第26話:揺れる香りと沈黙の器
院内の風が、妙に静かだった。
高台にある辺境診療院の裏手、秋が忍び寄る頃。草葉を擦る風に、どこか焦げたような匂いが混じっていた。嗅ぎ慣れぬそれを、私はふと鼻先で確かめる。
「……煙草のようで、煙草じゃない」
かすかに薬草のような香りも混じる。あれは、どこかで──いや、つい先日。あの老僧の衣に染み込んでいた香りと、よく似ている。
部屋に戻ると、ナギが一心不乱に何かを書き連ねていた。紙の上を走る筆の音は緊張に満ち、まるで時間に追い立てられているようだった。
「……そんなに急いでどうしたの?」
「記録をつけているの。あの患者の、最期の様子を」
そう言って、ナギは筆を止めた。彼女の手元には、一枚の布片があった。燃えた跡のある、僧衣の切れ端。
「薬包を包んでいた布。妙な香りがしていたから、保管しておいたの」
「その香り……」
私が呟いた時、記憶の断片がよみがえる。
──あの老僧は、診療院に来た初日、どこかで火を使っていた。
──草履の裏が、黒く煤けていた。
まさか。
「ナギ、その香り、少し嗅がせて」
布を鼻先に近づけると、微かにだが、薬草の名残が感じられた。ただの香ではない。これは調合された何か……焼かれて香りを放つ、意図的なものだ。
私は引き出しから過去の調香記録を取り出す。紙の上を指でなぞり、ある項目で止まった。
「“香木と乾燥甘草を共に燻すと、強い鎮静作用を持つが、過剰摂取により錯乱、ひいては呼吸抑制を引き起こす”」
「それって……薬草で作った、毒?」
ナギの瞳が、息を呑む音と共に揺れる。
「……つまり、自ら命を絶った?」
「いや、違う。むしろ“絶たされた”可能性がある。香りは自己処方ではない。あの部屋にいた他の者の衣にも、この香りはなかった」
「じゃあ、誰が……?」
私は小さく首を振った。
真実はまだ、煙の向こう側にある。
だが確実に、この香りが“意図されたもの”であるなら、あの僧侶の死は“自然”ではなかった。
それだけは、確信できた。
私は立ち上がり、風に揺れる草木の向こうを見た。
香りが残るということは、誰かがそれを“遺していった”のだ。記憶と証拠の中に、小さな“歪み”が紛れている。
「ナギ。衣の持ち主を洗い出そう。あとは、あの部屋にいた者の証言。口にしなかった者ほど、何かを知っているかもしれない」
「了解。私も聞き込みを進める」
風が、また香りを連れてくる。
それはまるで、亡き僧侶の訴えのように──沈黙のなかで、香だけが真実を囁いているかのようだった。




