第30話:嘘をつく薬草と、誠を告げぬ者
春風が村境を撫でる朝、診療院の門前には、ひとりの老婆が立っていた。
「どうぞ、お入りください」
梨花が声をかけると、老婆は眉をひそめたまま、どこか怯えたような面持ちで足を踏み入れた。
「……娘が、な、なんだかおかしゅうて」
老婆は言いにくそうに言った。
「いえ、わしが言うと、おかしく聞こえるかもしれんが。あの子、急に笑わなくなって。毎晩、血の匂いがする、って言うんじゃ」
梨花は静かに頷き、老婆の家の様子を尋ねた。娘は十五歳。春の苗代の支度に追われて家族も疲弊している。だが、血の匂いという訴えはあまりにも不穏だった。
「お名前を伺っても?」
「橘の娘、紗子と申します」
その名に、梨花の脳裏に微かな記憶が甦った。――橘家はかつて、この村の薬草摘みを司っていた一族。今は落ちぶれているが、山の薬草や毒草に詳しい者が何人もいた。
(血の匂い。嗅覚の幻覚、あるいは――薬か)
梨花は翌日、村外れの橘家を訪ねた。
◆
「……誰かが、見てるの」
その部屋にいた娘は、穏やかな顔をしていた。だが目だけは違う。水面に落ちる影を見ているような、遠い目だった。
部屋に薬草の匂いが満ちている。ほんのりと甘い、けれど土の下から湧き出すような湿った香り。
「これは……」
梨花はすぐに気づいた。
「——槿香」
細かく刻まれたその葉は、夢見草とも呼ばれる。過去の幻影や強い感情を呼び戻す、微細な幻覚作用を持つ植物だ。
「紗子さん、これを焚いていませんか?」
「……祖母が。夜、焚いてくれると、少し楽になるの」
「それは、本当に“楽”ですか?」
梨花の声に、紗子はゆるく首を振った。
「楽になるのに、胸が苦しくなるんです。……なぜか、お父様の声が、ずっと、耳から離れないの」
橘家の父親は、数年前に村の製薬場で事故死したと聞いている。
(槿香に含まれる“セシン”は、記憶に付随した感情を強調する性質がある……。それが繰り返されれば、悲しみや恐怖は強化されてしまう)
その夜、梨花は橘家の裏庭に踏み込んだ。
そこにあったのは、整然と乾かされた槿香の葉と、不自然なまでに大切に保管された土瓶。その瓶には、別の成分も付着していた。
「——これは……“千夜露”?」
千夜露は、本来は疲労回復に用いられるが、槿香と一緒に摂取すると、抑圧された記憶を鮮烈に呼び戻す働きがある。だがその作用が過剰になると、“夢”と“現実”の境目が曖昧になり、幻聴や妄想が表れるのだ。
(わざと、混ぜられている……? いったい、誰が)
梨花は再び、老婆に話を聞いた。
「お祖母様。娘さんが使っていた薬草のこと、ご存知でしたか?」
老婆は一瞬だけ目を逸らした。その目に宿った一瞬の“躊躇い”を、梨花は見逃さなかった。
「槿香と千夜露を混ぜて、毎夜炊くなど、普通の療法ではありません。しかも、あれほどの量。……本当に“あの子のため”でしたか?」
老婆は震える唇で、ぽつりと答えた。
「……わたしが、“忘れたかった”んだよ。あの夜、あの子を叱りつけて、父親を探しに行かせたのは、わたしだった」
「……!」
「だから、思い出してほしくなかった。あの子にも、わたしにも。だから、少しでも“やわらげよう”と思って……」
梨花は静かに、ひとつ息を吐いた。
「薬は、真実から目を逸らすためのものではありません。癒しは、真実の中にしか、宿りません」
その言葉に、老婆は崩れるように泣き出した。
◆
後日、梨花は紗子を診療院に迎え、体内に残る薬成分の排出と、記憶の整理を少しずつ始めた。
少女は少しずつ笑うようになり、幻の血の匂いも次第に消えていった。
「先生、あの薬草……うそつきだったんですね」
紗子の言葉に、梨花は小さく首を振った。
「いいえ。あれは、ただ“本当のこと”しか言わなかったのよ。ただ、わたしたちが、誠を受け止める準備が、まだできていなかっただけ」
少女の目に、光が戻る。
それは、過去に向き合った者だけが持てる、確かな光だった。




