気が失われている。


「リリアナ、顔色が悪いわ」

 妹は、私から顔を背けた。


 その手にも、小さな擦り傷がいくつもある。

 右の頬には、細い傷が走っていた。


「その傷は……?」

「薪を拾っていたら、枝が当たったの」


 リリアナは気まずそうに頬を手で隠した。

 私は何も言えなかった。


 あの朝。

 青白い私の顔を見て、この子は言った。


『ちゃんとお化粧したほうがいいわよ。そんな顔じゃ、伯爵夫人として見栄えが悪いもの』


 けれど、今のリリアナを見ても、私は少しも『見栄えが悪い』とは思わなかった。


 ただ、苦労したのだと思った。


「アリシア!」

 父が、私の前で土下座した。


「頼む、ランデブルグに来てくれ!」

「……なぜですか」

「お前の結界があれば、人を呼べる。屋敷も建てられる」


「魔導師は?」

 父の顔が歪んだ。


「雇うには、金がかかりすぎる」

「宝石やドレスを売ったと聞きましたが」


 リリアナが唇を噛んだ。

 母の手が、何もなくなった首元へ伸びる。


「ああ、売った」

 父が答えた。

「……全部だ」


「それでも、足りなかったのですか」

「……足りなかった」


 私は、目を閉じた。


 あれほどたくさんあった宝石も。

 リリアナが毎年新しく作っていたドレスも。

 母が夜会のたびに揃えていた衣装も。

 それらをすべて売っても、足りなかった。


 私が十年間、一人で続けていたことには、それ以上のお金がかかっていたのだ。


「私がいなければ、できませんか」

「魔導師を何人も雇う余裕はない。だが、お前なら一人でできる」

「……そうですか」


 私は、息を吐いた。


 頭を下げても、父が欲しいのは、私の力だけだった。


「私の十年は、どうなるのですか」


 父が顔を上げた。

 あの夜と、同じ問いだった。


「……苦労をかけたとは、思っている」

「家を出るまで、一度も言ってくれませんでしたね」


「悪かった。だから今度は、きちんと――」

「今度は、ありません」


 私は初めて、父の言葉を遮った。


「陛下には、皆さんの身分を残していただくようお願いしました。それが、私にできる最後のことです」


「結界だけでいいんだ。屋敷が建つまででもいい。少しだけ――」

「『少しだけ』と言われて、十年が過ぎました」


 父は、黙った。


「十年間、私は家族のために生きました。倒れるまで」


 私は父をまっすぐに見た。


「十一年目は、もう渡しません」


 父が言葉を探しているあいだに、リリアナが前に出た。


「エドワード様!」

 彼女は、私の隣に立つエドワード様を見上げた。


「今からでも、私を選んでください!」

「リリアナ嬢?」

「私のほうが、お姉様より七つも若いわ!」


 私は妹を見た。


 血の気のない頬。

 目の下の隈。

 枝でついた、小さな傷。


 それでもリリアナは、まだ見た目にすがった。


「リリアナ嬢」


 エドワード様は、私の手を取った。

「私は十年、アリシアを待った」


「十年も待ってあげたんだから、もう十分でしょう?」


 リリアナは、すがるようにエドワード様を見つめた。


「そんな年増より、私のほうが若いし、魅力的だと思いませんか?」


「違うよ」


 静かな声だった。


「十年待ってでも、アリシアがよかったんだ」


 リリアナが、目を見開く。

「でも、お姉様のどこがいいの……」


「三年前の夜会で、彼女は自分も空腹なのに、夕食を抜かれた子に料理を渡した」


 エドワード様は、私を見た。


「あの夜、やっぱり君と結婚したいと思ったんだ」


 あの夜のことを、彼はずっと覚えていてくれた。


「アリシア。私は、君のそういう優しさが好きなんだ。でも、君までお腹を空かせることはない。これからは、困ってる人の分も私が用意するよ」


 そして、まっすぐに言った。


「君が何かできるから、待ったんじゃない。君と生きたかったから、待ったんだ」


 リリアナは、私たちのつないだ手を見つめていた。


 何か言いかけた唇が、そのまま閉じた。


 私は、握られた手を握り返した。


 家族のために働かなければ、誰にも必要とされない。


 ずっと、そう思っていた。


 そんなことは、なかった。


「……お父様。港までの馬車をお呼びします」


 私は、父に一礼した。


「ランデブルグまで、遠いですから」


 父は、項垂れたまま何も言わなかった。


     ◇


 半年後。


 エドワード様と結婚した私は、伯爵家で穏やかな日々を送っていた。


 窓から、巡回する騎士たちが見えた。

 魔導師たちは、交代で防衛設備を点検している。

 誰か一人が倒れるまで働かなくても、領地はちゃんと守れる。


「もしかして、また結界のことを考えていた?」


 エドワード様に声をかけられて、私は振り向いた。


「……少しだけ」

「今日は、夕食のことを考えてほしいな」

「一緒に食べてくださいますか?」

「もちろん。ただし、自分の分はちゃんと食べること」

「お腹を空かせた人がいたら?」

「その人の分は、私が用意するよ」


 私は、笑った。

「では、パンを二つ。二つとも、私が食べます」

「そうして」


 失った十年は、戻らない。


 それでも、エドワード様と迎える十一年目は、私のものだ。


お読みいただき、ありがとうございました!


少しでも「面白かった」「スカッとした」と感じていただけましたら、

ブックマークやページ下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、とても嬉しいです!





━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▼ もう一作読みたい方へ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


ひたすらあったかい話が好きな方向け。


『「君といると、息が詰まる」と婚約破棄されたので実家に帰ったら、「なぜ、もっと早く帰ってこなかった!?」と泣かれました』

https://ncode.syosetu.com/n6317mt/


婚約破棄され、三年ぶりに実家へ帰ったクラリス。


父には怒られる。

母は悲しむ。

兄には呆れられる。


そう覚悟して帰った彼女を待っていたのは――


「なぜ、もっと早く帰ってこなかった!?」


と、泣いて迎えてくれる家族でした。


好物の林檎のパイも。

大切にしていた愛馬も。

そして自分の部屋も、三年前のまま。


帰る場所を失ったと思っていた女の子が、

自分の居場所はずっとなくなっていなかったと知るお話です。


あったかい読後感のお話がお好きでしたら、こちらもどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
パパは苦労してちょっとだけ娘に対する申し訳無さがわいたけど、妹はこの期に及んで年増とか変わらないな若いのに。まぁ両親のせいではあるが。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。