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第36話:白蓮の影

 薄曇りの空の下、梨花は禁書庫から戻る足を止めた。重たい扉の向こうで目にした、削り取られた記録と「白蓮」の名。それが、ずっと胸の内に残っている。


(白蓮――蓮妃の侍女であり、処罰されたはずの女。なぜ今、その名が浮かぶのか)


 梨花は歩を止め、ふと自問する。


(誰が、なぜ白蓮の記憶を妃から“封じた”のか?)


 考えを巡らせていたそのときだった。背後に、衣擦れの気配。振り向くと、ひとりの女官が立っていた。


 地味な紺の服。伏し目がちだが、ただならぬ気配を纏っている。


「あなたが……梨花様?」


「そうです。どちらさま?」


 女官は一礼し、そっと小さな紙束を差し出した。


「……“彼女”から、これを」


「“彼女”? 白蓮……?」


 その名を出すと、女官は一瞬、表情を強張らせた。だが何も言わず、身を翻して去っていく。


(待って――でも追ってはいけない)


 梨花は紙束を握りしめ、脇道の小屋へと身を移す。周囲に人影はない。静かに紙を開いた。


 それは、白蓮の筆跡だった。


《私は生きている》


《妃を守るため、私は“死んだふり”を選んだ》


《だが、涅槃香を仕組んだ者が再び動き出した》


《……梨花殿、妃の記憶を“全て”取り戻すなら、明日の寅の刻、梅苑に来て》


 梨花の背筋に冷たいものが走る。


(生きていた……でもなぜ、今? なぜ、私に?)


 そして――妃の記憶に封じられていた何かが、再び目を覚ましつつある。



 翌朝。寅の刻。


 梅苑はまだ薄暗く、白い花が仄かに香る。そこに、ひとりの影が立っていた。


 それは、確かに“白蓮”だった。


「……梨花殿。こうして、顔を合わせるのは初めてですね」


 白蓮は静かに微笑んだ。


「私は、妃様に仕えていた。そして彼女を守るため、あることを仕掛けたのです。……涅槃香を使って」


 梨花は目を細めた。


「あなたが、香を?」


「ええ。私ではない“誰か”が妃様の記憶を操作しようとした時、私は逆に香を仕込み、妃様を眠らせ、記憶を封じたのです」


 梨花の心が波打った。すべてが反転する。


「妃様が、記憶を失っていたのは――あなたの意志?」


 白蓮は頷く。


「記憶を取り戻せば、彼女は再び、政争の渦に引き込まれる。……それが怖かった」


「でも、記録は禁書庫から盗まれた。今度は、誰かがその香を悪用する番です」


 白蓮の表情が曇る。


「そう。それに気づき、私も動き出しました。“あの方”が動いている」


「“あの方”とは?」


 問いかけた瞬間、背後で枝が揺れた。風ではない――人の気配。


 白蓮が一歩、梨花の前に出る。


「もう時間がない。私が妃様に直接、真実を伝えます。それが、私に残された“仕上げ”」


 梨花は何も言わず頷いた。


 白蓮が語るのなら、妃の心は揺れるかもしれない。けれど、それはきっと避けては通れぬもの。



 その日の午後。


 蓮妃のもとに白蓮が訪れたという噂は、静かに、後宮の水面を伝って広がっていった。


 やがて、梨花のもとにもひとつの書状が届いた。


《梨花様。ありがとう。ようやく、思い出しました。私は、彼女を失っていなかった》


 涙の跡がにじむ文字のひとつひとつが、梨花の心に灯をともした。


(ようやく、ここまで来た)


 けれど――彼女の直感は、まだ終わりではないと告げていた。


(これで幕が下りるほど、この事件は浅くない)


 禁書庫に記された処方。それを本当に消そうとしていた者が、誰なのか。


(“あの方”――それが誰か、確かめなければ)


 梨花の視線は、宮廷のさらに深い奥を見据えていた。

完結済みにしておきます。

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