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第39話:花影の調薬

 診療院の一室、薄曇りの朝。

 ユウは黙って椅子に腰掛けたまま、掌に残る微かな感触を反芻していた。


 (あの文様……竜胆の影紋……。記された意味は、あまりにも重い)


 昨日、古文書に記された解読の一節。

 それはただの知識の断片ではなく、一族に伝わる“毒と血”の記憶だった。


 ——影紋は、口伝で語るには重すぎる。

 ——ゆえに、薬と共に封じられた。


 「……毒というより、“継承”なのね」


 ぽつりと漏れた言葉に、誰も返す者はいない。

 ただ、机の上の壺から漂う薄荷の香りだけが、静かな朝に沁みていた。



 後宮の花園では、ちょうど牡丹が咲き始めていた。

 その艶やかな色彩とは裏腹に、花守たちの顔色は冴えない。


 「先ほど、また一人……中官が倒れたと」


 報せに、ユウはすぐに腰を上げた。


 向かったのは、文庫の脇にある小さな離れ。

 倒れたという中官は、目を閉じたまま苦悶の表情を浮かべていた。


 「……腹の張り、唇の蒼白、手の震え……」


 ユウの眼差しが鋭くなる。脈を診て、息の浅さを確かめ、唇の裏に滲む微かな痣を見て──。


 (これは、以前も見た症状。竜胆の根から抽出される“微量毒”……)


 ユウは診療袋からすぐに解毒薬の調合に入る。


 (でもこの症状、わずかに変化している。以前より……複雑)


 調合しながらも、心に引っかかりが残った。


 (毒の構成が少し違う。わざと変化を加えてきてる?)


 毒の発信源はただの事故や粗雑な使用ではなく、意図的な“試行錯誤”。

 ──まるで、調薬の実験をしているかのように。



 夜、診療院の奥室。

 ユウは書棚の中から一冊の記録帳を取り出していた。


 それは宮廷内で調薬を許された人物の記録。

 薬官、侍医、そして……その中に、一つ見覚えのある名を見つけた。


 「霜影そうえい……この人も、影紋の系譜に連なる人だったはず」


 彼女の記憶の奥底。

 まだ辺境の薬館で過ごしていた頃、名もない古書にひっそりと挟まれていた手紙の主。それが霜影という名だった。


 (もし、霜影が後宮に戻ってきているなら、これは……)


 ページをめくる手がわずかに震える。

 知らぬ間に、彼女の中で「毒」とは、ただの薬理の問題ではなく、血と記憶、そして生き様を問う存在になっていた。



 翌朝。

 ユウは密かに、ある人物を訪ねた。


 後宮でも風変わりな存在として知られる、老薬官・緋霞ひかすみ


 「おやおや、わざわざこんな朝早くに来るとは。……毒の匂いでも追ってきたかね?」


 彼女は笑いながらも、その眼差しはどこか鋭い。


 「緋霞さま、影紋について教えていただきたいのです」


 その名を出した瞬間、部屋の空気が一瞬、張り詰めた。


 「……あれは、忘れるべきものだ。語るには“代償”がいる」


 「それでも、聞かなければなりません。誰かが毒を操り、命を弄んでいる。私が知れば、止められるかもしれない」


 そう口にした自分の声が、震えていることにユウ自身も気づいた。


 緋霞はしばらく沈黙し、やがて小さく笑った。


 「強くなったね。ずいぶん。じゃあ、その覚悟、確かめてやろうか」



 その夜。


 ユウは一人、花園に佇んでいた。

 牡丹の香が濃く、まるで毒そのもののようにむせ返る。


(この香りも……混ぜれば毒となる。美しさと恐ろしさは、紙一重)


 手には新たに記された影紋の写し。


 (あの人が残したのは、毒でも、薬でもない。ただ——「選択」だった)


 ユウは深く息を吸い、目を閉じる。


「私は、薬を選ぶ。誰かを殺すためではなく、生かすために」


 月の光が、彼女の手の薬包紙を淡く照らした。

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