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第28話:沈黙の薬瓶

 朝露がまだ石畳を濡らしているうちに、梨花は診療院の棚を整理していた。左手には薄茶色の薬瓶、右手には帳簿。瓶の中身は白濁した液体で、軽く揺らすととろりとした粘度を示す。


「……これは、先月仕入れたはずの睡蓮の抽出液ね」


 瓶に貼られた小さな札には「昏睡用/微量投与」と、細い筆文字で記されていた。その字体がどこか揺らいでいるのが気にかかる。


(こんな字、私、書いたかしら……?)


 梨花は軽く眉をひそめ、棚に戻すのをためらった。日々扱う薬瓶の中でも、このような高濃度の抽出液はそう頻繁に用いない。患者の症状によっては命を左右しかねない、まさに“刃”のような薬である。


 背後で微かな音がした。戸の外から、誰かが診療院を訪れた気配。


「失礼いたします、医師殿。お時間をいただけますか」


 現れたのは、地元の酒造で働く女中・志乃。頬には寝不足のようなくすみが浮かんでおり、目の下には薄く隈もある。だが、なにより異様だったのは、彼女が両の手で包むようにして持っていた一枚の風呂敷。


 中には、まるで眠っているような女児がひとり。


「昨夜からずっと目を覚まさないのです。呼吸はしているのですが……おかしな夢でも見ているようで」


 女児の口元にはわずかな笑みが浮かび、頬はやや紅潮している。しかし、どれだけ呼びかけても意識を戻さないという。


(睡蓮の昏睡状態に酷似している。でも、こんな幼子にそんな薬がどうして……?)


 梨花は心中で小さく息をのむ。


 診察の後、女児の服や持ち物を検分した梨花は、ふと、袖口の布に染みた微かな匂いに気づいた。かすかに甘く、だが青臭さも残る——睡蓮の抽出液特有の香気。


「志乃さん、この子、酒蔵にある水瓶のそばで遊んでいませんでしたか?」


「……そういえば、昨日の夕暮れ、裏の井戸近くで遊んでいたのを見かけました。まさか、そこに……!」


 梨花は立ち上がり、急ぎ裏口から酒蔵へと向かった。


 薄暗い蔵の片隅、水瓶の中をのぞくと、底にはわずかに白濁した沈殿物が見える。しかも、瓶の縁には薬瓶の欠片と思しき破片が引っかかっていた。


(誰かが、ここに薬を捨てたのね。でも、それを幼子が……)


 犯意ではない。だが、過失というにはあまりに危うい。


 梨花はその夜、記録帳に細かな報告と共に、「昏睡用/微量投与」の瓶を封印し、調査中として棚から外した。


 ——ただ、疑念だけが心に残る。


 あの瓶の文字。あの微かな筆跡の揺らぎ。それはまるで、何かに怯えながら書いたような、震える筆先の跡だった。


(この薬は、誰が、どんな目的で開けたの?)


 診療院の静けさの中、梨花はその問いをひとり胸に繰り返していた。

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