第31話:香りの奥に潜むもの
秋雨が、廊下の欄干を濡らしている。
朝靄の中、白磁のような光に包まれて、後宮の庭がしんと静まり返っていた。
「……香りが、違うわ」
梨花は、小花の執務室の戸口でふと立ち止まった。
朝の挨拶にと訪ねたつもりだったが、部屋の奥から漂ってくるのは、これまでと異なる調香。白檀をベースにした重たく湿った香り──まるで“心を鎮める”ことに特化した処方。
その香に混じって、どこか“血”の匂いに似た違和感が微かに鼻先をかすめた。
梨花は慎重に扉を開けた。
「小花?」
部屋には誰もいない。
代わりに、香炉の火がまだ燻っていた。
近づくと、調香盤の上に見慣れぬ香材が置かれている。
端の紙片には、細筆で“沈香・墨蘭調合”と書かれていた。
沈香──精神安定、鎮静、記憶への作用。
墨蘭──古くは“秘密を包む香”と呼ばれたもの。
「この香り、小花自身の手によるものじゃない……」
香材の混ぜ方に“手慣れた痕跡”が見える。それも、最近急に身についた手ではない。
それはあたかも、何年も前から“調香師”としての技術を持つ者の手。
「小花の部屋に、誰が……?」
そのとき、足音が背後から近づいた。
「おや、貴女がいらしていたのですね」
現れたのは芳妃付き筆頭侍女──韓女。
彼女の腕には小さな香包が抱えられている。
「これは……?」
梨花の視線に気づいた韓女は微笑んだ。
「妃さまが、調香師・白鶴斎から直接頂いた“封じ香”です。あの方、今は故郷に戻られておられますが……この香りは、“沈香”と“墨蘭”を組み合わせた静香術。妃さまは、夜もよく眠れるようになったと仰せでした」
「その香が……小花の部屋にも?」
「ええ。芳妃さまは、あの子にご執心ですもの。“目覚め”を促す香──だとか」
梨花の心に、小さな刺が立った。
──“目覚め”?
墨蘭が持つ効果は“封じ”の反面、“隠された記憶”を呼び覚ますとも言われている。
(まさか……小花の記憶に、何か……?)
そのとき、梨花の懐の中で、一枚の文が震えた。
封蝋のない紙。毎夜届く“あの”問いかけ。
今宵の文面には、こう記されていた。
【この香を知っていますか?】
【それは、あなたが“殺した”誰かの香りです】
【今宵、香がすべてを語り始めます──】
梨花は、思わず紙を握りしめた。
これは警告だ。いや、予告なのか。
「小花を……探さないと」
梨花は駆け出した。
香りの奥に潜む《過去》が、目を覚まそうとしていた──。
そして、次に香炉の煙が立ち上がるとき、後宮にまた一つの“真実”が露わになる。




