第33話:東廊の声
東廊――日が差し込まず、昼でも薄暗いその廊下は、誰もが避けて通る。
だが、梨花はその場所に足を運んでいた。
朝の報告で、「不審な声を聞いた」と侍女のひとりが震える声で語ったからだ。
「昨夜、東廊を通ったとき、誰もいないのに――“あの方はもうすぐ罰を受ける”と、はっきり聞こえたんです……」
怖気立つその表情に、梨花はふと胸騒ぎを覚えた。
(ただの噂、で済ませるには妙に具体的すぎる)
すでに誰かが「罰を受ける」べき状況にあるとすれば、それは――
(華宮の毒事件……。あれが、まだ終わっていない可能性もある)
梨花は、廊下の先にある古びた薬草庫の扉をそっと押した。
軋む音が響く。
中には誰の姿もない。ただ、乾いた薬草の匂いと、かすかな線香の煙が残っていた。
(香……? 誰かがここで何かを焚いていた?)
目を細めると、香炉の底に薄紅色の灰が残っていた。
指で軽く触れる。――花香。普通のものではない。沈静作用と幻聴誘導の可能性がある処方だ。
(声が聞こえたのは――“薬の影響”か。それとも、“誰かが意図して焚いた”もの?)
梨花の背筋に冷たい感触が走る。
そして、そのときだった。
「……遅かったね、薬務司の娘さん」
背後から、低い声がした。
梨花はすぐさま振り返る――が、そこに姿はない。廊下の奥、ただ空気が揺れていた。
風にしては、不自然な重さがある。
「誰……?」
声は返ってこない。
ただ、香の気配がまた一段と濃くなった。
(これは……警告?)
梨花は息を止めて香炉を布で包み、すぐに部屋を出る。
*
夜、梨花は薬務司の一室で香の分析を進めていた。
「鎮静、幻覚、それに――微量の燐香。記憶を誘導する……いや、“混乱させる”ための処方」
誰かが東廊に“幻の声”を残すために香を使った。だとすれば、その声の内容――「罰を受ける」は、誰かへの警告、または脅し。
(でも、誰に?)
思い浮かぶのは、告発された華宮の侍女、そして――蓮妃の周辺。
すると、ふと扉の向こうから控えめなノック音がした。
「梨花様、お客様が」
扉を開けると、そこに立っていたのは――芍薬妃だった。
(なぜ、彼女が?)
芍薬妃は、いつもの鋭さを潜めた目で梨花を見つめた。
「あなたに……話したいことがありますの」
梨花はうなずき、彼女を部屋に迎え入れた。
芍薬妃は椅子に腰を下ろすと、静かに口を開いた。
「あなたが調べていた“香”のこと。おそらく、それを焚いたのは、私の付き人――蓮花でしょう」
「蓮花様が……?」
「ええ。あの子は、忠義深い子。私のことを誰よりも案じてくれている。……でも、時にその忠義は、余計なことをするの」
芍薬妃は苦く笑った。
「東廊の幻の声も、あの子が焚いた香の仕業でしょう。あの子なりに、“罰を受けるべき人”を、脅して追い出そうとしたのよ」
「誰を?」
「――蓮妃です」
梨花の脳裏に、一連の糸が繋がっていく。
(蓮妃が“無実”だとしても、恨みを買っていたのは確か。そして、芍薬妃はそれを止めようとせず、付き人を黙認していた)
「……それが妃の答えなのですね」
「私は、私の立場を守る。ただそれだけ。でも……あの子のことだけは、あなたに任せたくて」
芍薬妃の瞳が、初めて“人の弱さ”を覗かせた瞬間だった。
「わかりました。彼女の処遇は、私が責任をもって――公にせずに収めます。ただし、香炉の痕跡は回収させていただきます」
「それで十分」
芍薬妃は立ち上がり、静かに部屋を後にした。
*
夜が深まるなか、梨花は帳の外で香炉を包みながら思う。
(真実は、常に誰かの弱さに寄り添っている)
それを断罪することは簡単。でも――
(“生かす”選択をするのが、私の務めだ)
梨花は香炉を見つめ、小さくつぶやいた。
「誰も罰を受けずに済む方法が、どこかにあるといいのだけれど」
その声は、夜の静寂に溶けていった。




