花を嫉む
美しい花を咲かせる植物は、その花を愛でられることも実に多くある。
歌に歌われるように花の美しさとは本当に様々あり、その好みも個々人で違う。だから大抵の花は、咲いている間はそれを好きだという人に価値を保証してもらえる。
では、美しい花をつけない植物は。それを思うとき、人の心からその存在を排される植物たちのことを、何処となく寂しく感じる。そして、花の美しさで植物に何がしかの線引きをしている人の心そのものに、どこかバツが悪いような、後ろめたいような心持ちがする。
植物が自らの生に懸命なのか、そこまでは分からないが、少なくとも、本分を忘れて虚ろな生き方をすることはない。それなのにヒトと来たら、瞬間瞬間の苦労をやり過ごしやり過ごしするうちに死んでいたり、後に何も残らない享楽に溺れるうちにその命の大部分を使い切ってしまっていたりする。
たとえ花がみすぼらしかったとしても、植物は意味のない行いに忘我し愚かを積み重ねないぶん、ヒトより尊敬すべきかもしれない。もっとも、こんなことを言いながら私も3日ほど前に村の共有農道に除草剤をまいた。雨に混じってそれは根から吸われ、よく効いて、草は薬剤に弱い順に枯れて死んでいく。
植物のひたむきな生を、邪魔だからと破壊する行い。果たしてそれはヒトからそれ以外の命に向ける傲慢なのだろうか。
もしも傲慢だというならば、ヒトもまたヒトどうしで、頑張りを虚仮にして冷笑してみたり、もっと酷ければ他人の出した成果を横取りしたり、何かをしてもらって感謝どころか文句をつけたりだとか、そういう目を覆うような醜さもまた、花を愛するくせ雑草を疎むヒトの心情の、延長線上にあるとは言えないだろうか。
平等にすべてを尊ぶことなど出来はしない。それはヒトというものの心の形の話だし、もっと言えば生命というものの根源的な欠陥そのものだ。我々は皆何かを愛する裏で愛せない何者かを自覚すらなく排撃し続けている。
だから、というのもおかしいのだが、私自身が排撃される立場になったり、排撃される悲劇的な偶然に立ち会ってしまった時には、私を排撃してくる何者のことも、恨まずいられはしないだろうかと、あり得るかもしれない将来の自分に祈りを捧げてみたりする。さんざん線引きをしまくって、命に値札をつけてきたのだから。
その順番が自分に回ってきた時には、せめて静かに、それを受け入れてその価値に甘んじたり、あるいは、皆の目に入らぬところで静かに死ねと言われる時には、まあ仕方がないかと笑って、この社会というものから静かに消えていけるのだろうか。
ああ、だから。花がうらやましい。生きるように生きて、咲いて、それが愛されるという存在に嫉妬する。誰かを隣人の枠から蹴り出さずにいられる生のあり方がうらやましい。
今年も、暇庭のご近所には初冬まで何がしかの花が咲いている。照らされた光に影が延びるように、美しい花たちは今日も暇庭の、心の奥の薄暗さを少しずつざわめかせるのだ。
花は好きだけど嫌いだ。自分自身の生き方のいい加減さとか、醜さを晒されるような心持ちになるから。
まさかこんなことは口に出して言えるはずもない。でもなろうでならこれが書けるから。それはきっとこの上なくうれしいことなのだ。




