第7話:紅花に沈む記憶
蓮妃の私室には、香とは違う匂いが満ちていた。
それは――紅花の香り。
乾いた花弁を煎じたときの、ほのかな苦味と、僅かな土の香り。薬草に慣れた梨花には、すぐにそれがわかった。
(紅花……血の巡りをよくし、月の巡りにも効く。……でも、過ぎれば子を宿しにくくなる)
意味を知っている者ほど、息を飲む香だ。
「妃さまは、いつもこの香りをお好みなの?」
さりげなく聞いたつもりだった。
けれど蓮妃は、長いまつ毛を伏せて、ゆっくりと答えた。
「ええ。昔から、紅花の香りは落ち着くの。母がいつも、煎じてくれたから……」
それきり、沈黙が落ちた。
梨花は思わず、紅花の煎じ茶に指を添えた。ぬるくなった茶の香りが、微かに胸を刺す。
「……妃さま。お身体の具合、よくないのですか?」
問いかけは、どこまでも慎重に。
だが、蓮妃は笑った。
「いいえ。悪くないわ。ただ、良くもならないだけ」
まるで、痛みそのものに慣れきった人のようだった。
林苑は後ろで言葉を飲み込んでいる。おそらく、梨花と同じ推測をしていた。
(蓮妃は、子を望まぬのではなく、望んでも授かれない。しかもそれは、意図的に――)
梨花は膝の上で手を重ねた。
後宮の妃たちは、帝の寵を受けるために競う。けれどその一方で、あえて“子を持たぬ身”を選ぶ者もいる。
――いや、選ばされた者も。
「……あの香炉、入れ替えたのは、あなたですね?」
その声は、まるで風のように静かだった。
けれど確かに、妃の胸の奥を射抜く鋭さを持っていた。
蓮妃は視線を落としたまま、黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「違うわ。私じゃない。でも……知ってた。気づいていたのに、黙っていた」
告白とも言えぬその言葉に、林苑が息を呑む。
「なぜ、黙っていたのですか」
問うと、蓮妃はふっと笑った。
「ねえ、薬師。命を助ける人は、“壊したくなる命”を見たことがある?」
梨花は、何も答えられなかった。
答えてはいけない気がした。
蓮妃は自嘲気味に言った。
「この後宮は、嘘ばかり。真実を知ってる者ほど、生きづらくなるのよ。私も、あなたも」
その言葉に、梨花の胸に不思議な痛みが走った。
蓮妃が毒を仕組んだ張本人ではない――それは確かだ。
だが、彼女は“知っていた”。誰が毒を仕込んだのか。そして、それによって誰が苦しむのかを。
(なのに……なぜ、それを黙っていた?)
そこには、もっと根深い事情がある。
蓮妃の過去、あるいは“誰か”への復讐か。いや、もしかして――。
「梨花。あなたは、誰かを守るために動いているの?」
蓮妃の言葉に、梨花は一瞬、返答に詰まった。
(守る……? 誰を?)
死者か。生者か。
それとも――かつての自分か。
「いいえ。私はただ、嘘の上に立った真実が、また誰かを殺すのを見たくないだけです」
その返答に、蓮妃は目を細めた。
「そう。……それなら、もう一つ、あなたに見せたいものがあるの」
そう言って、蓮妃は机の引き出しから、小さな香包を取り出した。
それは、干した紅花と、沈香、そして少しの龍脳を混ぜたもの。
普通の香とは違い、火にかけると煙ではなく、粘るような香気を放つ。
「この香、焚いてごらんなさい。……そうすれば、誰が“嘘を吐いていたか”わかるわ」
その香に、梨花は目を見開いた。
(――これは、“審香”用の香だ)
嘘をついている者が吸えば、心拍が乱れ、呼吸が浅くなる。ほんの微細な変化だが、見抜ける者には、はっきりと見える。
それは、まさに“香の取り調べ”。
この後宮で、誰が本当に何を知っていたのか。香が真実を暴く日が、近づいていた。