第34話:消えた香の調律師
翌朝、東廊で回収された香炉の灰を薬務司にて調べ終えた梨花は、表情を険しくしたまま帳簿に視線を走らせていた。
(やはり……これは私の知らぬ処方。蓮花の独自調合ではない。誰か、外部の“香の調律師”がいた)
調律師――香の調合法と人の心理に通じ、香りを用いて心に作用する者たち。後宮ではその技術は秘伝とされ、極一部の妃や医官しか知らぬ。
「……該当する人物は三人。うち一人は、半年前に都から姿を消している」
梨花は名簿の端に残る名前に視線を止めた。
「香調師・青蓮。華宮の出入り歴あり……失踪」
梨花の眉がわずかに動く。
「この香り、あの人の“癖”に似ている」
わずかに甘く、しかしその奥に微細な苦み。意図して“不快”を忍ばせることで、無意識に記憶を揺らがせる技法。
梨花は立ち上がると、香調資料をまとめて薬務司を出た。
(……探そう、香の裏に潜む者を)
*
青蓮がかつて暮らしていたという下町の古い楼閣は、すでに閉鎖されて久しいらしかった。
風にさらされ軋む扉を押して入ると、古びた香材の残り香がわずかに漂っている。そこに、ひとつだけ“新しい気配”があった。
(……誰か、最近ここに来た?)
床に残る足跡と、触れられた香棚。指先でそっとなぞると、微かに乾いた泥がついていた。
(雨の後に入った人……昨日か、今朝?)
その瞬間、背後の戸が――ピシャリと閉まった。
梨花は咄嗟に身を翻す。
「……おや、訪ねてくるとは思いませんでしたよ。梨花様」
男の声だった。艶やかで、どこか芝居がかった響き。陰に潜むように立っていたのは、青い外套をまとった痩身の男だった。
彼は目元に黒い布を巻いていたが、口元には笑みが浮かんでいる。
「あなたが、青蓮?」
「元・青蓮。今は名乗る必要もない、影の人間です」
「なぜ逃げたの?」
「“香”は、本来人を癒すもの。でも、望まれれば“壊す”こともできる。私は後者の依頼を受けすぎた。……ある妃を、記憶から追い詰めろと」
梨花の脳裏に、あの“幻の声”がよぎる。
「蓮妃を?」
「正確には、蓮妃を“狂気”に追い込め、という依頼。私は断ったが……代わりに蓮花という侍女が、その技を手にした」
「彼女が、あなたの処方を?」
「弟子のようなものですから。惜しみない献身……それが妃への忠義なら、私の倫理など何の役にも立たない」
彼は静かに笑った。
「でも、私の中に後悔がある。それを伝えるため、ここで待っていました」
「何を?」
「“香の封じ方”です」
青蓮は懐から小瓶を取り出した。透明な液体が揺れている。
「この溶液で香炉を清めれば、あの“声”の処方は完全に中和される。これで妃の記憶にも、侍女の罪にも、幕を引けるでしょう」
梨花は瓶を受け取り、深く息をついた。
(それは……妃を救う処方であり、真実を葬る薬でもある)
「あなたは、なぜ私にそれを渡すの?」
「私には正す力がない。あなたは、香を“正す”ことができる目を持っている」
その言葉に、梨花は言葉を失った。
この後宮で、薬を使う人間は多くいても、「香で救おうとする者」は少ない。
それは、癒しの仮面をかぶった狂気の技だから。
「……受け取りましょう。でも、これは“救い”ではありません。選択の一つです」
「選んでください、梨花様。誰を“記憶”に残すのか」
*
夜。蓮妃の部屋にて、梨花は瓶を手に立っていた。
妃は床に伏していたが、意識ははっきりしている。だが――何度も、誰かの名をうわ言のように呟いていた。
「……あの子が、私を、許さない……」
蓮花の執念が、ここまで妃を追い詰めていた。
(香の声は、彼女の記憶を侵していた)
瓶の封を切るか、それとも……梨花は目を伏せた。
「妃。……どうか、この香りを、今宵で終わりにしましょう」
その声に、妃はようやく微かに頷いた。
梨花は香炉に溶液を垂らした。
香の煙が、静かに、そして確かに消えていく。
一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。




