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第29話:翡翠の帯と消えた香炉

 その日、紫禁苑の一角にて、女官の一人が突如泣き叫びながら香炉を探していた。


「どうしても、どうしても……! あれがないと、私は――!」


 焦げた香の匂いが残る床の上に、跪く女官。名は翠芳すいほう。まだ十五六の若さで、やや気の強そうな眼差しと、翡翠の帯を誇らしげに締める姿が印象的だった。


 梨花は、その場に偶然居合わせていた。


 落ち着き払っているように見える彼女の胸の内には、別の鼓動が響いていた。


(この香炉……消えたのではなく、“隠された”?)


 そう思わせるには、いくつかの理由があった。


 一つ、部屋には火の痕があるにも関わらず、灰が均されていた。


 二つ、香炉台の下には小さな丸い跡が一つ――誰かが静かに何かを持ち去った印。


 三つ、翠芳の手首に残る薄い火傷の痕。それを彼女は、ずっと袖で隠していた。


 梨花は女官長に促され、翠芳の部屋で薬を見立てる名目で、静かに彼女へ問いを重ねた。


「その翡翠の帯、きれいですね。香と、似合います」


 何気ない一言のように見せかけ、実際には鋭い探針だった。


 翠芳の瞳が揺れた。翡翠の帯は、香炉と同じ意匠。鳳凰に香草をくわえた、珍しい文様――。


「……姉さまの形見なの。誰にも、渡さないって決めてたのに」


「形見?」


「昔、お付きの姉さまが……ここで火傷をして、罰を受けて、亡くなったの。その時、香炉と帯だけが遺されたの」


 翠芳の声音は震えていた。けれど、梨花はさらに一歩、心に踏み込んだ。


「あなたは、香炉を“守った”のですね? 消えた香炉は、今も近くにある。あの香を焚けば、誰かが――“あの事件”を思い出してしまう。だから、香炉ごと隠した」


 部屋の天井裏に、煤けた小さな箱が見つかったのはその直後だった。


 香炉は、無傷でそこにあった。小さな翡翠の文様が、今もその身に美しく刻まれていた。


 翠芳は、静かにうなだれた。


「姉さまは、間違っていなかった。ただ……誰にも、信じてもらえなかっただけ。わたし、同じ思いをしたくなかった」


 その場にいた女官たちが、彼女の言葉に息を飲む。


 梨花はそっと膝をついて、翠芳の手を取った。


「香りは、人の記憶を開くもの。でも、真実を包むこともある。あなたの選んだ沈黙が、姉さまの名誉を守ったなら……それもまた、ひとつのやさしさです」


 そうして、事件は“香炉の行方不明”として静かに処理された。


 だが、梨花は心の片隅に、小さな疑念を残していた。


(翡翠の香炉は……本当に、姉のものだったのか?)


 ある記録に、同じ香炉が別の女官に贈られたと記されていた――。


 それは、後に「香炉連続消失事件」と呼ばれる騒動の幕開けにすぎなかった。

2話更新が終わったので、一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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