第32話:嘘の中の真実
薄曇りの空の下、王宮の廊下に風が流れる。遠くで鳴る鼓の音が、どこかせわしなく耳に残った。
「……あれが“本当”だと思ったの?」
朱の帳の向こうで、女官のひとりが笑った。口元は笑っていたが、目はまるで感情を宿していなかった。
梨花は黙って彼女を見つめる。
「毒が使われたのは事実です。けれど、それを持ち込んだのが誰かというのは、まだ断定できません」
「まあ、そうでしょうね。でも、あの子――華宮付きの侍女は、いささか出来すぎていたわ」
梨花はふと、侍女が何度も口にしていた「薬草の整理をしていただけ」という言葉を思い出す。確かに、あの反応には不自然なほどの落ち着きがあった。
「彼女の目元、赤くなっていたでしょう? あれは夜更かしのせいじゃない。泣いていた痕よ。毒が使われたその晩、何があったのか……一度、部屋を訪れてみたら?」
「訪ねるだけで、真実がわかるとは思いませんけれど」
そう言いながらも、梨花は心の奥で、小さなひっかかりを感じていた。
(この話、誰かが意図的に“芝居”を打っている)
廊下を歩く足音。すれ違ったのは、王子付きの近衛兵だった。
視線が合った。軽く頭を下げられる。
梨花は静かに会釈を返し、足を止めた。
「……ひとつ、訊いても?」
「なんなりと」
「華宮付きの侍女が、最近誰かと頻繁に会っているという話を聞いたの。あなたの耳にも入っている?」
近衛兵は数秒、逡巡したあとで頷いた。
「宵の刻、裏庭の廊下あたりで誰かと会っているという話は、何度か」
「その相手は?」
「……申し訳ありません。はっきりと顔を見た者はいないようで。ただ、身分の高い者である可能性が高いとのことでした」
梨花はうなずき、廊下の突き当たりにある小さな戸口に目を向けた。
そこは、侍女の私室へとつながる通用口だった。
*
扉の前で深呼吸をひとつ。
梨花は扉を軽く叩いた。
「失礼します。薬務司の梨花と申します。少しだけ、お話を伺えますか?」
返事はなかった。
再度、扉を叩こうとした瞬間、内側から「どうぞ」と小さく声が返る。
中に入ると、部屋には乾いた香がほのかに残っていた。
「……私、もう、すべて話したはずです」
「いいえ。あなたが“話したいこと”は、まだ聞いていない」
そう言った瞬間、梨花の言葉に侍女の肩がぴくりと揺れる。
「毒の混入は、確かに事故ではなかった。でも、あなたが犯人じゃない。そうでしょう?」
侍女は顔を上げなかった。
「あなたは、“何か”を庇っている。誰を守っているの?」
沈黙の時間が流れる。やがて、絞り出すように、侍女が口を開いた。
「……兄です」
梨花の目が細められた。
「兄?」
「下級貴族の家に仕えていて……今回、王宮に一時的に出入りしていたんです。兄は……華宮さまに、恋をしてしまったの」
それは、哀しいまでに脆い恋だった。
「でも……叶わないとわかっていて、それでも……。だから、兄は……自分の身を引こうとして……。華宮さまの口に入るはずだった薬茶に、あえて“毒草の破片”を混ぜた。微量で、死には至らない量。あれは――自分を追い出すための、最後の手段だったんです」
自分を遠ざけるために、相手を傷つけるふりをする。
なんと歪んだ、なんと不器用な優しさだろう。
「あなたはそれを知っていて、黙っていたのね」
「兄を……守りたかったんです」
梨花はしばし黙り、やがて静かに席を立った。
「庇いきれないこともある。でも、それでも守りたいという気持ちは、わかります」
背を向けたまま、梨花はふと口元に笑みを浮かべる。
「でもね――毒の痕跡は、“香”にも残るのよ。あなたの部屋には、香炉があったでしょう?」
侍女の顔が凍りつく。
「王宮で用いられる香の多くには、“薬剤の揮発成分”を拾う特性がある。証拠は、すでに回収済みよ」
梨花は一礼し、部屋を後にした。
*
廊下に戻ると、昼下がりの陽がようやく顔を覗かせていた。
その光の中で、梨花はふと空を仰ぐ。
(嘘の中にある真実は、時に真実以上の痛みを孕んでいる)
だけど、それでも。
誰かの思いを知り、それを引き受けるのが、自分の仕事だ。
軽く息を吐き、歩き出す。
梨花の影が、静かに伸びていった。




