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第34話:消えた香の調律師

 翌朝、東廊で回収された香炉の灰を薬務司にて調べ終えた梨花は、表情を険しくしたまま帳簿に視線を走らせていた。


(やはり……これは私の知らぬ処方。蓮花の独自調合ではない。誰か、外部の“香の調律師”がいた)


 調律師――香の調合法と人の心理に通じ、香りを用いて心に作用する者たち。後宮ではその技術は秘伝とされ、極一部の妃や医官しか知らぬ。


「……該当する人物は三人。うち一人は、半年前に都から姿を消している」


 梨花は名簿の端に残る名前に視線を止めた。


「香調師・青蓮せいれん。華宮の出入り歴あり……失踪」


 梨花の眉がわずかに動く。


「この香り、あの人の“癖”に似ている」


 わずかに甘く、しかしその奥に微細な苦み。意図して“不快”を忍ばせることで、無意識に記憶を揺らがせる技法。


 梨花は立ち上がると、香調資料をまとめて薬務司を出た。


(……探そう、香の裏に潜む者を)



 青蓮がかつて暮らしていたという下町の古い楼閣は、すでに閉鎖されて久しいらしかった。


 風にさらされ軋む扉を押して入ると、古びた香材の残り香がわずかに漂っている。そこに、ひとつだけ“新しい気配”があった。


(……誰か、最近ここに来た?)


 床に残る足跡と、触れられた香棚。指先でそっとなぞると、微かに乾いた泥がついていた。


(雨の後に入った人……昨日か、今朝?)


 その瞬間、背後の戸が――ピシャリと閉まった。


 梨花は咄嗟に身を翻す。


「……おや、訪ねてくるとは思いませんでしたよ。梨花様」


 男の声だった。艶やかで、どこか芝居がかった響き。陰に潜むように立っていたのは、青い外套をまとった痩身の男だった。


 彼は目元に黒い布を巻いていたが、口元には笑みが浮かんでいる。


「あなたが、青蓮?」


「元・青蓮。今は名乗る必要もない、影の人間です」


「なぜ逃げたの?」


「“香”は、本来人を癒すもの。でも、望まれれば“壊す”こともできる。私は後者の依頼を受けすぎた。……ある妃を、記憶から追い詰めろと」


 梨花の脳裏に、あの“幻の声”がよぎる。


「蓮妃を?」


「正確には、蓮妃を“狂気”に追い込め、という依頼。私は断ったが……代わりに蓮花という侍女が、その技を手にした」


「彼女が、あなたの処方を?」


「弟子のようなものですから。惜しみない献身……それが妃への忠義なら、私の倫理など何の役にも立たない」


 彼は静かに笑った。


「でも、私の中に後悔がある。それを伝えるため、ここで待っていました」


「何を?」


「“香の封じ方”です」


 青蓮は懐から小瓶を取り出した。透明な液体が揺れている。


「この溶液で香炉を清めれば、あの“声”の処方は完全に中和される。これで妃の記憶にも、侍女の罪にも、幕を引けるでしょう」


 梨花は瓶を受け取り、深く息をついた。


(それは……妃を救う処方であり、真実を葬る薬でもある)


「あなたは、なぜ私にそれを渡すの?」


「私には正す力がない。あなたは、香を“正す”ことができる目を持っている」


 その言葉に、梨花は言葉を失った。


 この後宮で、薬を使う人間は多くいても、「香で救おうとする者」は少ない。


 それは、癒しの仮面をかぶった狂気の技だから。


「……受け取りましょう。でも、これは“救い”ではありません。選択の一つです」


「選んでください、梨花様。誰を“記憶”に残すのか」



 夜。蓮妃の部屋にて、梨花は瓶を手に立っていた。


 妃は床に伏していたが、意識ははっきりしている。だが――何度も、誰かの名をうわ言のように呟いていた。


「……あの子が、私を、許さない……」


 蓮花の執念が、ここまで妃を追い詰めていた。


(香の声は、彼女の記憶を侵していた)


 瓶の封を切るか、それとも……梨花は目を伏せた。


「妃。……どうか、この香りを、今宵で終わりにしましょう」


 その声に、妃はようやく微かに頷いた。


 梨花は香炉に溶液を垂らした。


 香の煙が、静かに、そして確かに消えていく。

一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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