第8話:香に問う嘘
雨が降った翌朝の後宮は、しっとりとした土の香りに包まれていた。
濡れた石畳の冷たさが、歩くたびに足裏から伝わってくる。
梨花は、蓮妃から受け取った香包を手に、静かに歩いていた。
(“審香”……まさか、後宮でこの技を使うことになるとは)
香によって、嘘を暴く。
香道の家に生まれた梨花にとって、それは禁じ手に近いものであり、同時に、最も効果的な術でもあった。
しかも今回は――
(林苑も、立ち会う)
それは蓮妃の“指示”でもあった。
「真実を知るに値する者を、立ち会わせなさい」。そう言われたとき、梨花の頭に浮かんだのは林苑だけだった。
小さな離れの一室。
香炉が中央に据えられ、三人の女官がそれを囲むように座っていた。
立ち会うのは、梨花、林苑、そして蓮妃の側仕えだった桂花。
問題の香炉を扱える者の一人であり、なおかつ“怪しい行動”をしていた人物でもある。
香包をくべると、微かに甘く、湿った煙が立ちのぼる。
龍脳と紅花、沈香に、雀の舌ほどの麝香――
その匂いは、心を沈めると同時に、嘘を吐く者の身体を敏感に反応させる。
「香の名は“真祈”。虚に触れれば、息が乱れ、鼓動が逸れます」
梨花の声は、驚くほど静かだった。
桂花は最初、落ち着いているように見えた。
だが数刻もすると、指先が微かに揺れ、喉元に手を当てて咳をこらえる仕草を見せる。
(来た……反応が出ている)
梨花は視線を逸らさず、そっと問う。
「桂花殿。妃さまの香炉がすり替えられた当夜、あなたは寝所におりましたか?」
「……ええ、もちろん」
「妃さまの私室の香を変えた者は、ご存知ありませんか?」
「……知りません」
その瞬間、桂花のまつ毛がぴくりと震えた。
林苑がそっと、横目で梨花を見た。
わずかに首を振り、梨花はさらなる問いを続ける。
「妃さまが“紅花”の香を用いていたこと、ご存知でしたね?」
「それは……ええ。昔からお好きでしたから」
「ならば、その意味も?」
今度は、桂花の呼吸が明らかに浅くなった。
唇がわずかに乾き、目元に緊張が走る。
「あなたが……妃さまの子を“妨げよう”としていたとすれば?」
桂花の全身が、びくりと震えた。
「――違います! 私がやったのではありません、でも……」
思わず漏れた言葉に、梨花と林苑は息を呑んだ。
「では、誰が?」
桂花はうつむき、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと、言った。
「……香をすり替えたのは、芍薬さまです」
梨花は、その名を聞いて、一瞬だけ思考が止まった。
「芍薬妃……。第二妃、ですね?」
「はい。……でも、妃さまご自身が止めたのです。『余計なことは言わないように』と」
「なぜ黙っていたのですか?」
桂花は震える声で答える。
「妃さまは、かつて芍薬妃の命を助けたことがあるのです。芍薬さまは、それに恩義を感じて……でも、ある日から変わってしまった」
恩と、憎しみと。
そのねじれた感情が、“香”を通して暴かれた。
「……やっぱり、香は嘘を暴くんだな」
審香の儀の後、林苑が呟いた。
「ただ暴くだけでは、真実にならないけれど」
梨花は、ぽつりと答えた。
「香は“反応”しか示さない。何に反応したかは、人の言葉で見極めるしかないのよ」
それは、まるで人の心のようだ。
匂いは嘘をつかない。でも、嘘のない匂いも、真実とは限らない。
林苑は腕を組んで、うーんと唸った。
「なんだか余計にややこしくなった気がするな……。でも、桂花殿の言葉は嘘じゃなかった。おまえの香がそれを証明してた」
「ええ。でもまだ“主犯”がわかったわけじゃない」
「芍薬妃が、なぜ蓮妃に毒を仕込もうとしたのか。それが鍵か」
林苑の言葉に、梨花は黙って頷いた。
(そして蓮妃は、それを知りながらも黙っていた)
その沈黙の理由を知ることができれば、この事件の本当の意味が見えてくる。
香が告げた“半分の真実”を越えて、もう一歩――
そのときだった。
「梨花様。帝がお呼びです」
女官の声が、控えの間に響いた。
梨花と林苑が顔を見合わせる。
「……どうやら、事件はまだ終わらないようね」
梨花はそっと香包を懐にしまい、立ち上がった。