第35話:禁書庫の処方箋
後宮の香の事件がようやく収束した頃、梨花は呼び出しを受け、薬務司の長官室へと向かっていた。
「……お入り」
応対に現れたのは、薬務司の高官・夏言。口元にうっすら笑みを浮かべたまま、帳簿の山に囲まれていた。
「梨花殿、ひとつ、宮中の古い“薬”の整理を頼みたい。場所は……禁書庫だ」
その言葉に、梨花の目がわずかに動いた。
(禁書庫――門外不出の処方と記録が集まる、薬務司の最深部)
そこには、過去の政変や謀殺未遂に関わった薬の調合書さえ封じられているという。
「どうして今、その整理を?」
梨花は問いながらも、その裏にある“何か”を探ろうとする。
「最近、ある一冊が“消えた”との報があってね。正式な記録がなければ、誰が持ち出したかも分からない。形式上、再点検というわけだ」
(……つまり、表向きは整理。実質は“調査”)
「私でよろしいのですか?」
夏言は口角を少し上げて、意味深に答える。
「君ほど禁書の薬を“倫理の枠で見る者”は少ないからね」
*
禁書庫は、外界から隔離された地階にあった。重々しい扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
(……冷たい)
棚には無数の巻物と木簡、香り袋の痕跡も残る古びた調合記録が並ぶ。
そしてその中央に――封印されたはずの一冊だけ、棚から抜き取られた形跡があった。
背表紙の跡には、かすかに文字が残る。
『涅槃香経』
(……まさか、禁忌の精神操作薬の記録書)
“涅槃香”は古く、戦国の王が敵の将軍を虜にするために用いた香薬。正しく使えば精神安定を促すが、悪用すれば記憶の改変や意志の操作すら可能――
梨花は震える指で棚の周囲を調べる。
(この記録が後宮で悪用されたら……“人”の自由さえ奪える)
記録帳の裏に、折り込まれた短冊が一枚だけ残されていた。そこには奇妙な図形と短い言葉。
《白蓮に眠る記憶、未だ花開かず》
(白蓮……また“蓮妃”?)
事件は終わっていなかった。いや、終わらせたと思わされていただけだった。
*
その夜、梨花は蓮妃の居所を訪れた。
妃は以前に比べ、穏やかで落ち着いた表情を取り戻していたが、その瞳の奥に一抹の影が残っていた。
「……梨花。あれ以来、夢を見るのです。どこか知らぬ庭で、誰かの声を聞いている」
「覚えていらっしゃるのですか?」
「ええ、香の霧が晴れてから……私の中の“白蓮”が、ずっと何かを囁いている気がして」
梨花は妃の指先に気づいた。無意識に、爪をぎゅっと掴んでいた。
(抑え込まれた記憶。香で封じられた意志。それが今、少しずつ戻ってきている)
「蓮妃、かつてあなたに“白蓮”という名の女官は付き添っていませんでしたか?」
「白蓮……そう、あの子……!」
妃は目を見開いた。
「私を庇って、処分された……謀反を疑われて……あのとき、私は、何も言えなかった」
それが“誰かに消された記憶”であると確信した梨花は、囁くように問う。
「妃、涅槃香は、その記憶を抑えるために使われていたかもしれません。あなたではなく、誰かの意志によって」
「だとすれば、私は……誰かの都合で記憶さえ奪われたのですね」
*
禁書庫から記録を盗んだ者――
その目的が、“過去を取り戻させないため”だとすれば、次に狙われるのは――
(“思い出した者”)
梨花の胸に不穏な熱が灯った。
(これは、香の事件ではない。後宮を巻き込んだ記憶の封殺)
誰が、何のために、記憶を消し、香で心を縛ったのか。
そして、白蓮は本当に“死んだ”のか。




